こんにちは。ちょっとさぼってました。今日はすこし、フィクションの話をしようかと思います。フィクションというのは、とりあえず、お話という意味です。くまぶしは、お話を読んだり、映画を見たりするのがわりと好きです。これは、みなさんわりと好きなんじゃないかと思います。おもしろいお話とか、かっこいいお話とかを見たりするとわくわくします。悲しい話や怖い話を見ると、ひゅえーとなります。かっぱは、大破壊の映画を見たりすると興奮します。

今まで何度も、クエポニ存在とか、モナド存在とかいう言葉を使ってよくわからなかっただろうと思いますが、今日の話は、この二つの概念を使うと、どんないいことがあるかの説明です。概念の使い方の例です。具体的には、お話の中にでてくる人とか世界は、存在するかどうかを考えるときに便利なのです。

フィクションで語られる出来事は、普通は、実在しないこと(リアリティがないこと)と思われています。たとえば、小説の中の人は、実在の人ではないと思われています。でもそれは、モナド的には存在しない、つまり、生物としての体を持っていないという意味で、クエポニ的に考えれば実在しています。

本を読んで何かを感じるというのは、本の中の人とかが働きかけてくるからです。感動するというのは、感動させられるという受動的なことですから、誰かが私を感動させたわけです。それで、働きかけてくる存在がクエポニ存在ですから、本の中の人はクエポニ的には実在しているわけです。

そもそも、「働きかけてくる」という点から考えると、駅ですれ違ったその辺のだれかは、ふつうはあまり働きかけてこないものです。ちょっとぶつかったらすいませんといいますが、それでさようならです。つまり、ぶつかることができるというモナド的意味においては、彼は存在しているといえますが、働きかけてくるかどうかというクエポニ的な意味では、ほとんど存在していないわけです。

よく知らない人に、なれなれしくするのは失礼なことです。独立した存在であるモナドに対して、クエポニ的な意味で働きかけるということは、そのモナドの自己同一性に対する侵害になるからです。モナド的存在というのは、国家みたいなものです。近代国家は、主権と国民と領土を持っています。それらにおいて、他の国家に対して排他的であることによって、国家はモナド的に存在しうるわけです。だから、過失からの領空侵犯でも、場合によっては撃ち落とされます。

ならず者は、肩がちょっとぶつかっただけで、宣戦布告と受け止めます。ゴルゴ13は、誰かが背後に立っただけで攻撃します。こわいですね。こういう人たちは、軍備をばんばんやってる国みたいなものです。けれどふつうの人は、そんなにピリピリしながら暮らすのはエネルギーの無駄なので、もっと平和的に暮らしています。軍事費に金を使いすぎると国家財政が圧迫されるのと同じです。それで、ふつうはちょっとぶつかっただけなら、すいませんといえばすむわけです。

さて、以上のように、モナドとしての個人は、他人の領域を侵さないよう、あるいは、自分の領域を侵されないよう、気をつけて暮らしているわけです。つまり、あまり他の人に働きかけないようにしようということです。常識とか礼儀というのは、戦争しないための国際条約みたいなものです。

これに対して、フィクションというのは、モナドとしての実質を持っていないので、領域を侵される心配がありません。(もちろん程度によりますが。)だから、本を読んだり映画を見たりするときには、他の人と会ったりするときとは違って、武装解除することができます。そして、武装解除して接するからこそ、フィクションは働きかける力を発揮することができるわけです。(現代人の場合は、です。)

たとえばファンタジーでは、竜とか魔法使いとか妖精とか神さまとかがでてきたり、ホビットが冒険の旅に出たりします。ファンタジーを読むときは武装解除しているので、おもしろいぶしと思います。働きかける力を素直に受け入れることができるわけです。そんなの嘘っぱちだと思っていたら、あまり楽しくないと思います。嘘っぱちだと思うことはとりあえずどこかに置いておいて、そのお話の中のリアリティを体験するわけです。

けれど、例えば新興宗教の勧誘の人が来て、チャクラを開くのだとか、神さまはいるのだとかいう話をしたとします。よく知らない人なので警戒しながら話を聞きます。そうすると、おもしろいぶしと思ったファンタジーと似たような話だったとしても、ぜんぜん働きかけてきません。うそ臭いなあと思うだけです。「うそ臭い」というのは、モナド的世界の存在論からの判断です。相手が体をもった人なので、こちらも体をもったモナド存在として対応するわけです。実際、知らない人にいきなり「何か悩みはないですか」とかいわれるのは、礼儀正しいモナド的関係においては、ちょっと失礼なこと(働きかけすぎ)だと感じられるのです。それで、新聞いらないよというのと同じように、間に合ってますというわけです。

とりあえず今日はここでやめます。いいたかったことは、フィクションにおけるリアリティは、クエポニ的リアリティで、これはモナド的リアリティとは別物で、モナド的に警戒していると体験できなくなるということでした。

それではまた。くま。
jun. 9, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

2 comments on “40.フィクションのこと”

  1. 今日のはわかりやすかった!
    むしろ宗教学記事で読んだの
    これ初めてだw

    • こんにちは。わかりやすかったぶしか? おほおほ。
      くまぶしは、ちょっとまとまらない話だったかなとおもってたんだけど。くま。

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