こんにちは。前に読んでるといってた漫画の「センゴク」ですけど、ようやく第二部まで読み終わりました。
「苗字+官職+名」については、結論としてもう一回書く予定なんですけど、今回はそれとは別の話で、読んでてちょっと辛かった変な言葉遣いについて書こうと思います。

まだ全体の半分も読んでいないので、今後変わっていく可能性もありますけど、第一部と第二部を比べると、どうも第二部に入ってから、なんか変な言葉遣いが多くなってきたように感じます。
主役の権兵衛氏は基本的に現代口語でしゃべってるからいいんですが、一瞬しか出てこない敵キャラとかだと、へんな文語調の言葉遣いをしたりして、これがけっこう、読んでてきついです。
あとは信長。けど、信長はもしかしたら、変な文法でしゃべるというキャラ設定なのかもしれません。

今のところ、いちばんへんちくりんに感じる言葉遣いは、四段活用の「あたふ」を「~できる」という意味で使うというものです。
もちろん、辞書で「あたふ」をひくと、三番目くらいの意味に「できる」とは書いてあるわけですけど、実際には、打消しを伴って使われることがほとんどです。つまり、「○○することあたはず」「○○するにあたはず」「○○するあたはず」といった形で、「できない」という用法がほとんどだということですね。

語源的には、「アタ」+「アフ」で、「アタ」は仇とか当たりとかの「アタ」、「アフ」は合うで、意味としては「ぴったりあう」です。
で、名詞形は「アタヒ」で、これは今では値段っていう意味になってますね。

「センゴク」での用例をいくつかあげます。

これとか、「それ以外の努力はなすこと能わぬのだ」と言った方がよいと思います。「できる」「できない」というのは、動詞についていうわけなので、基本的には動詞に付かないとおかしな感じがします。


「センゴク」では、途中から、このような「○○能う」という言葉遣いがたくさん出てくるんですが、ぱっと見意味が解らない場合が多くて困ります。この場合は、たぶん、「わたしたちは官兵衛を信用できるのか?」と聞いてるんでしょうが、「官兵衛はなにかを信用する能力があるのか?」って意味かと思ってしまったりして、いちいちストレスです。

「信用できる」といいたい場合には、現代口語になりますが、「値する」といえばおかしくないと思います。「官兵衛は信用に値するのか」と書けば何の問題もないのに、なんでわざわざ変な言葉遣いをするんでしょうか。もっともこの場合でも、「に」は付けてほしいところです。「信用値する」だと、ちょっと誤植にしか見えませんので。(もっとも、そもそも「あたふ」の名詞形で「あたひ」ができたのに、それをまたサ変動詞にして「値する」とかって、よく考えると変なことではあります。)

あとは、同じく訓読調で、「信用すべけんや」とか。あるいは、「信用すべきや」、または、「信用しうるや」とかでしょうか。

ちなみに、「信用」という熟語は、ちょっとモダンな感じがする言葉のように思います。「信用」という熟語がなんとなく現代的なので、文をわざと昔っぽくする必要はなくて(昔っぽくするとむしろ変)、「信用しうるや」とか、「信用に値するか」とか、現代的な言い回しでかまわないし、その方がバランスがよいと思います。
「信用」を和語でいうなら「たのむ」とかでしょうか。「たのむべきや」とかだと素直な感じですね。

一方、否定の場合だと、
こうなるんですが、やっぱりふつうは「信用すること能わず」「信用するに能わず」「信用する能わず」だと思います。ただし、肯定文で「○○能う」という場合よりは意味が取りやすいです。
サ変動詞が嫌いなのだったら、「信用に能わず」という言い方だったら、ないわけではないような気もしますが、そもそも「あたふ(四段)」という動詞は、漢文訓読調で使う言葉なので、定型的な用例がほとんどですから、一般的でない使い方をされると意味が取れなくなって困ります。
漢文訓読の場合は、「能」とあったら「能く(よく)」と訓み、「不能」とあったら「能わず(あたわず)」と訓むのが普通です。

次は、「能う」関係なんですが、文法的にちょっと違うだろうという例。
与えるという意味の「あた(与)ふ」は下二段活用なので、「あたふる」という活用がありますが(連体形「歌よみに与ふる書」とか)、「あた(能)ふ」は四段活用なので、そもそも「あたふる」という活用はありません。もとは同根の言葉なので、混同してしまうんでしょうかね。
「与ふ」は「へ・へ・ふ・ふる・ふれ・へよ」、「能ふ」は「は・ひ・ふ・ふ・へ・へ」です。(ここでの「能うる」は、口語の下二段活用で「え・え・うる・うる・うれ・えよ」になってるようですね。「与える」は下一段活用でしょうから、もしかすると作者は、「能う・五段活用」、「能うる・下二段活用」、「与える・下一段活用」という三つの動詞を区別しているのかもしれません。)

☆ちょっと脱線。「城取り」の話☆

細かい話になりますが、上の例では敵の城を奪うことを「城取り」と言ってますが、「城取り」というのは城を構えることで、敵の城を奪うことではありません。前に「陣取り」について書いたことがありますが、あれと同様です。

  • 燈明寺の前にて、三万余騎を七手に分て、七の城を押阻て、先対城をぞ取られける。兼ての廃立には、「前なる兵は城に向ひ逢ふて合戦を致し、後なる足軽は櫓をかき屏(へい)を塗て、対城を取すましたらんずる後、漸々に攻落すべし。」と議定せられたりけるが、平泉寺の衆徒のこもりたる藤島の城、以外に色めき渡て、軈(やが)て落つべく見へける間、数万の寄手是に機を得て、先対城の沙汰をさしおき、屏に著堀につかつてをめき叫でせめ戦ふ。(太平記・義貞自害事)

対城というのは、「むかひ城」で、城を攻撃するための拠点(付け城)のことです。このように、城とか陣とかに関して「取る」という場合は、「首を取る」というような場合とは違って、人のものを取るという意味では使いません。ここでは、城を攻めるにあたって、前衛の部隊が戦いつつ、後方の部隊が矢倉を組み塀を塗って対城を作り、その後にじっくり攻撃するという作戦を立てた云々とあります。(廃立というのは何のことかわかりませんけど、要するに軍議のことでしょう。)
太平記でざっと検索してみたんですが、「城」を「取る」という例は、「向城(対城)を取る」ばかりで、この場合の「取る」は「作る」という意味です。敵の城を「取る」という用例はありませんでした。

  • 鷹巣城の四辺を千百重に被囲、三十余箇所の向ひ城をぞ取たりける。(畑六郎左衛門事)
  • 石川河原に先向城をとる。(芳野炎上事)
  • 高越後守師泰三千余騎にて、石河々原に向城を取て、互に寄つ被寄つ、合戦の止隙もなし。(賀名生皇居事)
  • 只四方の峯々に向城を取て、二年三年にも攻落せとて、(三角入道謀叛事)
  • 楠退治の為に、石河々原に向城を取て被居たりける畠山阿波将監国清も、其勢千余騎にて馳参る。(宮方京攻事)
  • 其時御方の勢城を攻んずる体にて、向城を取て、(細川相摸守討死事付西長尾軍事)

向城の場合、「作る」という意味で、「かまへる」・「こしらへる」・「とる」という場合があるようです。
敵の城については、普通に「攻め落とす」でいいと思います。

太平記はこちら。検索できて便利です。

☆話を元に戻して☆


決め顔をしているところ申し訳ないんですが、「陥落あたうる」って、かなりおかしいです。先ほどの例と同様下二段活用しているのは御愛嬌として、「信用あたふ」だったら、まだ信用するのが自分だろうからいいんですけど、陥落するのは相手ですよね?「陥落することができる」って、かなり意味がわかりません。
文脈から言って、「陥落させることができる」っていう意味でしょうから、シンプルに「陥落させうるであろう」でいいでしょう。陥落させることができない場合は、「陥落させること能わざるであろう」ですね。


自分で判断できる」ってことらしい。
自ら判断しうる」でいいですね。「で」は余計です。



これらは、「計算できるな?」「軍略を立てられるな?」と聞いてる(念を押している)場面でした。普通にそういえばいいと思います。


考え出すことができる者」という意味。
ちょっとこなれないですけど、「反撃する術を考えいだしうるものは」くらいでしょうか。


異論を出すことができない」という意味。
シンプルに「異論はない・・・」のほうがいいです。
「異論を出すことができない」という文はちょっと変です。どうしてかというと、異論があるなら出すべきだし、ないなら出しようがないからです。重要なのは、異論があるかないかであって、出したいか出したくないかではありません。異論を出したいんだけど出せないっていうのは、反論するための反論ができないってだけのことです。


かなりきつくなってきましたが、「それをなしうるのだ」という意味。どうも全般に、意味上の動詞がないのが気になります。英語でいうと、We can that!っていうような感じに近いです。doを付けてほしい。


これは正直、まったく意味がわからなかった。文脈からいうと、秀吉に対して官兵衛が、悪役は自分が引き受けると言っていて、その気持ちを受け取って、自分は残酷なことをしない明るい大将としてふるまおうと思ったということらしいので、あまり自信はありませんが、「自分にできることは」って意味なんでしょう。たぶん。


これもきつかったです。吉川経家が鳥取城の主将としてやってきたところですから、文脈からいうと、たぶん、「お前なら、初対面の家臣団を率いて立派に城を守り切ることができるだろう」という意味だと思うんですが。
というわけで、「初顔の家臣団にても(城を)守りうるであろう」かな。あるいは、家臣を守るという意味かしらん?それだったら、「初顔の家臣団を守りうるであろう」ですね。

以上、「能う」関係のおかしな言い回しでした。
まとめると、肯定で「~できる」と言いたいときは、動詞「得(う)」を使っとくのが無難だと思います。あとは、「べし」とか、「○○に値する」とか、そのあたりを適宜。
あと、漢文訓読調で熟語(信用・判断・算用・陥落)を使う場合は、漢文訓読調らしく、ちゃんとサ変にしてほしいです。(後から出てくるんですが、静謐とか安寧とか、形容動詞(タリ・ナリ)にすべきところをしていない場合も割とありました。)

その他、変な文


変というわけではないんですが、「命を惜しまん」は、古文だと「惜しまむ」の音便で「命を惜しもう」という意味、現代文だったら「惜しまぬ」の音便で「惜しまない」という意味です。わたしは最初、命を惜しむのかと思ったんですが、次のコマを見たら惜しまないという意味でした。
まあこれは、どっちでもいいですけど、わたしのように混乱する人もいるかもしれないので、音便せずに「命を惜しまぬ」と言わせるか、または、「命を惜しまず」と言わせるのがよいと思います。


これもよく出てきて居心地がわるいんですが、「給ふ」の命令形「給へ」を使うべき場面で、なぜか「給う」というのですね。「たまう」の音便の「たもう」のことを、ものを頼む言い方かなんかと勘違いされてるんでしょうか。
よくお母さんとかが、「よそ見するな」とか、「はやく食べなさい」とかいう代わりに、「よそ見しない!」とか、「はやく食べる!」とか、終止形で命令することがありますけど、そういった言い回しのたぐいなんですかね?つまり、非常に強い命令ってこと。(自分の意志がそのまま相手の意志でもあるような表現。あるいは、そういう意思を持てという命令。)
もっともそれだったら、「たまう」って尊敬語を使うのと相いれないような感じもします。
ここはやはり、「本拠を撃ちたまえ」か、「本拠を撃たせ給え」あたりが妥当だと思います。「せたまふ」というのは、使役+尊敬で、より一層尊敬の気持ちを出す表現です。「ご家来にお命じになられてください」って感じですね。
「挟撃たもう」というのは、「挟撃したまへ」、もっと丁寧に言いたいときは、「挟撃せさせたまへ」でしょうね。ここでも挟撃をサ変にしないのは、なんかこだわりがあるんでしょうか?

★3/11追記
ものを頼む際の「給う」については、「たもる(給る・賜る)」と混同しているのかもしれない、と後から気づきました。
「たまはる」→「たもふる」→「たもる(ラ四段)」で、意味は「○○してくださる」、あと、命令形は「たもれ」ですけど、語尾を省略(?)して「○○してたも」という言い方もあるので、これと「たまう」の音便「たもう」を勘違いしたとか。ありそうな感じがしますがどうでしょう。要するに、「たもう」じゃなくて「たも」もしくは「たもれ」だったらよかったって話ですね。狂言とかでよくある言い方です。


これは「静謐なるかな」の方が普通ですね。「かな」は体言についてもいいんですけど、「静謐」とかの場合、形容動詞として使う方が普通だと思います。例えば、「悠哉悠哉、輾転反側」とか、普通は「ゆうなるかなゆうなるかな、てんてんとしてはんそくす」って訓みますよね。「ゆうかなゆうかな」だとちょっとおかしい感じがします。
もうひとつ。

「かな」は連体形接続で、「くし」の連体形は「くしき」ですから、「くしきかな」でないといけません。同じ意味で「あやし」だったら、「あやしかな」じゃなくて「あやしきかな」でしょう。「よきかな」とか「暑きかな」と言って、「よしかな」とか「暑しかな」とは言わないでしょう。
これは単純に、連体形接続を終止形接続にしてるので間違いです。


これは堀久太郎が秀吉に言ってるのですが、上様が「こしらえており申し」てはいけないです。天皇とかのために「こしらえさせており申す」のならかまわないのですが。ここでは秀吉・権兵衛その他諸将のためなので、謙譲語を使ってはいけません。たぶん、「申す」っていうのは、候文とかで使うやつっぽいイメージなんでしょうから、「拵へさせてをられ候」とか、「拵へしめたまひて候」とか、そんなかんじでどうでしょうか。


「存ず」はサ変で、「か」は連体形接続ですから、「存ずるか」です。「存ずか」って、かなりピジンな感じがします。とはいえ、この漫画の信長は、かなりエキセントリックなしゃべり方をするので、あるいはそういう信長語なのかもしれません。
口語の場合、同じくサ変で「存ずる」になりますが、「存じ(ない)」「存じ(ます)」「存ずる」「存ずる(とき)」「存ずれ(ば)」「存じろ」で、終止形と連体形が同じなのですが、「存ず」の活用もそうだと勘違いした(「存ず」の連体形を「存ず」だと勘違いしている)のか、あるいは「か」を終止形接続だと勘違いしてるんでしょうか。
「存ず」の活用は、「ぜ・じ・ず・ずる・ずれ・ぜ(よ)」ですから、連体形は「ずる」です。
また、終助詞「か」は、体言または用言の連体形につきます。


我も好機と見る」です。あるいは、「我にも好機と見ゆ」です。「見ゆ」(下二段)は、自然と目に入ってくるという意味だからです。自分が見るなら「見る」(上一段)です。


信長のセリフですが、これは「せしむ」が正しいです。「せしむる」は連体形です。助動詞「らる」を付けたいのなら、未然形接続ですから「せしめらる」です。この場合は、「自害させなさった(尊敬)」あるいは「自害させるようにさせられた(受け身)」って意味になります。信長が頼周に敬語を使うわけはないでしょうから、誰かの計略か強要によって、頼周が杉浦を自害させざるをえないように仕向けられたっていう意味になるでしょうか。もっとも、たぶん、単に終止形と連体形を間違えただけで、「自害させた」といいたいだけだろうだとは思いますが。(口語の使役の助動詞「せる・させる」が、終止形に「る」がついてるので、なんとなく「しむ」にも「る」を付けてみたって感じでしょうか。この作者は、一体に、終止形によけいな「る」を付けたがるくせがあるような気がします。「能うる」とか。あ、でも、「存ずか」の場合は、必要な「る」を省いてますね。わけがわからん。)


ケアレスミスかもしれませんが、「恐る」は下二段活用ですので「恐るる故」です。「れ・れ・る・るる・るれ・れよ」です。あるいは口語で下一段(恐れる)なら、「れ・れ・れる・れる・れれ・れよ」というわけで、これも必要な「る」あるいは「れ」が足りない例ですね。
「逃ぐる」については、古文なら「逃ぐ」という下二段活用になりますが、ここではたぶん、現代語の下二段活用になってるんでしょう。「逃げない・逃げます・逃ぐる・逃ぐるとき・逃ぐれば・逃げよ」ですね。現代語の場合、普通は「逃げる」という下一段(げ・げ・げる・げる・げれ・げよ)が正当とされていますけど、下二段になる場合もあります。訛りの一種として許容範囲なんだと思います。
この場合、上下の節ともに、「恐る」あるいは「恐るる」、「逃ぐ」あるいは「逃ぐる」という下二段活用をしていると見て、「恐るる故に逃ぐるにあらず」としておきましょう。
下一段だとすると、「恐れる故に逃げるにあらず」となります。どっちでもいいですけど、「恐れる」と「逃げる」くらいはそろえてほしいところです。つまり、「恐れる故に逃ぐるにあらず」とか、「恐るる故に逃げるにあらず」とかいうのは、ちょっとみっともなくて気持ち悪いのでやめてほしいということです。

正しい例もありました。

次、

禁止の終助詞「な」は終止形接続ですから、文語の下二段なら「狼狽ふな」、口語の下二段なら「狼狽うるな」、口語の下一段なら「狼狽えるな」です。「狼狽え(へ)」は、上記どれでも未然形か連用形です。
未然形接続の「な」といえば、「いざ漕ぎ出でな」とか、上代語ですが、「~したい」「~しよう」「~してほしい」という意味の終助詞です。ですから、「狼狽えな」の場合は、主語が一人称単数なら「狼狽えたい」、一人称複数なら「狼狽えよう」、二人称なら「狼狽えてほしい」となります。


文脈から、見てたのは自分ですので、自尊敬語というやつですね。「て参りました」は謙譲の意味を付ける補助動詞です。
「私はあなたを四年の間ご覧になってさしあげておりました」ですかね。こなれないですけど、敬語が使えない人感をだしとけばいいかな。


「たとふ(例ふ・喩ふ)」は下二段活用です。未然形+「ば」なら「たとへば」、已然形+「ば」なら「たとふれば」です。終止形が「たとふ」なので、四段活用とまちがったんでしょうか。口語なら「たとえる」で下一段(たとえれば)なので、五段活用と間違えようがないですからね。
それはともかく、下二段あるいは下一段活用なので、「たとわ」という活用はありません。「たとわば」がありなら、「たとわない」「たといます」がありということになってしまいます。


「如くの」の「の」はいらないと思います。
「綺羅」というのはキラキラした服を着てる人、転じて立派な人という意味で、綺羅を着た立派な人が、星のごとく、つまりたくさんいるという意味の言葉です。
ああそうか、「綺羅星の如く」の「将」ってことですかね。「翔ぶが如く」の「西郷隆盛」とか、「龍が如く」の「桐生一馬」とか、そういう言い方? 日本語が不自由な方で、形容詞の活用がうまくできない人が、「美しいの人」とか、「おいしいのごちそう」とか、形容詞に「の」を付けてわざわざ連体詞にして使うことがありますが、「如くの」という言いまわしには、そういうピジンな感じがすごくします。てか、「如くの」は連用形+の+体言ですから、「美しくの人」、「おいしくのごちそう」なので、さらにピジン度が増す感じです。
「綺羅星の如く」というと、普通は、「居並ぶ将星」とか続くわけで、つまり「居並ぶ」という用言を修飾しているから連用形で「如く」なわけですが、「将」という体言を修飾したい場合は、「綺羅星の如き将」といえばすみます。もっとも、上にのべたように、「綺羅星の如く」は大物が多数いるという意味ですから、やっぱり、「綺羅星の如くいる多数の将」というのが正しいですね。で、それを省略して「綺羅星の如くの将」なんですかね。そう考えると、なんとなくわからないでもないですね。

最後、雑賀孫市の決めセリフなので、一時期しょっちゅう出て来て、あと、単行本の裏表紙とか帯とかにデカデカと書いてあったんだけど、かなり謎文です。

どうしてこうなるのかよくわかりません。
これ、文法的にはなんだかちっともわからないんですが、意味的には「殺すなかれ」ってだけのような気がします。主人公の家来(架空の人物)の鉄砲の師匠が孫市で、孫市は彼に鉄砲術を教えるのだけど、同時に、人を殺すんじゃないとも教えていて、という場面で、「ころしむる勿れ」というのです。
あるいは、「殺さしむるなかれ」(殺させちゃいけない)かしらとも思いましたが、自分が誰かを鉄砲で撃つ話をしているので、やっぱり単に殺しちゃいけないってだけのことだろうと思います。
で、なんでこうなったのかは、まったく思い当たりません。「ころしむ」っていう動詞なんですかね?下二段で、「ころしめずころしめたりころしむころしむるときころしむればころしめよ」って活用するんですかね?そうだとしたら、連体形で「殺しむる(こと)なかれ」となりますから、文法的には正しいようですけど、残念ながら下二段活用の「ころしむ」などという動詞はありませんし、意味を推測することもできませんね。

以上、ちょっと変な言葉遣いについてでした。
現代の作品なので、基本現代日本語で書いているわけで、読む方もそんなに古文が得意な人ばかりじゃないでしょうから、あんまり正しい古文で書いてもしょうがないわけですが、とはいえ、あまりにめちゃくちゃな活用とかで書いてあると、中高生とかが変な言葉遣いを覚えてしまうかもしれないので、少しは気を付けて欲しいと思います。

あと、こんなふうにいろいろ文句をつけていると、わたしがなんか言葉遣いにうるさい人のように思われるかもしれませんが、わたし自身は、ふだん話しているときには、かなり崩れた活用とかしているので、ぜんぜんうるさいとかいうことはありません。例えば今日は、サ変動詞を、「しる(ない)」「しる(ます)」「しる」「しる(とき)」「しるれ(ば)」「しるれ」という活用でしゃべってました。もちろん家でだけですけど。こんな活用でも、意外と意味は通じます。
他には、「お盆」を動詞化して、お盆にもの乗せて運ぶっていう自動詞なんですけど、「おぼんら(ない)・おぼんろ(う)」「おぼんり(ます)」「おぼんる」「おぼんる(とき)」「おぼんれ(ば)」「おぼんれ」という五段活用にして使ったりしてます。これは意外と便利ですよ。

正しい言い方を知った上で間違った言い方をするというのは問題ないですが、正しい言い方を知らずに間違った言い方をするというのは問題だと思いますので、みなさん、高校古文ぐらいは教養として身につけておいた方がいいかなと思います。
あと、講談社の編集の人だか、校正の人だか、もうちょっとちゃんと仕事した方がいいと思います。

吉川経家氏

ブラックエンジェルスの松田トリビュートかな?

2 Comments on 「センゴク」シリーズでの変な言葉遣い

  1. 最後のひとコマで吹いた( ´,_ゝ`)プッ
    校閲さん仕事してないのか、仕事放棄してるんじゃないですかね、突っ込みどころ多すぎてwww
    個人的には、漫画は現代語でいいと思います。
    こないだ見たアメコミ映画なんて、アフリカの人が代々行ってきた儀式なのに英語でしたよwww
    伝統の儀式を英語ってあかんやろって、内心突っ込みながら楽しく見ました。
    映画自体は面白かったんですけどね。
    古代エジプトの人が英語とか、ハリウッド映画じゃ普通なんで、別にそれでいいじゃんと思いますね。
    たぶん、この漫画、うちなら途中で読むの挫折するな、どんだけ面白くても……
    これを読んでテストで答えちゃう子供とかいたら問題になりますよね^^;
    うちの好きな漫画家さんの漫画で、歴史小説を校閲している校閲さんがその歴史小説を書いている作者(ヒロイン)に、
    『この小説を読んでいる子供たちのことを思うと(校閲を)厳しくする(作者を甘やかさずおかしいところはおかしいという)』というようなせりふがあります。
    この漫画の校閲さんや出版社の人はどう思ってるんでしょうねぇ……

    • ようやく最新刊まで読みました。累計55巻もあります。

      「あたう」については、もはや慣れてしまって、そんなに違和感を感じなくなってしまいました。おそろしい。

      よく知らない人がそれらしく感じることが重要ということなんでしょうが、正しさをキープしたままそれらしくするというのは難しいことなのかもしれません。

      それはともかく、要するに、わたしが言いたかったことは、作者さんはともかく、編集はもうちょっと古文の勉強をしろよということですね。ネームの段階で、これはちょっと意味がわかりませんって言ってあげないとだめでしょう。

      ただ、わたしとしてはいろいろつっこみどころが多かったのでそれなりにおもしろかったわけですけど。

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