おひさしぶりです。くまぶしですがなにか?

別に、さぼっていたわけじゃありません。くまぶしだって忙しい時もあるのです。なめんなよ。346346346

くまぶしは、くま大学の大学院で、くま宗教学というのを勉強しています。
くま宗教学は、くまの宗教を研究するものではなくて、くまが人の宗教を研究するものです。
なんで宗教の研究をするかというと、くま宗教学のファウンディングファーザーの一人であるエリアーデ先生というルーマニアのくまが、人間の本質を、ホモレリギオースス、つまり、宗教的人間であることだと、河童したからです。うそです。喝破したからです。

簡単にいうと、人間を理解するのには、人間の宗教を研究するのが一番てっとり早いということです。

くま宗教学は、くまが人間を理解するためのものだから、当然ながら人間が研究対象です。
人間の宗教学は、ディシプリンがさまざまあったり、対象にする地域や時代がさまざま細分化されていたりするけれど、くまにとっては、わりとどうでもよいことです。(中には、マニアなくまがいないわけではないですが。)

一般に、くまは、まず人間とはどういうものかを知りたくて宗教の研究をするわけです。だから、例えば日本の宗教だとか、近代の宗教だとか、どこだかの宗教だとか、いつの宗教だとかのちがいは、とりあえず興味がないことです。

くまからみると、人はまず人です。本人たちは、それぞれ、何人だとか、かに人だとか、近代人だとか、いろいろ思っていて、それがすごく大事なことのように言いますが、くまから見たら、誰それはくまではなくて人であるというのが、本質的な問題なのです。

もちろん、くまにとっても、なにくまであるかは重要な問題です。ただし、くまの場合は、一般に、なにくまであるかよりも、くまであるということの方が、より重要な問題であるとされています。(それよりも、けもけも獣であることの方が本質的だという学者もいます。けもけも獣(剛)ともいいます。)

あと、いわゆる未開民族といわれる人たちは、トーテムとか部族とかを大事にしていることが多いですが、これは、今の人たちが用いる相対的区別(文化的区別ともいう)とは違って、絶対的区別です。

例えば、「われわれはポポプペ族である」というのは、今の言葉で言ったら、「われわれは人間である」という意味です。どうしてそれが絶対的区別になるのかというと、宗教的だからです。よくわからないでしょうが、説明するのがめんどくさいです。そのうち気が向いたら、だんだんと言います。

それはともかく、たぶん人間は、自分たちが人間だから、絶対的な基準である「人間であること」にはそれほど興味がないのだと思います。

もしくは、「そんなことはもう知ってる」と思っているのかもしれません。(理系の場合は別です。)それよりも、相対的な区別の方を重視して、自分たち同士の間に、ささいな違いを発見すると、すごく面白いことだと感じるみたいです。

まあ、くまぶしはくまなので、人間の事情はよくわかりません。とにかく、くまぶしは、人間を理解しようと思って、くま宗教学を勉強しているわけです。

くま宗教学のことは、またそのうち書きます。くまべし。
Apr. 10, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

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