こんばんわ。今日は休みだったので、太宰治の「斜陽」を読みました。

昨日やっと、「おおかみこども」の解釈をでかしたんですが(でかすっていうのは、仕上げるって意味の方言)、でかしてみて、やたら図式的な解釈になってるねと、今日、読み返してみて思ったんだけど、でもこれは、わたしのせいじゃなくて、「おおかみこども」がそういう話だから、しょうがないんじゃないかなと思いました。

(先に結論だけ言っておくと、「おおかみこども」は、叙情的に描くべきだったテーマについて、叙事的に描いたから、へんてこりんなものになったんじゃない?ってことです。)

で、それと関連して「斜陽」が読みたくなったというわけなんですが。
まず、なんで斜陽なのかということですけど、実際のところは、昨日から単に読みたいなという気分になってただけなんですが、なんで読みたくなってたのかな?と考えてみると、どうもプロットが「おおかみこども」の前半と似ているからのようです。(斜陽は、子どもを生む決心をするところまでですので、子育ての話ではぜんぜんないです。)

太宰についてですが、わたしはおそらく「斜陽」がいちばんすきです。最近はぜんぜん読んでないので、もうかなり忘れちゃいましたが、高校生のときは「パンドラの匣」が好きでした。あとはまあ、だいたい読みましたけど、「女生徒」も好きだったかな。
で、太宰の何が好きなのかというと、文が好きです。もっとも、小説っていうのは、実体としては文章しかないわけなんですけど。「ストーリーとしておもしろい」というより、「キャラを表現している文が好き」ってことですね。

小説には、おおざっぱにわけて、叙事的なものと叙情的なものがあるとすると、太宰はもちろん叙情的な作家です。まあ、日本の「文学」だと、圧倒的に叙情的な作家が多いわけなんですが、太宰は特にそうだといっていいでしょう。

例えば「パンドラの匣」なんて、「美少年が結核の療養所に入って、看護婦さんたちといちゃいちゃする話」って、あらすじだけ聞くとかなり読む気を失うというか、どこのラノベですか?って感じになるわけですけど、文章でキャラを表現することがうまいので、そういうストーリーとか構造とかとは関係なく、おもしろく読めるんですね。ちなみに、「パンドラの匣」は最近映画化されたようですけど、そういうわけで、たぶん面白くないだろうなと思います。ただの話としてみると、ほぼ意味がない話っていうか、太宰の文と切り離して「内容」だけ取り出されると、たぶんかなりむかつく仕上がりになるんじゃないかなと予想されます。

さて、そういうわけで斜陽ですけど、例えばこんな感じです。
うれしくて、うれしくて、すうとからだが煙になって空に吸われて行くような気持ちでした。おわかりになります? なぜ、私が、うれしかったか。おわかりにならなかったら、・・・・・・殴るわよ。
いちど、本当に、こちらへ遊びにいらっしゃいません?

主人公が女なので、太宰もちょっとおふざけがすぎるというか、おもしろがってるっぽいところがあるんですが、実はそれによって、男主人公のときより、いい感じに力が抜けてるような気がします。男主人公の場合は、ウザイ場合が多いです。少年キャラだったらいいんだけど。本人に近い設定のキャラだと、だいたいウザくて読むのが辛いです。

それに対して、「女生徒」とかもそうですが、太宰の一人称の女キャラは、リアルだなと思うんですけど、この場合のリアルっていうのは、「ほんとにいそう」って意味じゃなくて(いるかいないかで言えば、女生徒の子とか、かず子とか、そんなやついねーよってキャラです。てか、その辺にいそうな人が小説の主人公になってもつまらないです)、キャラとして実在感がある(キャラがたってる)っていう意味です。

こちらは、かず子が、好きになった作家の上原の家に訪ねていった場面。
敵。私はそう思わないけれども、しかし、この奥さまとお子さんは、いつかは私を敵と思って憎む事があるに違いないのだ。それを考えたら、私の恋も、一時にさめ果てたような気持ちになって、下駄の鼻緒をすげかえ、立ってはたはたと手を打ち合わせて両手の汚れを払い落としながら、わびしさが猛然と身の回りに押し寄せてくる気配に堪えかね、お座敷に駆け上って、まっくら闇の中で奥さまのお手を掴んで泣こうかしらと、ぐらぐら烈しく動揺したけれども、ふと、その後の自分のしらじらしい何とも形のつかぬ味気ない姿を考え、いやになり、
「ありがとうございました。」
と、ばか丁寧なお辞儀をして、外へ出て、こがらしに吹かれ、戦闘、開始、恋する、すき、こがれる、本当に恋する、本当にすき、本当にこがれる、恋しいのだから仕様がない、すきなのだから仕様がない、こがれているのだから仕様がない、あの奥さまはたしかに珍らしくいいお方、あのお嬢さんもお綺麗だ、けれども私は、神の審判の台に立たされたって、少しも自分はやましいと思わぬ、人間は、恋と革命のために生まれて来たのだ、神も罰し給うはずがない、私はみじんも悪くない、本当にすきなのだから大威張り、あのひとに一目お逢いするまで、二晩でも三晩でも野宿しても、必ず。

ってな感じです。おもしろいでしょ?

で、この上原っていう男が、「おおかみおとこ」みたいなキャラで、まあ、「おおかみおとこ」よりはましですけど、要するに、いかにも太宰的なダメ男キャラなんですが、「しくじった。惚れちゃった。」という有名なセリフを吐いた男です。「おおかみおとこ」も、せめてそれくらいのセリフを吐ければよかったんですがねw

というような感じで、だいたい「斜陽」がどんなものかはお分かりになったかと思うんですけど、ほぼ同じプロットなのに、「おおかみこども」と受ける印象がぜんぜん違うのは、やっぱりキャラの存在感がぜんぜん違うってことだなと思いました。

以下、叙事と叙情について思ったことをつらつら書きます。

○叙事と叙情のはなし
大雑把な分類ですが、物語のタイプに、叙事と叙情というわけ方があります。
叙事というのは、見る人に何らかの出来事(事件)について述べるのが主な関心になっているもの(ストーリー重視)、叙情というのは、見る人に何らかの感情を体験させるのが主な関心になっているもの(キャラ重視)、と、とりあえず言ってみます。

例えば、里見八犬伝なんかは、典型的な叙事ですし、いわゆる昔話とか神話なんかは、叙事の典型だといわれています。司馬遼太郎とか山田風太郎とか、まんがでいえば、男子のまんがはだいたい叙事的で、ドラゴンボールとか、ドカベンとか、「誰かと誰かが戦ってどっちが勝った」とか、「戦って世界平和」とか、「甲子園で春夏通算4回優勝」とか、そういう話ですね。

それに対して、伊勢物語とか源氏物語なんかは、叙情的なものの典型とされてます。平安女流日記文学とか、エッセイ的なものとか、人情物、少女マンガ的なものはわりと叙情的です。寅さんシリーズなんかは、長いのでサーガのように思われるかもしれませんが、どちらかというと叙情的だと思います。
ただ、まったくなんの出来事もおきなければ、なんの感情もでないので、純粋な叙情というものはありません。抽象画とか(カンディンスキーだと概念って言いそうですが)、歌詞のない音楽なんかは、ほぼ叙事のない叙情といってよいかもしれませんが、物語としてはまずありえないですね。
一般に、男の人と比べて、女の人の書くものや読むものは、どちらかというと叙情的だといえるでしょう。で、歴史的にいうと、叙事の方が古くからあり、叙情の方が新しいです。だから叙情というのは、「叙情を重視した叙事」ということでいいかとおもいます。

さて、叙事的な話の場合、作者がもっとも表現したいのは、「世界」的なものです。AとBが戦ったという出来事が語られるとき、AとBという二人の人がいる場(世界)が問題になってるわけですね。というわけで、叙事的物語では、あるテーマがあって、そのテーマに沿ってキャラや事件が配されるという構造になることが多いと思います。(悪く言えば、ご都合主義ですね。)

叙事とは、辞書的には「ありのままを物語る」こととされていますが、この「ありのまま」というのは、物語を語る人の視点からみたありのままという意味ですね。ですから作者の視点(世界)が表現されることになるわけです。(叙事の方が客観的とされますが、これは物語る視点が高いところにある(いわゆる神の視点)ということで、より客観的な主観になってるということですね。)
叙事世界

また、叙事的なものの場合、人物はあくまである出来事にかかわる際の「役割」として要請されるものなので、「人間」を描くというよりは、「役割」を描くのがメインになります。というわけで、キャラ描写はどうしても記号的になりやすい傾向がありますね。横山光輝の三国志のキャラとか。(キャラよりもストーリーの方が重要ってこと)

これに対して、叙情的な話の場合、作者が最も表現したいのは、「ある感情」です。で、この感情は、見る人が登場人物に感情移入することで伝えられます。「感情」はひとりの人物のひとつの感情の場合もありますが、ふつうは、さまざまな登場人物のさまざまな感情を述べることが多いです(作者も読者も「感情」に興味があるから)。というわけで、さまざまな人物の「それぞれの立ち位置から見た世界」が多重的に表現されることが多く、見る人は、そういうさまざまなキャラクターに感情移入することで、物語の中に「入り込む」わけですね。(叙事的物語の場合は、「入り込む」でなしに、「俯瞰的に見る」といった感じでしょうか。)
叙情世界
で、そういう諸世界を統合するような世界観(物語のテーマとか作者の主張など)は、あまり前面に出てこない場合が多いような気がしますし、さまざまな入口(誰に感情移入するか)から物語に入り込むため、叙事的なものに対する時より、受け取り側が読み取る意味は様々なものになります(そもそも重要なのは意味ではなくて感情ですし)。(ストーリーよりキャラの方が重要。)
(余談ですが、SF(叙事)におけるセンスオブワンダーは感情ですが、これは登場人物が感じる感情ではなしに、読者が物語から受け取る感情(感銘)ですね。叙事的なものによって引き起こされる感情は、このように、「神の視点」から世界を眺めることによってもたらされる感情ですね。ギリシャ悲劇なんか典型的ですね。)

と、だいたい以上のようなことを考えてみたんですが、「おおかみこども」は、叙情的なものとして見るには、そういう表現がなさ過ぎて無理っていうか、やっぱり作者の意図として、叙事的な話にしようと思って作ってるんだろうから、ストーリーラインから構造を出すっていう風に読むしかないんじゃないかなと思います。
で、そういうことなら、ちょっと「おおかみこども」のプロットは、弱すぎるなと。話としておもしろくないし。そもそも構造がだめだし。と思います。

おおかみこどもについて、ひとことで言うなら、「もっとキャラをちゃんと描け」ってことに尽きるかと思います。

映画とかアニメという表現は、小説に比べると、どうしても叙事的になりがちだと思います。で、日本の文学は、どっちかというと叙情的なものの方が多いので、文芸物の映画化ってだいたいつまらなくなるんだと思います。

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