こんにちは。おひさしぶりです。もう年末です。やんなっちゃいますね。

今日はブルーハーツの歌のことを書きます。

まず前振り。こないだ、録画してた「ごめんね青春」を見ました。放送時(3年前)に見ていたので2回目。話をほどよく忘れていたので、二度目も面白かったです。(しかしこのドラマ、小ネタがちょっと古すぎて、若い人にはわからないことが多いんじゃないだろうか。風間杜夫がパイロットのコスプレとか。阿修羅原とか。)

主人公の平ちゃんは30くらいで、30というともう大人だから、なんとなく今の自分と似たようなものと思って見てたわけですけど、途中で平ちゃんが14年前に高校生だったという話がでてきまして、わたしは14年前にすでに31歳だったので、思いがけず、かなりびっくりしました。(前に見たときも、たしか同じようにびっくりしたと思う。)

とはいえ、平ちゃんの兄の一平をえなりかずきが演じてて、えなりは今でこそおじさんですけど、わたしが大学に入ったころはまだ小学1年か2年でしたから、そんなもんか、てゆうか、ドンマイ先生、えなりに手を出しちゃまずいだろ、というのはとにかく、わたしは自分で思ってたより年をとっているようでして、そのことはいちおう知ってるつもりだったんだけど、やっぱり子供がいないからか、少し油断すると平ちゃんと同じグループに入ってるつもりになってたりするようなので、気を付けなきゃいけないと思いました。

てゆうか、女子高の方の校長先生を斉藤由貴がやってたわけですけど、「はいすくーる落書」はわたしが高校1年の時で、あれはいづみちゃんが新任教師という設定だったので23才とかですから、ようするにわたしは校長先生と7つ違いでしかないわけで、30才と45才っていうのは、実はかなり違うんだなぁと実感した次第です。15と30が違うのはわかるんですけど、30と45も同じだけ違うんですよね。で、まあ、たいへん勝手な話でもうしわけないんですけど、45に対して60っていうと、げ、おじいさん、と思ってしまいます。ごめんなさい。でもわたしのことだから、油断してたら60になったとき、45の人と同じグループのつもりになったりしかねませんね。気を付けよう。


校長先生が蜂谷先生より若かったころ。わたしとしては、はいすくーる落書きの小ネタも入れてほしかった。同じTBSだったわけだし。

で、「はいすくーる落書」の主題歌がブルーハーツのTRAIN-TRAINだったんですよ、ということで、今日の本題に入りたいと思いますが、トレイン・トレインの歌詞の解釈です。(そういえば、ごめんね青春の音楽担当がなぜかマーシーだった。)

ブルーハーツらしい率直な歌なので、解釈が必要だなんて思ったことすらなかったんですが、「トレイン・トレイン 歌詞 意味」とかでぐぐってみると、どうもいろいろ突飛な解釈が出回っているようなので、ひとつわたしも解釈してみようかと思った次第です。とはいえ、簡単な歌なんで、わかってる人には当たり前すぎて面白くないと思います。(しかしながら、当たり前の解釈を、そんなの当たり前のことだからといって書かないでいると、結果的にネット上には突飛な解釈しか存在しないということになりかねないので、当たり前の解釈でも、ちゃんと書いておいた方がいいですよね。これってネトウがたくさんいるように見えるのと似たような話ですかね。)

トレイン・トレインは、わたしにとってはあまりにコンテンポラリーだったので、わたしのまわりでこの歌を違うように理解している人はいなかったような気がしていたんですが、実際のところどうなんでしょうね?友達とは一緒によく歌ったりしてましたけど、歌詞の意味について話し合ったりはしたことがないので、正確にはわかりません。案外、わたしからみると突飛な解釈をしていた可能性はないわけではないです。

歌詞についてはこちらをどうぞ。

歌はこれ。

さてまず、
「栄光に向かって走るあの列車に乗って行こう」、「裸足のままで飛び出してあの列車に乗って行こう」、「見えない自由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくる」、「本当の声を聴かせておくれよ」、「あなたを抱きしめていたい」、「シュールな夢をみていたい」、「土砂降りの痛みの中を傘もささず走っていく」、「やらしさもきたならしさもむき出しにして走ってく」、「生きてる方がいい」、「だから僕は歌うんだよ、精いっぱいでかい声で」
ざっくりいって、これらはぜんぶ同じことを歌ってる部分です。

歌詞中の言葉でいうなら、「加速」している状態とでも言ったらいいでしょうか。
で、なにが加速してるのかというと、「生」です。「自由」でも「オレたち」でも「列車」でも「ブルース」でも「実存」でもいいんですけど。

もうちょっと解釈的なことを言うとすると、この歌の場合、「列車に乗る」というのは、いわゆる「レールに乗る」ことではありません。ですから、行き先が重要なんじゃありません。
また、「列車」といっても、電車ではなくてスチーム・ロコモティブ(SL)のことですから、「力づよさ」とか、「激しい燃焼」とか、「加速」とか、「煙もくもく」といったようなイメージです。山手線なんかを想像したらぜんぜんだめです。山手線はそもそも環状線だし。

「栄光に向かって走るあの列車」というのは、「走ること」それ自体の象徴であって、「栄光とは何か」ということは、そこまで重要ではありません。「栄光」が重要なんじゃなくて、「栄光に向かって走ること」が重要なんです。で、なんにせよ、走るためには行き先が必要だという程度のことです。行き先うんぬんより、「とにかく今すぐ走り出そうぜ」というのがこの歌のテーマであり、ほとんどそれだけしか歌っていません。

解釈する際に、「栄光」ってなんだろう?とか考えて、変な方向に行っちゃった人がけっこういるようです。「お金を儲けること」だとか、「名声を得ること」だとか、「人から称賛されること」だとか。ぜんぶだめです。「メジャーデビューすること」とか、「レコードが売れること」とかいうのになると、いっそ面白いと思いましたけど。

ともかく、「栄光」っていうのは、そういうんじゃないです。少なくとも、ブルーハーツのいう「栄光」はそういうもんじゃないです。そういうのを自然と「栄光」だと思ってしまっているんだとしたら、ちょっと自分の人間観とか世界観とかを考え直した方がいいと思います。自分の「本当の声」にちゃんと耳を傾けてみてください。(その結果、やっぱり栄光ってそういうもんだろって思うなら、まあそれはその人の自由です。)

「栄光」というのは、体験によって自分でわかるもんです。「わかる」というと言い過ぎかもしれませんが、予感くらいはできていないとだめだろうと思います。

世界中にさだめられた どんな記念日なんかより あなたが生きている今日は どんなにすばらしいだろう
世界中にたてられてる どんな記念碑なんかより あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう

他の誰が何と言おうと、わたしにとって一番重要なのは、「あなたが生きている今日」なわけですが、「栄光」というのもおんなじで、誰が何と言おうと、わたしにとっての「栄光」は、わたしの体験が決めるものです。他の誰かに与えてもらうもんじゃありません。「すばらしい」とか、「意味がある」とか、「栄光」というのは、それによってわたしが生きる所以のもので、これらは、誰かが決めた「記念日」とか「記念碑」なんかより、わたしにとっては断然重要だって話です。

「見えない自由が欲しくて 見えない銃を撃ちまくる」のところは、どうも「銃」に過剰反応してしまう人がいたりして、「知らずに人を傷つけてしまう」とか、最近の風潮かなとも思いますが、ナイーブだと思います。ここは素直に、「見えない自由」というのは、具体的に「○○からの自由」とは言えないような自由、要するに、語の正確な意味での「自由」ってことでいいと思います。「何が栄光かは自分で決める自由」というか。

もっとも、「見えない銃を撃ちまくる」とも言っているので、若者らしい反抗という要素ももちろんあります。つまり「自由」とはいえ、一から自分で作り上げるというわけではなく、押し付けられた価値への反抗という形で意識される側面もあるってことですね。とはいえそれは「見えない」ものなので、半分くらい自分の認識の問題だと思います。「押し付けられた」とは言い条、自分からそうやって見てしまうという側面もあるってことですね。だから銃で撃つのは、そういう風に見てしまう自分のことでもあります。(あと、ここでの「銃で撃つ」というイメージには、もちろん、コミュニケーション的な意味もあります。「銃を撃つ」に関して、「人を傷つけてしまう」という点を否定的に受け取っている方がいましたが、コミュニケーションとしての銃撃ということであるなら、むしろ、「外壁を貫通しないと交流できない」、さらに、「孤立した存在者は生きていない」ということから、ある意味、「生きるためにはむしろ傷つけることが必要だ」という肯定的な意味になります。)

「弱い者たちが夕暮れ さらに弱いものを叩く」というのは、外部にある価値観の連鎖(体系)を認めてしまうと、自分もそうした構造に取り込まれてしまうってことですね。ある視点からすると、社会というのはそういうものだということです。で、「そんなのはごめんだ」という気持ちは、「ほんとうのこと」に向かうための発条(バネ)になります。で、「ブルースは加速していく」わけです。

というわけで、とにかく重要なのは「栄光に向かって走る」ってこと。「裸足」で、「傘」もささず、自分を守ろうとか、とりつくろおうとかせずに、「やらしさもきたならしさも、むき出しにして走ってく」こと。そうやって、自分の「本当の声」だけに忠実に走っていくことでしか、「栄光」にはたどり着けない。てか、そうやって走っていくことだけが、人間にとって「栄光」であるってこと

てな感じです。字義どおりの解釈で、当たり前すぎるようですが、こんな簡単な歌でも通じない人には通じないらしいというのは、ある意味ちょっと驚きでした。

ちょっと具体的なアドバイスですが、歌の解釈をする場合、なにを言っているかわからないところを自分にもわかる言葉でパラフレーズするというのは皆さんやっていることだと思いますが、その際に、象徴的イメージを一義的な概念に変換してしまうのはあまりよくありません。失敗するとぜんぶが台無しになってしまいます。「トレイン・トレイン」の場合は「栄光に向かって走る列車」ですけど、「栄光」とか「列車」とかのイメージを取り違えると、その時点でその解釈は失敗します。解釈の失敗というのは、全体のドライブが失われる(楽曲を殺す)ということです。やらない方がずっといい解釈ってことです。(でもまあ、なにごとも失敗しながら学ばなければ上達しないわけですから、どんな解釈でも、その人自身にとっては、やらないよりはやった方がいいです。つまり、解釈することに関していえば、どんな下手な解釈でも、しないよりしたほうがずっといいわけですが、解釈それ自体としては、ほとんど意味がない解釈とか、やらない方がましな解釈というのは存在します。そういうのを見分けることができるようになるのにも修業が必要ですけれど。)

というわけで、解釈する際には、中心的イメージについてよくわからなかったら、その言葉自体にはなるべく手を付けずに、その曲の世界の中でどのような系統の意味と連関しているかだけに注目して解釈するのがよいと思います。(上の場合でいえば、「お金」とか「名声」とかいう要素は楽曲の世界には出てきていません。てゆうかむしろ敵対しています。というわけで、「栄光」という言葉からそういう意味を読み取るのは恣意的にすぎます。「愛」とか「実存」という意味だったら出てくるので、そっちに寄せて解釈すべきです。もちろん、これは初心者向けのアドバイスですから、上級者の方は自由になさってくださってかまいません。)

最後に一点、列車というのは大量輸送の乗り物ですけど、「トレイン・トレイン」の場合は、そこまで大量という感じではありません。とはいえ、たとえば奥田民生の「イージューライダー」なんかと比べると、一緒に行こうぜという感じはかなり強いです。あるいは若さでしょうか。
「イージューライダー」は、ライダーといいつつ車に乗ってるイメージですが、歌の内容はトレイン・トレインとほぼ同じことを言っています。要するに、自分の生き方は自分で決めるということ。しかしながら両者を比べると、民生はだいぶ軽いというか、不真面目というか、逃避的というか、「トレイン・トレイン」が列車であることの意味はそこらへんにあるように思います。やっぱり実存をかけて疾走するには仲間が必要なんだと思います。民生の方は、サラリーマンがさぼって息抜きしてるというような感じがします。年齢も関係あるんでしょうが。ユニコーンのころ(昔の)はそれなりに疾走感がありましたから。

今ちょっと聞いてみて思ったんですが、「大げさに言うのならばきっとそういうことなんだろう」とか言ってるので、民生はようするに照れているんでしょうね。「自由」で「青春」で「どこまでも行こう」なんだけど、ストレートに言うには照れ臭いってことみたいです。(あと、そこまで駆り立てられていない。)
さすがに30になって(E10というのは30のことです)、自分の自由な生き方を、外と衝突しないでも普通に実現できるようになっているってことなのかもしれません。「従心所欲不踰矩」みたいな感じなんでしょうか。余裕があるわけですけど、この余裕は欺瞞なんじゃないかという気がしないでもありません。最後のところで「すべて欲しがる欲望を」とか言ってますけど、本当にワイルドな欲望がまだ猛っているのか?というのは、少々疑わしいというか、「そうでありたいなあ」という程度のものなんでしょう。「うまくやりぬく賢さ」はあるでしょうけど。

あ、そういえば、トレインスポッティングというのもありましたね。トレインスポッターというのは、もともとはテツ(鉄道オタク)のことで、そこから転じてなぜかヤク中という意味になっているらしいですけど、トレインスポッティングもやっぱりトレイン感はありますね。一概に、ヤク中ものというのはトレイン感があるというか。一緒に楽しいことをしてるうちにみんな死んでいくって感じです。わたしはそういうのけっこう好き。

んではまた。

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