こんにちは。くまぶしです。

今日は、前回述べた二つの存在論の関係について書きます。これは人間存在の定義でもあるので、人間論でもあるぶし。存在論の話は、一応これで終わりです。やったー。今日はついでに、永遠回帰の話もちょっとします。

くま宗教学では、人間を、クエポニ的であり、かつ、モナド的であるものとして理解します。クエポニ存在論と、モナド存在論という二つの存在様態間の循環として人間存在を定義するわけです。要は、ダブルスタンダードということだぶしね。

クエポニというのは、花が咲くという意味です。ナワトル語というメキシコの原住民の言葉です。花は咲くことによってはじめて存在するというこころです。

まず、クエポニ存在とモナド存在の関係について、簡単に書きます。

クエポニ存在というのは、力を発するもの、働きかけるものです。
クエポニ存在を体験するということは、力を受けること、働きかけられることです。クエポニ的存在様態は、いいかえると、コミュニケーション状態のことです。

たとえば、何かを食べるということは、コミュニケーションです。食べられるものは、まず初めは、食べる人とは別のものとして存在します。つまり、食べる人と食べられるものは互いにモナド的関係にあります。食べ物を見て、おいしそうと思ったり、食べたいと思うことは、コミュニケーションへの欲求(誘惑)です。これは、モナドによる、非モナド的状態(クエポニ状態)への欲求といえます。

食べものを口に入れるとき、食べる人のモナドに窓が開きます。モナドロジー的には、アブノーマルな状態のモナドになるわけです。窓が開いたモナドはモナドではないわけですから。インデペンデントじゃないということです。

それで、口に入れたものを噛みます。噛むことは、モナドとしての食べ物のモナド性(ATフィールド)を破ることです。すると味がします。というか、そうしないと味がしません。味はうまいです。味というのは、食べてみなければわからないものです。味を知るためには、食べ物のATフィールドを破らなければなりませんし、同時に、自分のATフィールドにも穴を開けなければ、食べることはできません。そういうわけで、食べることはコミュニケーションです。

もっとも、まだ食べ物が口の中にあるときは、食べ物と食べている人は別のものといえるかもしれません。吐き出すこともできるわけですから。けれど、食べ物を飲み込んでしまうと、普通は、食べ物と食べた人は別のものではなくなります。完全に消化したら、もう完全に一体です。これは言い換えると、食べた人のモナドが再び閉じたということです。(うんちをするときまた開きますが。)

コミュニケーションは、このように、モナドに穴を開けたり、モナドの殻を破壊しないと成り立ちません。そして、食べ物がそうであるように、食べてしまったものはなくなってしまいます。なくなってしまうというのは、もちろん、モナド的に存在しなくなるという意味です。

つまり、一言でいうと、知るためには相手と自分のモナドに窓を開けなければならない、しかし、穴をあけられたモナドは死ぬ。ということになります。←これ、なんかバタイユっぽい言い方ですね。

食べ物の例の場合は、食べられる方は大変ですけど、食べる人のモナドは、たいしたリスクを冒していません。しかしながら、常にそうだとは限りません。たとえば、神さまに会うということはリスキーです。神さまとのコミュニケーションでは、人間が食べ物の役割を担うこともあります。けれど、アイヌの場合のように、神さまが食べ物の役割をすることもよくあることです。というか、食べ物はふつう神さまでしたね。

ちょっと脱線しました。とにかく、クエポニ存在というのは、人間の場合に限っていえば、まずはじめにモナド的存在であることから出発して、モナドに穴があいている状態として定義づけられます。自己同一性を失わない限り(つまり死なない限り)は、この穴は開きっぱなしということはありません。そういうわけで、クエポニ存在というのは、持続することができません。持続するものは常にモナドです。人間的意味でのクエポニ存在とは、普通は、持続するモナドに時たま穴が開く運動として記述できます。

人間的クエポニ存在は、そのクエポニにおいてモナドとして死なない限り、必ずまたモナド的存在に戻ってきます。ごく簡単にいうと、これを永遠回帰といいます。

永遠回帰という仕組みは、モナド的存在論に重心をおいて考えると、ニヒルな感じになります。クエポニ(非モナド状態)といったって、結局モナドに戻ってくるんじゃないかというわけです。コミュニケーションといったって、コミュニケートした気になっているだけだというわけです。確かに、事後的に見たらそういうことになるのでしょう。
で、ニヒルな気分になって、醒めないために薬をやりつづけて、オーバードーズで死んじゃったりするわけですね。
(あるいは、それをいいことであるかのように思ってなのかしりませんけど、「モナドを活性化させるためにクエポニが必要なのだ」というような言い方をする人もいます。これはジラールとかですかね。無用の用みたいな言い方で回収しようとする態度。)

けれど、クエポニ存在の方に重心をおくと、そうでもありません。クエポニするには、モナドは必要だというだけのことです。クエポニが持続しなければならないと考えるのは、クエポニをモナド化しようとすることで、そういう考えは、非常にクエポニ的ではありません。

ニーチェというくまが、むかしこういいました。「踊るには、何かふまれるもの、踏みすてられるものがなくてはなるまい?」まったくそのとおりだと思います。(たぶんツァラトゥストラ)

最後に、クエポニ的存在論に重心を移して、永遠回帰を記述します。

クエポニ的存在論を中心に永遠回帰の運動を見てみると、クエポニ的存在とは、モナドの発生だといえると思います。どうしてかというと、死んでしまった徳三さんの場合のように、くまぶしを悲しませるという働きが、逆に、「徳三」という存在を創造するからです。この新しく生まれた徳三は、生きている時のモナド的徳三と比較してみればクエポニ存在でしょうが、しかしながら、「徳三」という名前をもっているという意味では、なんらかの自己同一性を依然として持っているわけです。

つまり、クエポニ→モナド→クエポニという循環は、クエポニによってモナドが創造され、そのモナドを足場にして、つまり穴を開ける対象として、次のクエポニが可能になるという仕組みだと思います。

さて、以上でくま宗教学における存在論と人間論について、だいたい説明しました。わかりにくかったと思いますが、しかたがないことだったと思います。どうしてかというと、具体的な例をださずに、理論的な説明しかしなかったからです。

けれど、今は一応、理論的な説明をしたので、これからはもうすこし、具体的な話をすることができると思います。

最後に、「永遠回帰のくまぶし」というタイトルについて話します。

「永遠回帰のくまぶし」というタイトルには、実践的意味と、理論的意味があります。つまり、事実としてくまぶしが永遠回帰することと、永遠回帰について理論的に説明することとです。

事実としてくまぶしが永遠回帰するというのは、くまぶしが心を動かされたことを書くという意味です。これは、くまぶしの生活の話とか、くまぶしが面白いと思った神話の話とか、神さまの話とか、くまぶしが書く絵のことです。書くことは、動かされた心を固定化すること、モナド化することです。そういうわけで、クエポニ状態からモナド状態への永遠回帰なわけです。これは、書いたくまぶしが、それを書いたくまとして、モナドに回帰するということでもあります。書くことは、主体であることからの脱出です。しかし同時に、書いたという事実から、それを書いたくまとして、再びくまぶしが定義されます。これが書くことにおける永遠回帰です。

一方、永遠回帰の理論的意味というのは、今まで書いたみたいに、永遠回帰について理論的に説明するということです。これは、くま宗教学の理論的側面です。うざいだろうから、これからは必要最低限にしたいと思います。けれど、くまぶしにとっては、こういう理論があると、いろいろ説明がしやすくなるのです。だからくまぶしの都合で、ときどきはやると思います。

たこ博士の具合がまた悪くなったらしいので、今から食べ物と飲み物を届けに行ってきますぶし。

それではごきげんよう。さようならくま。
may 1, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

Leave a Reply

Your email address will not be published.

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.