昨日は、すてきなお客が来ました。こぐまです。
二匹のこぐまが、両親に連れられてやって来たのです。父親(名前は弱といいます。もうおっさんです。)が、かっぱの同級生だったので、くま自慢に来たのでした。1歳3ヵ月と、3歳のくまです。激烈でした。くま。特に、小さい方(女)は、歩き始めたばかりで、ちょっと言葉らしきものを話します。くまー。たまりませんね。こいつ、食っていいか?と思いました。足が、ミシュランマンみたいなのです。

こぐまと遊んでいたら、ロバ先生が来ました。モバイルのパソコンを買ったのだけど、ネットにつながらないといって、かっぱに相談に来たのでした。かっぱもそんなに詳しいわけではないのですが、ロバ先生は特別にメカに弱いので、いろいろ聞きにくるのです。うちのLANにつないだらすぐにつながりました。どういうことか、よくわかりません。

先生もちょっとくまを見たのですが、「鞄に入れて持って行きたくなるな」と言っていました。先生にしては珍しいです。先生によると、8歳すぎたら、憎たらしさがまさるそうです。ペーズリー呼ばわりされたことを、いまだに根に持ってるみたいです。

くま達が帰ってから、先生に、こないだの記事を読ませたら、読みながら、まず、「大滝はそこまで好きじゃない。智衆は好きだが。」と言いました。それから、「まとはずれだとー。」と言いました。最後の方では、「なるほどー。そうかもしれん。」と言いました。えへん。ちょっと自慢です。

それから、このあいだ、リアクションペーパーに、「先生の言うことの半分もわかりません」と書かれたという話をしました。リアクションペーパーというのは、授業の感想とかを書いてもらう紙で、出席をとる代わりに配るのです。先生は、わかりやすく話していたつもりだったので、ちょっとさびしく思ったみたいでした。

先生は、「『実在』とか言うと、みんなぽかーんとするのだ」と言います。それで、「実在」とは何かから説明しようとするわけです。先生もかわいそうですが、女の子たちにも同情しますね。

先生は、単純に、「実在」という言葉が難しいだけで、「実在」それ自身については、女の子たちも知っているはずだし、気づいていないだけで、重要な問題だと思っているに違いないと思うわけです。そもそも、「実在」というのは、本当にあると感じるもの(そのように感じる体験)なわけですから、それを体験していない人はいないわけです。それはそうなのですが、ロバ先生のように、それを「実在」という言葉で把握しようとする態度は、一般的ではありません。どうしてかというと、あるものにおいて、本当に実在を感じている人は、それに対して「実在」という別の名前をつける必要を感じないからです。先生のために、くまぶしが、ためしに説明してみるぶし。親切だぶしね。

たとえば、昨日遊びに来たくまの親父の弱さんは、二匹のくまにおいて「実在」を体験しています。たぶん。彼にとっては、くまがいるからこそ「実在」があるわけで、くまと離れて「実在」はありえません。だから、考えるだに恐ろしいことですが、もしか彼のくまが死んでしまったら、彼にとっては実在が失われるわけです。これは大げさにいうのではなしに、世界喪失の体験です。そうなってみなければわからないことなので、本当のところはなんともいえませんが、まず間違いなくそうだと思います。

もちろん、彼の世界を形成する実在は、くまだけではないでしょう。彼には、かわいい妻もいますし、今度家を新築するつもりですし、楽器の演奏も好きですし、会社の仕事だって実在の一部ではあるでしょう。それら全部が実在なのですが、とりあえず今のところ、彼にとって最も実在的な実在は、彼のくまだということです。顔を見ればわかります。たとえていうと、くまという真実在と、そのくまによって実在的になる実在、くまに従属した諸実在とがあるわけです。会社をクビになったら、ちょっとへこむでしょうが、「くまのために」ぜひとも新しい仕事を見つけなければなりません。新築した家が火事になって、家のローンだけが残ったら、すごくがっかりするでしょうが、「くまさえいれば」(もちろん妻もですが)なんとかなると思います。けれど、くまがいなくなったら、仕事があっても、家があっても、それに何の意味があるのだと思うわけです。彼にとって、仕事や家は、かつてと同じように「意味あるもの」(実在)とは感じられなくなるわけです。

さて、彼にとってのくまが以上のようなものだとします。そのとき彼は、「大事なのは、意味があるのは、くまであって実在ではない」ということもできるのです。というか、そう言う方が一般的だと思います。で、ロバ先生の女の子たち(このように言うと、なんだか先生がモテモテみたいですね)にとっても、それぞれ「実在」があるはずですが、彼女たちもやっぱり、「大事なのは、実在じゃなくて○○だ」と思っているのだと思います。これが、こないだの記事で、「女の子たちは、具体的なものにこそ意味があると思っています。」と書いた意味です。彼女たちがそのように言うのは、それぞれにとっての「実在」が、本当の意味で実在だからです。「実在」という言葉では表現されえないほど、実在的なのです。

さて、以上のようにいうと、ロバ先生は実際のところは「実在」を体験していないからこそ、意識的に「実在」を問題にしなければならないのではないかというふうにも考えられるわけです。女の子たちの側から、ロバ先生の態度を批判するなら、そういう言い方になるでしょう。これは、わりと当たっているかもしれませんし、実はロバ先生のことを知らないからそう見えるだけかもしれません。これについてのくまぶしの意見はまた今度書きます。ただ、彼女たちにとって、ロバ先生が、なにが楽しくて生きているかわからない生き物だというのは、彼が実在的に生きているようには感じられないということだから、少なくとも彼女たちの視点からすると、ロバ先生が「実在」を知らないからこそ、それを探そうとしていると見えるのは仕方がないことだと思います。

それはともかく、実際、先生が学生になにか書かせると、自分には○○があるから、「宗教」なんて必要ないんだと書いてくる子が結構いるらしいです。これは要するに、ロバ先生は宗教をすごい大事なことのように思っているみたいだが、私にはもっと大事なことがあるからどうでもいいという意味です。そのように思うことは別に間違いではないし、それで十分といえばまあ十分なのですが、そういう態度は、旅に出る前の星の王子さまとおんなじだと思います。比喩的にいうと、世界の内部にいるだけの場合、その世界の実在性はそれだけ強いのだけど、それゆえに、世界について「知る」ことができないわけです。

控え目にいっても、理論的には、自分にとっての実在以外は存在しないという独我論的世界にとらわれてしまいます。まあ、実際はそんなことはないでしょうが。それというのも、彼女たちは、そこまで本気で、「自分にとっての実在」と思っているわけではなくて、自分にとっての実在を、「客観的実在」だと無邪気に信じているだけだからです。

くまぶしはそう思うので、それならそれでいいよと思うのですが、ロバ先生はロバなので、理論的にそうなるということから、彼女たちが本当に独我論的世界に暮らしていると思っているみたいです。でも、彼女たちからすると、ロバ先生の方が、300倍くらい独我論的世界に暮らしているように見えるんじゃないかと思います。それで、ロバと女の子たちの間の対話は、宗教間対話のように難しくなるわけです。(これは冗談です。)
may 18, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

3 comments on “29.こぐまが来た話”

  1. またまた、難しいですね~。
    「実在」ですか。
    例えば、夢の中で見る物、触る物、感じる物なども、
    それが「夢」であると気が付かずに、ソレらを感じれば、
    ソレもまた「実在」なのかな~?
    なんて考えちゃったりしました。
    そ~考えると「実在」って、
    なんか「コギト・エルゴ・スム」みたいな感じなのかな?
    とも思ってしまいました。
    的外れでしたらスンまソン、です。

    あっ、私はれっきとした「おっさん」です。
    ただ、子供の頃から「おっさん」でしたが。

    • ねこぎーさんありがとう

      ねごぎーさん、いつもお付き合いいただいて、ありがとうございます。

      くまぶしは、自分の考えとか、ロバ先生の考えについては、それなりに分かっているのですが、くまぶしがいうことを他の人がどう思うかについては、だいぶわかっていません。だから、なんかいってもらうとすごく助かります。ぶし。

      ねこぎーさんの考え方は、わりあいロバ先生と近いと思います。荘子の「夢に胡蝶となる」(斉物論篇)みたいな感じですね。マトリックスの1の感じです。

      むかし、荘周(名前です)は、夢の中で蝶になった。楽しく飛びまわる蝶であった。蝶であることを楽しんで、のびのびとしていたので、自分が周であることを知らないでいた。ところが、ふと目が覚めてみると、まぎれもなく、もとのままの周であった。いったい、周が夢の中で蝶になったのか、蝶が今、周になっている夢をみているのか? 周と蝶とは、きっと区別があるのだろう。こうした働きを、物化とよぶのである。

      ロバ先生的な考え方では、夢で蝶であったことと、今、周であることとという二つの存在様態を思弁的に対比させることによって、それら二つの存在様態を、ともに包むような境地へと達しようとするわけです。ヘーゲルの弁証法と似たようなものですが、ただ、絶対知(有)と違って、最終的な境地を、「無」とか「絶対無」とか「空」とかいう点が違うらしいです。
      つまり、「無」でも「空」でもいいですが、これはそもそも、無いということなわけですから、言葉ではいえないわけです。たとえば荘子はこういうことを言ったりします。

      始めということが有る。また始めということさえ、もともと無いということが有る。また始めということさえもともと無いということ、それさえもともと無いということが有る。有るということが有る。無いということが有る。無いということさえ、もともと無いということが有る。また無いということさえもともと無いということ、それさえもともと無いということが有る。実際のところは、にわかに有無の対立が生まれることになる。そしてその対立は、どちらが有でどちらが無かわからない。いま自分は言葉を述べたが、これが本当にものを言ったことになるのか、それともものを言ったことにならないのか、それも分からない。(斉物論篇)

      なんだかよくわからないですし、言葉遊びのようにも見えますが、ロバ先生たちにとっては、わりと大事なことなのです。「沈黙」という言葉があるとして、「沈黙」という言葉があるときには、本当の沈黙(まったく音がないこと)はないということですね。「無」とか「空」とか「沈黙」とか、こういう言葉は、それ自体が矛盾を含んでいるわけです。それで、最終的な境地を、そうした矛盾を含んだものとして提示する場合、いわゆる「コギト」とは違うものになると思います。言うことができないものだからです。(我あり、というのは、「有る」ことなので、言えるものなわけです。)

      けれど、実際のところは、「いえない」という風に言っているわけです。こういう態度を、神秘主義といいます。くまぶしの考えでは、ロバ先生たちは、「言えない」と言うことによって、「無」とか「空」とかいわれる境地に、ちょっとでも近づこうとしているのだと思います。くまぶしがロバ的と思うのは、この「いちばん近いところまで」というところです。重い荷物を背負って、えっちらおっちらと歩いてゆく、その歩みに苦行的喜びを感じるところが、実にロバ的だと思います。(ちなみに、ニーチェはラクダ的といいました。)

      さて、ねこぎーさんは、くまぶしがロバ先生の話を代弁したのを読んで、ロバ先生にとっては実に親切なというか、同情的な感想を書いてくれました。たぶんロバ先生は、女の子たちにも、ねこぎーさんみたいに感じてほしいのだと思います。少なくとも、実在ってなんだろうと、自分で疑問に思ってくれなければ、ロバ先生には話のしようがないわけですね。

      けれど、女の子たちに、ねこぎーさんが示してくれたような同情(愛)を期待するのは、ちょっと甘いんじゃないかなと、くまぶしは思います。ゲーテも、「ロバは、女の子に同情を期待してはならない」といっています。(うそです。)

      • 【実在】現実の変転する現象の背後にある究極の実体を意味する

        実在って、「実在の人物」くらいで、使うことがなかったけど、そういう意味でもあるんですね。

        私も、じつは宗教ときくと抵抗があります。
        新興宗教の勧誘みたいな話をされるのかとうんざりするからです。

        そんなに詳しくないけど哲学と宗教は、共通してる部分がありますよね。
        宗教は精神的な、どっちかというとオカルトで、
        哲学は学問。
        どうして分かれたのだろう。

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