Tag: くま宗教学

17.くま宗教学の存在論①

こんにちは。わりとよくなりましたが、まだなんとなく病気のくまぶしです。

かっぱの血液検査は案の定異常なしでした。くまぶしはだるいです。

今日は、くま宗教学の存在論について話します。存在論というのは、「ある」とか「ない」とかいうことなんですが、聞いたことがない人に、いきなり存在論とかいうとびっくりすると思うので、簡単な話からするぶし。

とりあえず、人格の話からするぶし。

たとえば、なんの変哲もないおじいさんが一人いたとします。なんの変哲もないおじいさんですから、孫のことやら、庭のことやら、今夜の晩飯のことやらしか考えていないのでしょうが、無口なのでなにを考えているかわかりません。一緒にいても、お茶を飲んでテレビを見て、たまにふほほほほと笑うだけです。

こうした一人のおじいさん、名前は徳三といいますが、彼を理解するということは、彼の思想を理解することではありません。なぜなら、思想という意味では、彼はほとんど何も考えていないからです。けれど、彼は徳三じいさんとして、つまり一つの人格として存在しているわけです。

徳三おじいさんの人格というのは、知的に了解されるものではなくて、感覚的・体験的にしか理解できないものです。日本語の「知る」というのは、どっちかというと、こうした感覚的・体験的理解に近いと思います。昔の使い方だと、「知る」は、異性と肉体関係を持つとか、結婚するとか、土地を領有するとか、そういう意味でも使っていました。つまり、自分と関係があるということが、知っているということなわけです。

梅干しの味を知っているということは、梅干しを食べたことがあるということです。また、食べてみれば梅干しかどうかわかるということでもあります。おなじように、徳三おじいさんを知っている(人格として把握している)ということは、彼に会えばわかるという意味です。ごくふつうのことです。

徳三おじいさんが死んでしまったとします。彼の人格が問題になるのは、えてしてそういう時です。くまぶしがおじいさんと知り合いだったら、くまぶしは悲しく思うわけです。関係ないおじいさんが死んだとしても、別に悲しくはなりません。くまぶしがお葬式に行くと、おじいさんの死体があります。確かにおじいさんの体ではありますが、おじいさんではありません。死体に会いたいわけではなくて、おじいさんに会いたいわけです。

つまり、おじいさんの人格がなくなってしまったと感じるわけです。また、それから一年くらいたって、ふと、おじいさんに会えなくてさびしいと思うかもしれません。この時は、おじいさんの人格が恋しいわけです。おじいさんと話がしたいとか、一緒になんかしたいというわけではありません。せいぜい一緒にテレビを見るくらいです。生き返っても、たぶんくまぶしは特別なことはなにもしないでしょう。生きている時も、別に話をしたりしなかったわけですから。それでもおじいさんに会いたいというのは、おじいさんの人格が、それ自体として恋しいということです。

しかしながら、おじいさんが死んで悲しいだのさびしいだのと感じるということは、おじいさんの人格が、くまぶしに対して、依然として働きかけているともいえます。つまり、直接的にではないですが、おじいさんの人格は、くまぶしを悲しませたりさびしがらせたりできるわけで、それゆえ、おじいさんの人格は、くまぶしにとっては、まだ存在しています。「我感ず、ゆえに徳三あり」です。くまぶしはラテン語を知らないので、ラテン語で言うとどうなるかはわかりません。

突然ですが、長くなったのでいったんやめます。くまぶしの悪い癖は、すぐ話が長くなることです。短く話すのは難しいぶしね。つづくぶし。

今、チキン団子の牛乳シチューをつくってるぶし。これからくうぶしよ。えへ。くまぐう。
Apr. 28, 2008
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12.月の中のくまぶし②

こんばんは。くまぶしです。今日は、こないだの話の解釈をします。

童子は、爐ばたを叩きながら、「羨ましや、カムイなれば、水を汲まず」といいます。つまり、カムイというのは働かないわけです。これはたぶん、わりと本質的なことだと思います。

童子は最終的に、「月の中の人」になってしまいました。要するに働かなくてよくなったわけです。お話では、「神罰」といわれていますが、願いがかなったともいえます。

アイヌ(人間)は、死んだらカムイコタンにいきます。つまりカムイになります。童子は少しせっかちだったと思います。

童子はカムイの本質を「働かないこと」として理解しました。これは間違いではないですが、やっぱり偏見でもあります。どうしてかというと、カムイの本質は、カムイらしさにあるわけで、「働かない」というのは結果的にそうだというだけのことだからです。

一方、「働くこと」というのは、アイヌらしさとはいえるかもしれませんが、これも一面的理解です。どうしてかというと、アイヌもやっぱり死んだらカムイコタンに行くわけですから、その本質は、アイヌ/カムイなわけです。つまり、アイヌ的ものの見方では、アイヌとかくまとか鹿とかカムイといったカテゴリーは、それぞれ単独では考えられないもので、常に、くま/カムイとか、鹿/カムイとか、アイヌ/カムイという二つの存在様態が一致したものなわけです。

この二つはどうやら分けられないようです。つまり、くま/カムイはいるが、純粋なカムイそれ自身みたいなのはいないみたいです。だから、心身二元論的に、くまという肉体とカムイという魂があるわけではないと思います。

二つの存在様態というと難しいですが、これは要するに、一つのことに二つの意味、つまり、くま的意味とカムイ的意味や、鹿的意味とカムイ的意味や、アイヌ的意味とカムイ的意味があるということです。

基本的なこととして、まず、アイヌの世界とカムイの世界があります。もっとも、アイヌの世界といっても、アイヌも死んだらカムイコタンに行くわけだから、とりあえずこの世というくらいの意味です。つまり、カムイコタンからアイヌコタンへやってきて、そこでの生が終わるとまたカムイコタンへ帰ってゆくという仕組みは、アイヌもカムイも一緒です。とりあえずの視点(自己同一性)をどちらの世界に置くかが違うわけです。

さて、アイヌがカムイに対してお祭りをすると、おそなえのお酒やご馳走が、カムイコタンにいるカムイの元へとどきます。カムイのお家の窓から、酒の入った杯やらお膳に乗ったご馳走とかが飛んで入ってくるらしいです。カムイは大喜びです。どうしてかというと、カムイたちは働かないから生産手段を持っていないので、アイヌからの食物供給がないと、わびしい暮らしをしなければならないからです。

まあ、飢え死にしたりはしないみたいですが。はらへったぐうめしよこせぐうくまぐう。となります。

アイヌによくお祭りされているカムイは、物持ちになるので、それで近所のカムイをよんで宴会ができます。楽しい宴会です。それで、よくお祭りをしてくれるアイヌには好感をもって、ちょっと遊びに行こうかなと思うわけです。

そのとき、くま/カムイだったらくまの、鹿/カムイだったら鹿の体を身にまとって、人間の世界に遊びに行きます。動物の体というのは、カムイがこの世に現れるために必要な衣装みたいなものと考えられています。ただ、この体は、この世での体なので、カムイコタンに帰るときには、その体のままでは帰れません。星の王子様とおんなじだぶしね。カムイコタンは、天空か山の上か、よくわからないのですがとにかく高い所にあるようなので、重すぎて帰れないのだと思います。

それで、くま/カムイは、この世での姿としてのくまの体を、アイヌに置いていってくれるわけです。アイヌが狩りでくまをとらえたら、それはカムイコタンへ帰るくま/カムイが、置き土産としてくまの体をくれたということです。それで、アイヌは、くまを狩ったら、きちんとくま/カムイを送る祭りをしないといけないし、また、イオマンテもしないといけないわけです。(無礼に送り返すと大暴れします。)

さて、童子が考えている「仕事」というのは、アイヌ/カムイ存在における、二つの意味のうちの、アイヌ的意味の方です。

たとえば、「狩り」はアイヌ的意味のレベルでは仕事です。つまり、人間的意味のレベルに限っていえば、狩りを成功させるには、動物の習性をきちんと理解し、狩りの道具の使用に習熟して、仲間と連携しながらうまくやらなかったら獲物が取れるわけがありません。だから、くまの動物行動学的知識であるとか、狩り場の知識であるとか、狩りの方法論であるとか、そういった「科学的」知識についていえば、ふつうの現代人よりずっと正確な知識を持っていたはずです。

それにもかかわらず、狩りにはまた、カムイ的意味のレベルもあるわけです。つまり、狩りとは、カムイコタンに帰るくま/カムイから、くまの体を置き土産にもらうことだという意味です。 当然ながら、贈り物をもらうことは仕事ではないし、お礼をすることも仕事ではありません。つまりカムイ的意味においては、狩りは仕事ではないのです。この意味のレベルがある限り、アイヌはカムイだといえます。

一般に、例えば、昔の人が豊作を祈ってお祭りをしたことについて、今の人は、「彼らは科学的じゃなかったから神頼みをしたのだろう」と、なんとなく思うみたいですが、農作物をつくることに関して、農家の人は別にして、今のふつうの人が、昔の人より「科学的知識」を持っているかどうかははなはだ疑問です。昔の人だって、別に、神さまに頼みさえすれば米ができると考えていたわけじゃありません。きちんとした農作業をしなかったら、できるはずがないのは当然です。この場合も、人間的意味と、カムイ的意味の二つがあって、祭りをすることは、このカムイ的意味にかかわる問題なのです。

ちなみに、こないだ紹介したエリアーデの「聖と俗」では、この二つの意味のことを、聖と俗といっているわけです。もちろん、カムイ的意味が聖です。

それでは、カムイ的意味とは何かというと、基本的には、アイヌの場合には、「楽しく宴会すること」ですむと思います。ごしゅうせいの倫理とかいってもいいかもしれませんが、ちょっと大げさだぶしね。あと、倫理という言葉には、くまぶしはあまりいいイメージをもってません。偏見かもしれませんが。まあ、くまのいうことですから。

長くなったので、宴会についてはそのうち書きます。いっぱい書いて疲れたぶし。ご苦労様でした。くま。
Apr. 22, 2008
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11.月の中のくまぶし①

kumaこの絵は、「月の中のくまぶし」という絵です。

今日はこの絵の由来を書きます。

先週、思うところがあって、図書館で金田一先生の「ユーカラの研究―アイヌ叙事詩 (1931年) (東洋文庫論叢〈第14〉)」を借りてきました。(←それにしても、べらぼうな値段がついてるぶしね。) もともと、「ユーカラ―アイヌ叙事詩 (岩波文庫)」と「アイヌ神謡集 (岩波文庫)」はうちにあったのですが、それを読んでてちょっとわからないことがあったので借りてきたわけです。

アイヌのユーカラに、サンタトリパイナという歌があって、これは月中の人の元を物語る歌です。よくわからないのですが、どうやら月の中にいるのがうさぎではなくて人だとされていたみたいです。

ユーカラというのは、神さまとか英雄とかが一人称で語っている歌です。神さまが語るのをカムイ・ユーカラ、英雄が語るのをアイヌ・ユーカラといいます。

そもそも、アイヌというのは人間という意味で、種族というか部族というか民族というか、要するに今ふつうに使うアイヌというカテゴリーとは違って、本来的には人間はみんなアイヌです。アイヌじゃないのは、だいたいカムイです。ほかにどんなカテゴリーがあるかはよくわかりません。もちろんくまはカムイです。

Yukarというのは、真似るという意味です。金田一先生によると、「過去の実歴を、口の上に、言葉の上に、そのとほり真似る即ち複現する」ということで、「祖先の英雄が、戦場から帰つた後の爐ばたで、皆へ聞かせに、言語の上に、もいちど、それを再現する戦物語が即ちyukarである。それを自分達が後々まで云ひつぎ語り継いで行くのも、所詮はyukarな所以である」。

要するに、ユーカラというのは、直接神さまとか先祖の英雄から話を聞いた人が、その神さまとか先祖とかの語り口をそのままに、真似して語り継いできたものだということです。

さて、以上は前置きです。本題はサンタトリパイナの話です。サンタトリパイナという言葉は、意味はわからないそうですが、一句ごとにリフレインで入ってます。

このユーカラは、童子を育てていた女のひとが歌っている形になっています。金田一先生の訳の引用です。

サンタトリパイナ
童子に水汲ませんとて わが云ひつけたりけり。
然るに (彼は)爐ぶち神を 叩き叩き かく云ひたりけり――
『羨しや (爐ぶちは)神なれば 水を汲まず』
しか云ひつつ 爐ぶち神を叩き叩き さて起ちたりしが。
戸柱の神を 叩き叩き、
『羨しや (戸柱は)神なれば 水を汲まず』と 云ひたりけり。
さて外へ出でたり。
然るに 入り来ること 余りにも遅し。
それ故に われ探しに 外へ出でしが われ川添ひに下りたり。

ようするに、小人に水汲みをいいつけたら、ぶうぶう言って爐(ろ)の縁を叩いたり、柱を叩いたりしたということです。爐のふちと柱は神さまなんですが、実をいうとアイヌにとっては、ほとんどのものが神さまです。その中でも、爐ぶちは特に重要みたいで、他の話にもよく出てきます。以下はくまぶしが簡単にまとめて書きます。

さて、女の人が、童子を探しに外に出て、川を下って行ったところ、雨鱒の群れがのぼってきたので、童子の行方を聞いてみたところ、

『われらは 童子が われらを悪口して ポツポツやいポツポツやい!
と云ひたるが 腹立たしければ 童子がゆくへ われら云ふまじ』

と言われました。しょうがないので、さらに下っていきました。

今度は、鱒の群れと会ったので、童子の行方を知らないかと聞いたら、

『童子は われらを悪口し 汚いからだ汚いからだ
と、われらを云へるが 腹立たしき故
童子の 行きたる所を われら云はじ』

と言われました。しょうがない小人です。そのあと、うぐいの群れに会って、同じように聞いたら、同じように、童子が悪口を言ったから教えないといわれました。

最後に、鮭(神魚)の群れが来ました。童子の行方を尋ねると、

『童子に われら逢ひしに 「神魚よ! 神魚よ」と われらに云ひたり。
忝ければ 一分四什をわれら聞かすべし。
水汲むことを厭ひ 爐ぶちを 打ち叩き 戸柱を 打ち叩く
その神罰に 月神より 捕へられ 月中の人になりたり』

と鮭がいいました。見上げてみると、確かに童子は月中の人になっていました。

『ここに於て さんざんに涙を われひとり落としたりけり。
ゆめゆめ 仕事を厭ふなよ、 神々を毀損するなかれ。』

これでおしまいです。

この話の解釈は、次回のおたのしみです。とにかく、くまぶしも、仕事はわりとすきじゃないので、仕事をするときは、いつもぶうぶういいながらします。あと、わりと口が悪いところもおんなじです。そういうわけで、くまぶしが月の中に入れられてしまったところを書いたのが、月の中のくまぶしの絵というわけです。

月がまんまるにならなかったのは御愛嬌です。
Apr. 20, 2008
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9.ロバ先生

新学期がはじまったぶしね。くまぶしもちょっと学校へ行ってみたぶし。

学校から帰ったら、いるかっぱの友達のロバ先生が遊びにきてました。

ロバ先生は、いわゆる高学歴フリーターで、大学の非常勤講師(かけもち)と、研究所のアルバイト研究員と、ホテルの夜勤アルバイトをやってます。月収15万くらいです。いけてないです。

ロバ先生は、今年から学校がひとつ増えて、3つの学校に行ってます。それで、教養課程で宗教学を教えてます。つまり、宗教学にはほとんど興味のない学生さんたちに教えてるわけです。

ロバ先生はロバなので、本当はロバ宗教学をやってるのですが、学校ではロバ宗教学じゃなくて、普通の宗教学を教えようとがんばってます。けど問題は、「普通の宗教学」というもののコンセンサスがないので、先生もどう教えていいかわからないみたいです。結局、ロバらしく、「宗教学入門」とかそういう本をいっぱい読んで、「普通の宗教学」の研究をしてるみたいです。

先生は教育学部出身で、しかも、教育学の修士をとってから宗教学に転向したので、授業はだいぶまじめにやります。感心ですが、学生さんたちからいい先生だと思われてはいないみたいです。ロバ先生は、いてもいなくてもおんなじという雰囲気なので、一般に、人から好かれたり嫌われたりすることがないです。たぶん、授業もあまりおもしろくないんじゃないかと思います。

ロバ先生によると、一般の学生さんは、「宗教」というと、宗教教団のことと思うらしいです。宗教が教団のことだとしたら、宗教学というのは、正確には、宗教教団学ということになるぶしね。これはようするに宗教社会学のことだぶしね。宗教社会学は、宗教学なのか、社会学なのか、くまぶしにはわからんぶし。いろんな意見があるらしいぶし。

教団というのは、組織だから、例えば「会社」みたいな概念とおなじなのかしらん?だとしたら、宗教教団学というのは、会社学みたいなものだぶしね。「会社社会学」とかいうものだったら、ありそうだけど、「会社学」が一つのディシプリンだというのは、ちょっと変な感じがするぶし。同じように、宗教社会学は社会学の一種としてあってもいいけど、独立した学問だというのはちょっとどうかと思うぶし。でも、「世界遺産学」とかいう学問もあるらしいから、まあいいか。

くま宗教学では、簡単に、宗教というのは、人が、神さまみたいなものに会うことだとしています。エリアーデというくまが昔、ヒエロファニーといったやつです。『聖と俗』という本に書いてあるぶし。くまぶしは別に、「宗教」という言葉にこだわる必要はないから、ヒエロファニー学とかいった方が楽でいいです。けどそれだと何のことやらわからないだろうから、一応、宗教学といってるぶし。

参考文献だぶし→聖と俗 〈新装版〉: 宗教的なるものの本質について (叢書・ウニベルシタス)

ヒエロファニーというのは、「なにか聖なるものが現れること」という意味です。「聖なるもの」というのは、出てくるとそれとわかります。なんでかというと、「聖なるもの」が自分をそういうものとして示すからです。人が勝手にそう思うわけではありません。

一つのヒエロファニーがあるということは、そこにおいて現れた「聖なるもの」が、自分をそういうものとして誰かに示したということです。けれどだからといって、その石が誰にとってもヒエロファニーであるということではありません。ようは、ある石において、「聖なるもの」を体験する人と体験しない人がいるというわけです。

このことから、ヒエロファニーに対して懐疑的な人は、ヒエロファニーは事実ではなくて、人間が勝手に思い込んだだけのものだといいます。まあ、そう思う人はそれでもいいでしょう。

くまぶしはわりと素直なくまなので、誰かが、「聖なるものにあった」といったなら、たぶん本当に会ったんだろうと思います。くまぶしが会ったことがない人は、くまぶしは会ったことがない人というだけのことで、自分が会ったことがないからといって、そんな人はいないのだというのは暴論だと思います。あと、ある人についての話は、その人に会ったことがある人に聞くべきであって、会ったことがない人に聞いてもだめだと思うので、くまぶしは、神さまについての話は、神さまに会ったことがある人の話しか参考にしません。

人間の歴史では、いろんな人がいろんな「聖なるもの」に会っています。すごくたくさんの「聖なるもの」が現れているというのは、それだけいろんな人に対して、ヒエロファニーがあったということです。くま的視点からすると、いろんなヒエロファニーを知るということが、そのままいろんな人間を知るということになります。そういうわけで、くまぶしは、「聖なるもの」に会ったことがある人の話を聞いて、それで、いろんな人が体験した「聖なるもの」の体験を勉強しようと思っているわけです。

ちなみに、そのものずばり、聖なるもの (岩波文庫)という本があるぶし。オットーという人が書いたぶしよ。この人はちょっとくまではないので、面白い本だけど難しいぶした。実は、岩波文庫もある。
Apr. 18, 2008
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7.くまについて

くまは、けもけも獣(剛)です。ケモケモジュウカッコゴウと読むべし。けもけも獣(剛)というのは、毛が生えているもの(つまりけもの)で、しかも剛毛だということです。

祝詞なんかでは、けのあらもの(荒物)・けのにこもの(和物)と言います。一応、毛がかたいかやらかいかの違いです。くまは毛の荒物の一種です。というか、毛の荒物といえばくまでしょう。猪といい勝負です。でもたぶんくまのが強いです。オッコトヌシ様には負けるかもしれませんが。

くまぶしもわりと毛のあらものです。(今では。)

くまぶしの友達に、シェルティーのモモというのがいますが、これはけもけも獣(柔)で、けのにこものです。やらかいです。そして、飼われものです。かわいいですが、情けないやつです。

  ↓ばかまるだしのモモ
060505_1332~001荒いというのは、硬いということですが、硬いから手に負えないという意味でもあります。

荒ぶる神というのは、乱暴をする神様のことですが、風土記なんかだと、荒ぶる神というのは、交通の要衝を占拠して、通りがかる人の半分を殺したりします。こわいです。もうすこし新しいのだと、天神様なんかも荒ぶりました。おおあばれです。

荒蝦夷(あらえみし)というのが日本紀(後ろの方)にでてきますが、これは大和朝廷に貢ぎものをもってこない蝦夷という意味みたいです(使者が言ったと書いてありますが、やまとの人に媚びたんじゃないかと思います)。当然、大和の側からみて「荒」というわけです。それをいうなら蝦夷もそうですが。自称ではなかったと思います。服属してる蝦夷を和(にぎ)蝦夷と呼んでます。和蝦夷は毎年みつぎものをもって挨拶に来るわけです。荒蝦夷は、あべのぴらふとかにやっつけられてもういないかと思ったら、まだいるみたいでした。ホームページ作ってました。かっこいいです。もっとあらぶってほしいです。荒蝦夷のホームページ

荒の反対の和(にき・にこ)は、やらかいという意味です。にきしね(和稲)は脱穀した米で、あらしね(荒稲)はモミがついたままの米です。この場合、まずは食えるか食えないかの違いです。食えるのが和で食えないのが荒です。けど、和稲を田んぼにまいてもだめで、あたりまえですが、荒稲じゃないと育ちません。この場合は、生きてるのが荒で死んでるのが和だといえます

さて、以上は前置きです。

なにがいいたいのかというと、まず、くまは毛の荒ものですが、単に毛が硬いというだけじゃなくて、本質的に荒ぶるものだということです。毛が荒いというのは象徴です。くまの本質を端的に表現しているのです。なめんなよ。熊牧場でくれくれポーズをしているのは世を忍ぶ仮の姿です。
くま出没注意です。気を抜いたらくま食いするぶし。

くまぶしがまだ白熊だったころ。(今は茶色でもっと大きい。)
060922_2120~001それから、もうひとつここで主張しておきたいことは、人間の赤子はくまであるということです。確かに、赤子はけもけも獣ではありませんし、どっちかというと(柔)な生き物なので、にこもの(和物)かと思いがちです。しかし、彼らは荒ぶるものです。まだ脱穀してないということです。

つまり、赤子もくまも、荒ぶるものだということなんですが、くまの本質は荒ぶるもので、赤子の本質も荒ぶるものだから、便利のために赤子はくまであるといっているのです。

くまぶしくまですから、くま的視点からすると、荒ぶるというのはくま的ということです。和というのは人間的ということです。わかりましたか?その意味で、赤子は人であるというよりはくまなのです。

スサノヲという神様がいますが、彼はKING OF 荒ぶる神です。だから彼は偉大なくまです。そして、彼がまずやったことは、「なきわめく」ということでした。そのなきわめきは尋常じゃなくて、そのせいで、水は干上がり、山は枯れ山になるほど泣きました。それから、田んぼの畦を破壊したり、お祭りのための御殿の中でうんちしたりしました。赤ん坊もよくそういうことをします。ノイローゼになるお母さんもいます。

スサノヲは赤ん坊みたいだというのは正確な言い方ではありません。赤ん坊がスサノヲみたいなのです。順番が大事です。もっとも、くまぶしから言わせてもらえば、スサノヲはくま的で、赤ん坊もくま的なのです。くまの視点からすると、これが一番正確な言い方になります。

今日はいっぱい書いたぶし。おつかれさまでした。それではごきげんよう。あらぶるくまぶし
Apr. 13, 2008
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5.くま宗教学

おひさしぶりです。くまぶしですがなにか?

別に、さぼっていたわけじゃありません。くまぶしだって忙しい時もあるのです。なめんなよ。346346346

くまぶしは、くま大学の大学院で、くま宗教学というのを勉強しています。
くま宗教学は、くまの宗教を研究するものではなくて、くまが人の宗教を研究するものです。
なんで宗教の研究をするかというと、くま宗教学のファウンディングファーザーの一人であるエリアーデ先生というルーマニアのくまが、人間の本質を、ホモレリギオースス、つまり、宗教的人間であることだと、河童したからです。うそです。喝破したからです。

簡単にいうと、人間を理解するのには、人間の宗教を研究するのが一番てっとり早いということです。

くま宗教学は、くまが人間を理解するためのものだから、当然ながら人間が研究対象です。
人間の宗教学は、ディシプリンがさまざまあったり、対象にする地域や時代がさまざま細分化されていたりするけれど、くまにとっては、わりとどうでもよいことです。(中には、マニアなくまがいないわけではないですが。)

一般に、くまは、まず人間とはどういうものかを知りたくて宗教の研究をするわけです。だから、例えば日本の宗教だとか、近代の宗教だとか、どこだかの宗教だとか、いつの宗教だとかのちがいは、とりあえず興味がないことです。

くまからみると、人はまず人です。本人たちは、それぞれ、何人だとか、かに人だとか、近代人だとか、いろいろ思っていて、それがすごく大事なことのように言いますが、くまから見たら、誰それはくまではなくて人であるというのが、本質的な問題なのです。

もちろん、くまにとっても、なにくまであるかは重要な問題です。ただし、くまの場合は、一般に、なにくまであるかよりも、くまであるということの方が、より重要な問題であるとされています。(それよりも、けもけも獣であることの方が本質的だという学者もいます。けもけも獣(剛)ともいいます。)

あと、いわゆる未開民族といわれる人たちは、トーテムとか部族とかを大事にしていることが多いですが、これは、今の人たちが用いる相対的区別(文化的区別ともいう)とは違って、絶対的区別です。

例えば、「われわれはポポプペ族である」というのは、今の言葉で言ったら、「われわれは人間である」という意味です。どうしてそれが絶対的区別になるのかというと、宗教的だからです。よくわからないでしょうが、説明するのがめんどくさいです。そのうち気が向いたら、だんだんと言います。

それはともかく、たぶん人間は、自分たちが人間だから、絶対的な基準である「人間であること」にはそれほど興味がないのだと思います。

もしくは、「そんなことはもう知ってる」と思っているのかもしれません。(理系の場合は別です。)それよりも、相対的な区別の方を重視して、自分たち同士の間に、ささいな違いを発見すると、すごく面白いことだと感じるみたいです。

まあ、くまぶしはくまなので、人間の事情はよくわかりません。とにかく、くまぶしは、人間を理解しようと思って、くま宗教学を勉強しているわけです。

くま宗教学のことは、またそのうち書きます。くまべし。
Apr. 10, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次