こんにちは。わりとよくなりましたが、まだなんとなく病気のくまぶしです。

かっぱの血液検査は案の定異常なしでした。くまぶしはだるいです。

今日は、くま宗教学の存在論について話します。存在論というのは、「ある」とか「ない」とかいうことなんですが、聞いたことがない人に、いきなり存在論とかいうとびっくりすると思うので、簡単な話からするぶし。

とりあえず、人格の話からするぶし。

たとえば、なんの変哲もないおじいさんが一人いたとします。なんの変哲もないおじいさんですから、孫のことやら、庭のことやら、今夜の晩飯のことやらしか考えていないのでしょうが、無口なのでなにを考えているかわかりません。一緒にいても、お茶を飲んでテレビを見て、たまにふほほほほと笑うだけです。

こうした一人のおじいさん、名前は徳三といいますが、彼を理解するということは、彼の思想を理解することではありません。なぜなら、思想という意味では、彼はほとんど何も考えていないからです。けれど、彼は徳三じいさんとして、つまり一つの人格として存在しているわけです。

徳三おじいさんの人格というのは、知的に了解されるものではなくて、感覚的・体験的にしか理解できないものです。日本語の「知る」というのは、どっちかというと、こうした感覚的・体験的理解に近いと思います。昔の使い方だと、「知る」は、異性と肉体関係を持つとか、結婚するとか、土地を領有するとか、そういう意味でも使っていました。つまり、自分と関係があるということが、知っているということなわけです。

梅干しの味を知っているということは、梅干しを食べたことがあるということです。また、食べてみれば梅干しかどうかわかるということでもあります。おなじように、徳三おじいさんを知っている(人格として把握している)ということは、彼に会えばわかるという意味です。ごくふつうのことです。

徳三おじいさんが死んでしまったとします。彼の人格が問題になるのは、えてしてそういう時です。くまぶしがおじいさんと知り合いだったら、くまぶしは悲しく思うわけです。関係ないおじいさんが死んだとしても、別に悲しくはなりません。くまぶしがお葬式に行くと、おじいさんの死体があります。確かにおじいさんの体ではありますが、おじいさんではありません。死体に会いたいわけではなくて、おじいさんに会いたいわけです。

つまり、おじいさんの人格がなくなってしまったと感じるわけです。また、それから一年くらいたって、ふと、おじいさんに会えなくてさびしいと思うかもしれません。この時は、おじいさんの人格が恋しいわけです。おじいさんと話がしたいとか、一緒になんかしたいというわけではありません。せいぜい一緒にテレビを見るくらいです。生き返っても、たぶんくまぶしは特別なことはなにもしないでしょう。生きている時も、別に話をしたりしなかったわけですから。それでもおじいさんに会いたいというのは、おじいさんの人格が、それ自体として恋しいということです。

しかしながら、おじいさんが死んで悲しいだのさびしいだのと感じるということは、おじいさんの人格が、くまぶしに対して、依然として働きかけているともいえます。つまり、直接的にではないですが、おじいさんの人格は、くまぶしを悲しませたりさびしがらせたりできるわけで、それゆえ、おじいさんの人格は、くまぶしにとっては、まだ存在しています。「我感ず、ゆえに徳三あり」です。くまぶしはラテン語を知らないので、ラテン語で言うとどうなるかはわかりません。

突然ですが、長くなったのでいったんやめます。くまぶしの悪い癖は、すぐ話が長くなることです。短く話すのは難しいぶしね。つづくぶし。

今、チキン団子の牛乳シチューをつくってるぶし。これからくうぶしよ。えへ。くまぐう。
Apr. 28, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

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