こんにちは。くまぶしだぶし。今日はお休みだったので、だらだらしてました。実は明日もお休みです。

もちろんだらだらしますとも。

今日はだらだらしながら、知ることについてだらだら考えてみました。

何かを知るというときには、その何かを、具体的にすることによって知る場合と、普遍的にすることによって知る場合とがあります。もっとも実際には、両方の知り方が混ざってるとは思いますが、おおざっぱにいえば、「知る」というアクションには、二つの方向性があるわけです。

たとえば、またおじいさんで恐縮ですが、あるおじいさんと知り合いになったとします。このとき、いちばん最初に、「おじいさんだな」と思ったとします。これは、目の前にいる人を、おじいさんというカテゴリーにあてはめているわけですから、普遍的にすることによって知ることです。

それから、このおじいさんの名前が吉住清衛門だと知ったとします。これは、おじいさんから吉住清衛門になるわけですから、具体的にすることによって知る場合です。

それから、清衛門さんは「怒りっぽい人」だと知ったとします。たぶん、怒っているのを見たのでしょう。怒っているのを見るというのは、具体的にいうと、清衛門が赤くなってどなったりするのを見たりすることです。つまり、「怒っている清衛門」という具体的な体験から、「怒りっぽい人」というカテゴリーが導かれるわけです。(哲学っぽくいうと、「清衛門が怒った」と言うこと自体が、具体的なものを普遍的なものにすることだともいえます。)

さて、知ることというのは、「知らない」という状態から、「知る」という体験がなされることだといってみます。「知る」体験というのは、「なるほど」と思うことです。

「知る」以前は「知らない」といっても、ふつうは、後からそう言えるようになるだけのことです。つまり、知った後になってから、「実は今までは知らなかったのだ」ということがわかるようになるのが一般的で、まったく知らなかったものを知るようになることはまれです。

そういうわけで、「最初にどのようなものとして知っていたか」によって、次の知り方が決まってくるわけです。つまり、あるものを、もっぱらその普遍的側面において知っていたなら、そのものの具体的側面を知ることが、「知る」という体験になるだろうし、逆に、主に具体的側面において知っていたなら、そのものの普遍的意味を知ることが、知るという体験になるわけです。

ちょっと単純化しすぎたかもしれません。具体的と普遍的といいましたが、この二つは相対的な区別にすぎません。たとえば、「日本人」というカテゴリーは、「人間」とか「アジア人」というカテゴリーよりは具体的ですが、「福井県人」というカテゴリーよりは普遍的です。どう使うかは、使う人の勝手です。だから、なにが普遍的でなにが具体的かは、後になって決まるともいえます。

その人が「なるほど」と思った理解の形と比べて、それ以前の知り方は、相対的に普遍的であるか具体的であるかのどちらかなわけです。たとえば、自分では、これこそが具体的な理解だと思っている理解があったとします。そのあと、別の理解の仕方を発見して、「なるほど」と思ったとします。それで、後の方の理解の方が具体的だと思ったなら、それ以前の理解のしかたは、自分で思っていたのとは違って、相対的に普遍的だったということになります。逆に、後の方の理解が普遍的だと思ったなら、最初の理解は、自分が思っていた通り、相対的に具体的だったということになります。

ちょっとこんがらがってきました。別に、混乱させようと思っているわけではありません。

なにかを知ったり、なるほどと思うことは、このように、こんがらがったしくみになっているのだと思います。

今日はこれでやめます。わりと短く終わったと思ったら、そうでもなかったぶしね。

62895えへ。くま。
may 6, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

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