一昨日と昨日と、二日かかって小野不由美の「残穢」を読みました。
ホントかどうか知りませんが、帯とか解説とかみると、一般に、すごい怖いといわれているようなんですが、わたしはぜんぜん怖くなかった。どうも全般的に小野不由美の本に対しては、おかしいだろと突っ込んでしまうところが多くて、怖いと思えないことが多いです。おそらくわたしは、今の普通の日本人とは、感覚がちょっとずれてるってことなんでしょうね。ま、だいたい知ってますけど。

で、読んでる時からいろいろ言いたいことがあったので、大急ぎで読んじゃって、忘れないうちにと思って、一気に書いたら、すごいたくさんになっちゃった。ずれてる人の言うことだから、よくわからないとは思いますが。

後半は、穢れについてのわたしの考えなので、「残穢」には直接関係ない話です。

残穢の感想

だいぶ前に「屍鬼」を読んだんですが、これも最初の方はちょっと怖かったんですけど、屍鬼たちがしゃべりだしたらぜんぜん怖くなくなっちゃって、むしろこっけいな話だなと思ってしまいました。血が欲しいなら輸血用の血液でも買えばいいじゃん。もしくは、襲う前に頼んでみろよ。とか。人間の方も、屍鬼だからって、いきなり皆殺しにすることはないだろ、顔見知りなんだからさあ、とか。あと、主役の女の子(屍鬼の親玉)が村を全部屍鬼化しようとした理由が、「さびしかったから」じゃねーよ。とかね。

まあたぶん、小野不由美的には、普通の人間の心の底には、すげーこわい情念があるって言いたいんでしょう。確かに彼女は、そういう情念的な鬱屈したキャラを描くのはうまいと思いますが、それって「渡る世間は鬼ばかり」の恐怖とおんなじものだと思います。村人が、顔見知りの屍鬼を追い詰めてって、胸に杭を打ち込んでやっつけるとか、そりゃ怖いは怖いですけど、それって、一般の人でも、状況によってはサイコパスになっちゃうって話ですよね。関東大震災の時に、朝鮮人が井戸に毒を入れたとかいうデマが出て、普通の人が暴徒化して虐殺したとかさ。そういうやつと同じ気がする。

それはともかく。「残穢」についてですが、まず、残穢という言葉は一般にはありません。小野さんが作った言葉だと思います。で、その意味は、どこかで異常な死がおきて、死穢が発生して、あまりに強力な穢れだったからか、それが祓われずに残留して、いろいろ怪異を起こすって意味らしいです。で、そういう穢れが伝染したり、重複したりして、一見関係なさそうなアパートの部屋に幽霊が出たりしたみたいっていう話でした。

そもそもわたしは、昔から幽霊ってあんまり好きじゃなくて、どうしてかというと、幽霊には依存的なやつが多くてうっとおしいからです。女の人の幽霊が多いっていうのは、一般的にいって、女の人の方が依存的な人が多いからだろうと思います。(幽霊がよく出てきたのは江戸時代までですから、江戸時代の女の人は、今よりも社会的に依存的にあらざるをえなかったということかもしれません。しかしながら、一般に女の人の方が共感したり同情したりする能力が高いわけですが、そういう能力は、自我の強さと反比例するともいえるかもしれません。)

依存的ということでいうと、恐怖心というのは、依存的な方がより感じやすいといえるかと思います。
例えば、先週3歳の甥っ子と遊んできたんですが、彼なんかは、まわりの大人がやさしく接しているのが当たり前の状態だから、ちょっと冷たくされたりすると、途端に恐怖を感じるんだろうなあと思いました。自分に笑いかけてこない知らない大人の男なんかは、けっこう怖いと感じるんじゃないでしょうか。それは彼が、まったく依存的な存在で、出来事に対して自分で対処できないからですね。

わたしも、子供のころは怖いことがたくさんありました。4歳くらいの時、おばあちゃんから鎌倉土産に、妹と一つづつ、小さい大仏をもらったことがありました。で、その大仏がすごい気に入って、いっつも大仏で遊んでたんだけど、そんなに大仏が好きなら本物に会いに行こうって、鎌倉に連れてってもらったことがありました。妹は、大仏を見るとまっしぐらに走って行って大喜びだったんだけど、わたしは、想像してたのより巨大すぎて、大仏が見えるところに行ったら恐怖のあまり泣き叫んでしまって、大丈夫だから大仏の中に入ろうと言われても、絶対いやって座り込んでしまって、そしたら母親が怒っちゃって、あんたが来たいって言ったんだからちゃんと大仏の中に入りなさい!って、無理やり大仏の中に連れて行かれたことがありました。あれはかなり怖かったなあ。(もうちょっとおっきくなってからですが、村の祭りで、年に二回、夜中に仁王の股をくぐらなきゃいけないってのがあって、あれもかなり怖かったなあ。)

どうもわたしは、大きいものが怖かったようで、同じころだと思いますが、それまでは父親(170cmくらいでわりと痩せてた)より大きい人を見たことがなかったからなんでしょうが、185cm・90kgくらいあるおじさんに初めて会った時に、びっくりして泣いたこともありました。

こういうのは、それまで自分が知ってたことを越えるものに出会った時に感じる恐怖ですね。

大人になっても幽霊とかが怖いと思う人は、それだけ、「幽霊なんていない」みたいな先入観があって、「それにもかかわらず」幽霊に会ってしまうと、今までの自分の世界が壊されるから怖いと感じるんだと思います。

で、「残穢」に出てくる幽霊ですけど、最初に出てくるのは、首つりをした女の人で、家の中でぶらぶらしてるっぽいんですが、帯を引きずってるので、その帯が畳にちょっとさわって、箒で「さっ」って掃いたみたいな音がするわけです。もっとも、ぶら下がってる女の人が見えることはまれで、だいたいの場合は、箒で掃くみたいな音がするだけのようです。

さらに、この女の人の自殺は、大元の「穢れ」ではなくって、この女の人も残穢に触れたのが遠因で自殺しちゃったようなんですけど、この人が死んだことによって、もともとあった残穢が強化されて、現代まで残留してしまったということのようでした。

で、部屋の中でぶらぶらしてる女の人の幽霊ですが、たまに箒で掃くみたいな音がするだけで、直接的な害はありません。ですけど、それを気にする人は、音を気にするからかどうか、ちょっとおかしくなってしまって、自分も首を吊っちゃったという人もいました。でも、幽霊と同居してたからといって、必ず首を吊っちゃうわけでもなく、実際に吊っちゃった人は一人だけで、その人は、音を気にするあまり若干ノイローゼ気味になって、仕事もうまくいかなくなって、引きこもりになって、最終的に首を吊っちゃったということでした。でまあ、彼が首を吊った部屋(引っ越した先の部屋)にも残穢が伝染して、そこも「出る部屋」になっちゃったらしいんですけど。

幽霊というのは、昔の考えでいえば、成仏できないでさまよってる人なわけですが、一般に、なんで出てくるのか自分でもいまいちわかってないやつが多いと思います。能に出てくる幽霊とかだと、自分が妄執にとらわれてて成仏できないから何とかしてくれと頼んだりするので、だいぶ自分のことが分かっているようなのでいいんですけど、アパートでぶらぶらしてる女の人なんかは、自分が今もぶらぶらしてる自覚すらなさそうで、どうしてほしいとかそういうこともないようです。

つまり、「残穢」に出てくる幽霊は、じっさいのところ本当に幽霊なのかすらわからないもので、幽霊としての意識がないような、ほとんど自然現象みたいなもののような気がします。普通の幽霊だと、自分が受けたサファリングに共感してほしくて出てくるのがほとんどだと思いますが、そういうのだったら、共感してあげるとわりとすんなり成仏するかと思います。でも、残穢に出てくる幽霊っぽいものは、そもそも本人に意識があるのかどうかすらよくわからないもので、だから成仏しようがなさそうでもありますが、逆に言えば、ほっといたらそれまでなんじゃないってことですね。
つまり、風の音とか、雷の音とか、そういう自然現象の音と同じものなんじゃないのってことですね。どうも、サファリングの記憶かなんかが、アカシックレコード的に残留してて、聞こえたり見えたりする人には、音とか映像が聞こえたり見えたりするってだけのことで、幽霊の主体みたいなものはもう存在しないんじゃないかと思います。そういう音やなんかを「怖い」と思うのは、恐竜の化石を見て「怖い」とか思うのと同じで、勝手にそう思ってるだけだと思います。

で、「残穢」というタイトルですが、小野さんも、もろもろの怪異が、そういう自然現象的なものだという意味でつけたんじゃないかと思います。もとになったものは、確かにかつて生きていた人間の「情念」なんでしょうが、今残ってるのは、そういう情念の化石みたいなもので、だから救われなくちゃいけないような主体としての幽霊はいないってことなんじゃないかな。(一般的に言って、幽霊と穢れは違うものですから。)

というわけで、そういう残穢的な怪異に対しては(幽霊に対しても基本的には同じなんですけど)、気にしないのがいちばんだと思います。家の中に虫が入ってきて音を立ててるってのと似たようなものなので、ほっといたからといってたいした害はありません。昔の家はオープンでしたから、虫が入ってくるのは当たり前だったんですが、今の家は網戸をするので基本的に入ってきませんね。でもまあ、入ってきたからといって、特にたいした害もないですから、別に騒ぐ必要はありません。
むしろ、そういうのをことさらに気にする態度こそが、悪い結果を招くのだと思います。(お話なんかで、自分の敷地を柵で囲って、誰も入るなみたいなことを言う人は、いやな奴のステロタイプな表現なわけですが、現代の特に都会では、人の敷地に入ったりするのを極端に嫌いますね。猫が通るのさえ嫌がる人もいます。そういう考えだと、自分の家とか敷地とかに、なんか霊っぽいのが勝手にいるっていうのも、すごい気持ち悪いことのように感じるんでしょうね。これは、現代ではパーソナルスペースが狭くなってるから、それを補完するために、自宅とかを自分だけの領域として確保したいってことかもしれませんが。)

幽霊の場合は、「共感してもらおう」みたいなモチベーションが幽霊の方にありますから、こちらが無視しただけではすまないこともあるかもしれませんが、それでも、こちらがしっかりしてれば、人間に影響を与えたりはなかなかできないように思います。(できるくらいならそもそも幽霊になんかならないよって話ですね。たぶんもうちょっと高級なものになるんだと思います。)

幽霊になってしまった人というのは、「自分ではどうしていいかわかんないから、なんとかして」みたいな依存的な人が多いので、そういう人に対しては、安易に共感するとつけあがって、ますます依存してきます。また、依存的な人は、自分を依存させてくれそうな人をかぎわけて依存してくるので、最初から依存させてくれなさそうな人のところには、出ても無駄なので出てこないように思います。

残穢の場合は、そういう幽霊的なモチベーションもなさそうですし、単に「さっ」ていう音がするとか、風が吹いてるみたいな音がするとか、黒い人影みたいなのがうろうろしてるとか、床下をごそごそ動いて、「みんな死ぬ」とか「死ね」とかつぶやくとか、その程度のことなので、本の中に出てきたおばあさんが言ってたように、「特に悪さをするものではないから、無視しなさい」っていうのがいちばんだと思います。もしくは、猫を飼ってるつもりになってたおばあさんみたいに、猫みたいなものと思って餌でもあげてればいいかと思います。もしかして、主体性があるようなものなんだったら、なつくかもしれませんし。やさしくされたら成仏するかもしれませんし。
この本に出てきた残穢は、しょせんみんな人なので、生きていても死んでいても、人は人です。なんでみんなそんなに怖がるのか、よくわかりません。対人恐怖症じゃあるまいし。

で、心が弱ってる人とか、自我が弱い(他の人や物に影響されやすい)人とか、もしくは、サイコパス気質な人だとかの場合、そういうちょっとした残穢に影響されて、勝手に壊れてしまったり、首を吊っちゃったり、サイコパスになっちゃったりするわけですけど、それは残穢のせいというよりは、もともとのその人の性質が、残穢によって強調されたくらいの意味しかないと思います。(幽霊の場合は、意図的にそういう気質の人を攻撃してくるところがありますが、残穢には意志がなさそうなので、問題がおこるなら、それはたぶんその人自身のせいなんだと思います。)
大通り沿いに住んでる人が、もともとイライラしやすい人だったけど、暴走族がうるさかった夜に切れて、家で暴れて家族にけがさせたとか。暴走族がうるさいのはたしかにきっかけですけど、だからといって、近所の人がみんな暴れるわけではないですよね。

ある状況があって、その状況が、ある人にとってすごいストレスになって、自殺しちゃったとします。
まったく同じ状況でも、別の人には耐えられるストレスかもしれないし、また別の人にはそもそもストレスには感じないことかもしれないし、もしくは、「自分には耐えがたいストレスだから状況を変えよう」って思う人もいるわけですよね。
ある状況に対してどう対処するかは、人それぞれの問題であって、ある状況から自殺しちゃった人がいたとしても、それが100%その状況のせいだということにはなりません。(もちろん、ブラック企業とかを擁護してるわけじゃないですよ。)

というわけで、一般論でいうなら、自分がしっかりしてれば、残穢なんか気にする必要はないっていうか、気にしちゃだめで、むしろ気にしちゃうことによって、悪いことが起こっちゃう危険性があるのだと思います。

「残穢」の感想は以上。

ところで、実はわたしは、穢れについては一家言あって、そういう人はまれでしょうから、その点から「残穢」に文句をつける人もあまりいないかとは思いますが、そもそも「残穢」という概念自体が、わたしはかなり不満です。というわけで、以下では穢れの話をします。といっても、あまり一般的な意見ではありませんし、学術的な話でもありません。(ちゃんと調べるのが面倒なので。)とりあえず、わたしが勝手に思ってることです。

穢れについて

穢れというのは、もともとは理念的なものじゃなくて、即物的なものだったと思います。
例えば、「残穢」で問題になってるのは死穢ですが、死穢というのは、具体的には死体の穢れです。つまり、死体を見たとか、死臭を嗅いだとか、死体に触ったとかすると、見たり嗅いだり触ったりした人が、死穢に侵されるというわけですね。これはまあ、一般的にそういうことになっているといってもいいかと思います。直接「触ること」が重要なのはもちろんですが、「見る」ことと、「嗅ぐ」ことが重要であるような気がします。(聞くことによる穢れってあんまりない。「死体は音をたてないから」というだけのことかもしれませんが。「五月蠅なすみな沸き」とかは穢れの音っぽいですが、これも死体に蠅がたかるイメージとの複合ですね。)あとは、食べることも重要ですね。(もちろん、人間の死体を食べることはあんまりないことですが、動物の死体は食べますね。でもこれは、きちんとした手順で処理した死体なら穢れていないってことになる場合が多いと思います。ハラルミートとかですね。)で、「見る」「触る」「嗅ぐ」「食べる」ことによる穢れの伝染っていうのは、要するに、自分の体の中に入ってくるっていう形で死穢に侵されるってことですね。

もっと具体的に言うと、死体を見たり、死臭を嗅いだり、死体に触ったりすると、ショックを受けるわけですが、このショックが、いうなれば穢れの実体ですね。おそらく、共感と同じようなものだと思うんですが、死体を見たり死体に触ったりすると、否応なく、死体的存在様態というか、死体が発散する力のようなものが、その人に感染するというか、あの世的な属性を帯びてしまうというか、その人は通常の状態ではなくて、ある程度死体的な状態になってしまうということですね。(こうなってくると、あまり一般的意見ではなくなります。)というわけで、穢れに触れると鬱っぽくなったりするっていうのは、いわれがないことではありません。まあ、存在論的鬱ですね。

で、死穢が伝染するというのは、死穢に触れて、死体的存在様態を分有してしまった人(ゾンビ的になってしまった人)が、他の人にさらに死穢を体験させることがあるっていう意味だと思います。(小野さんが「残穢」の中で、延喜式かなんかの穢れの伝染の規定を引用していたりするんですが、あれなんかは、穢れがどこまで伝染力があるかを述べてるものじゃなくて、触穢が無制限に伝染して日常生活がままならなくなるのを避けるために、とりあえずその辺までいったらもう気にしなくていいって決めただけのものだと思います。あと、陰陽道とかが触穢について言ってることは、観念的に言ってるだけの話で、実際の穢れというか、感覚としての穢れからは、かなり遊離したものだと思います。学者っていうのは、よくそういう観念的体系を作ったりするけど、だいたいまじめな話じゃなくて、遊びみたいなもんですね。もしくは、ふつうの人を脅して金儲けしようとか。)

ところで、死穢だけではなく、一般的な穢れについてですが、穢れというのは、「去っていくもの」「去っていかないといけないもの」のことだと思います。穢れだから祓わなければならないというよりは、祓わなければならないものを穢れと呼ぶってことですね。

死んだ人は、生きているうちは村とか家とかの一員ですが、死んだら去っていきます。また、食べ物を食べるとウンチをしますが、ウンチも下水に流したり、川に流したり、土に埋めたりして、去っていくものです。体から出てしまった血とかもそうですね。つまり、かつて自分や共同体の一部だったものが、死んだり排泄されたりして自分とは別のものになると、穢れになるのだと思います。現在でも、体液とか、抜けた髪の毛、切られた爪なんかは、わりとリアルな穢れ(具体的に存在する穢れ)としてとらえられることが多いように思います。

だから、生きている以上、穢れが生じるのは当たり前のことだし、穢れの祓へをするというのもまた、当たり前のことです。

穢れというと、なんだかいやな悪いもののように思う人もいるかと思いますが、もちろん、いやなものではあるには違いないんですけど(たぶん、わたしの一部の死んだものだから)、そういういやな悪いものが生じるのは、人間が生きていくうえで必要なことというか、むしろ、穢れを発生させることが生きることだといってもいいくらい、人間にとって本質的なことだと思います。だから、穢れを単純に、「いやなもの」「悪いもの」としか考えないのは、子供っぽいことだと思います。特に穢れにセンシティブだったのは平安貴族ですが、彼らは自分で生産活動なんかしないし、嫌なことは人にやらせればいいってわけで、精神的に子供っぽいところがあるんだろうなと思います。(逆に、「穢れはきたないものではないんだ」って言うのも、価値の転倒としては意味があるでしょうが、穢れのリアリティを無視した言い方でよくないと思います。)

穢れたら祓へをするわけですけど、祓へというのは、生きていくうえで必然的に生じる穢れにさようならをする儀式です。その目的は、もちろん穢れがない状態にすることですけど、だからといって、穢れがない状態がよい状態で、穢れた状態が悪い状態だといってるわけではありません。いうなれば、祓へはウンチをするようなもので、ウンチをしないと便秘になって苦しいので、人間はウンチをしなければならないってことですね。
ウンチが汚いからといって、ウンチをしないためにものを食べないとかいうのは、思春期に拒食症になっちゃった子なんかはそういうことを考えたりもしますが、間違った考えです。

祓への大きなもので、大祓というのがあるんですが、これは六月と十二月の晦にやる祓へです。
生きている社会や人間に日常的にたまった穢れを、年に二回、定期的に送る儀式ですね。とある神社の祓詞に、「もろもろの罪穢、祓へ禊ぎて、すがすがし」というのがありますが、祓へをすると確かにすがすがしい状態になるわけですけど、だからといってその状態をずっと維持しなければならないというわけではなくて、毎年新年には新しい気持ちになるというのとか、毎朝起きた時は元気だとかいうのと、似たようなものですね。で、日常生活をするとだんだん穢れてくるので、そうしたらまた祓へをしてきれいにするというわけです。

さて、穢れというのは、出ていく場合の言い方ですが、逆に、入ってくるものもあります。食べ物とか、新生児とかですね。こうしたものは、ふつうは穢れとはみなされませんが、もちろん穢れとセットになっています。(もっとも、江戸時代には、出産は穢れ(赤不浄)でしたけど。これは、お母さんの体から新生児が分離すると見たんでしょうね。)
で、穢れは祓へによってあの世に送られるわけですが、入ってくるものというのも、この世の外からやってくるわけですから、あの世からやってくるといえます。実際のところ、どこから来るのか、どこへ行くのかというのは、あんまり厳密には考えられていないようで、要するにこの世じゃないところから来て、一定時間この世にとどまって、最後はまたこの世じゃないところに行くというように、わりあい漠然と考えているような気がします。(民俗的には)

ところで、古事記では、今の世界を宰領している神さまとして、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三貴子がいるわけですが、彼らは、イザナキが黄泉の国に行って、穢れたから禊をしなきゃと言って、禊をした際に生まれました。アマテラスとツクヨミは禊をして目を洗った際に、スサノヲは鼻を洗った際に生まれました。
黄泉の国での穢れというのは、具体的にはイザナキがイザナミの死体を見たことによる穢れの感染なわけですが、端的にいうと、三貴子は、イザナミの死体を「見た」ことによる穢れと、死臭を「嗅いだ」ことによって感染した穢れから生まれたといってよいかと思います。(イザナキとイザナミが、それ以前の神々を産んだ際には、普通にイザナキがイザナミに子を産ませるという形になってるわけですが、三貴子の場合は、イザナミがイザナキに子を産まるという形になっているといっていいでしょう。)

この話なんかは、穢れの祓へによる創造を語っているわけで、「なぜ穢れが必然なのか」というような問いに対して、端的に答えている話だと思います。
つまり、祓へは確かにクリエイティブなことですけど、祓へをするためには、その前に穢れた状態がなければなるまい?ってことですね。(ニーチェ風w)

というわけで、「残穢」における穢れ概念は、わたしにはどうも受け入れがたいものだったんですが、「残穢」でいってる穢れというのは、どうも、ほんとの穢れではなくて、単なる「怨念」みたいなものなんじゃないかと思います。しかもその「怨念」は、「怨念」をもった主体から離れて独立した「怨念」であるように思えます。幽霊がかつて書いた「怨念」についての手記みたいなもんっていうか、残留怨念って感じですかね。
で、残った穢れじゃなくて、残った怨念なんだから、「残穢」じゃなくって「残念」って題にした方がいいかなって思います。

そもそも「怨念」とかって、生きてる人の怨念だろうが、死んでる人の怨念だろうが、しょせん愚痴だし、まあ、かわいそうとは思いますけど、実際のところ「残念」なもので、そんなふうにぐちぐちこだわってるから、そもそも幽霊なんかになっちゃうんだし、あと、すでに主体性がなくなった、ただの「残留怨念」に影響されちゃったりするのって、人としてどうなの?もうちょっとしっかりしてよっていうわけで、どっちにしろ「残念」ってことですね。
まあ、これは冗談ですけど。

参考。
お盆の話
お盆も、ご先祖様が、やって来て、去っていく、というものなので、ご先祖様と穢れはけっこう似たようなものですね。

月の中のくまぶし2
こちらは、アイヌのこの世とあの世の話。

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