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57.にゃむぷのこと

夜中ですがこんにちは。くまぶしです。

旅行から帰ってきたら、かっぱがにゃむぷに夢中になってました。にゃむぷというのは、くまぶしのうちにやってきたトラ猫です。

くまぶしがいない間、ずっといちゃいちゃしてたみたいです。今日は寒いので、にゃむぷはずっと、かっぱの甚平さんの懐に入っていました。

にゃむぷはだいぶ元気になりました。瞬膜も引っ込んできました。でも、まだ鼻がぐずぐずしています。体重が30グラム増えて、見違えたようにかわいくなりました。まだ680グラムですが、1キロくらいになったら、激烈にかわいくなるんじゃないかとおもいますぶし。

あと、くまぶしがいない間、にゃむぷは、うんちを3回、おしっこを2回、もらしたそうです。けれど、昨日からは、にゃむぷのトイレでするようになったみたいです。お食事をしてすぐにトイレの前に連れていくと、自分からトイレに入ってするようになりました。かしこいです。うほ。さっき気づいたら、トイレでうんちをしていました。自分からトイレでするなんてかしこすぎと思いました。ぶし。

それではにゃむぷと一緒に寝ます。おやすみなさいぶし。
aug. 22, 2008
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56.にゃむぷ

こんばんは。くまぶしです。

昨日は、かっぱがホテルで宿直してたので、朝帰りでした。

かっぱが帰ってきたとき、くまぶしはまだ寝ていたのですが、かっぱが帰ってきて、いつものようにトイレで大便をしていたら、にゃあにゃあという音がしたそうです。かっぱは、変な音がするなと思ったそうですが、自分のおなかか肛門が鳴っているのだと思ったそうです。

それから、居間でパソコンをいじってたら、外からまたにゃあにゃあと音がするのでした。それで、腹が鳴っていたんじゃなかったのかと思って、外を見てみたら、やせっぽちの子猫が、入れてくれ入れてくれといって鳴いているのでした。すごく小さいので、ちょっと見にはかわいいのですが、よく見てみると、顔がすごい怖い子猫でした。

かっぱは、入れてやろうかどうしようかちょっと考えたのですが、顔が怖いし、やせっぽちだから、かわいそうだけど親に捨てられて死ぬ運命なんだろうと思って、入れないことにしたそうです。それで、ちょうどそろそろ起きようかと思っていたくまぶしに、顔が怖い子猫がいたよといって、寝てしまいました。

くまぶしは久しぶりのお休みだったので、昼まで寝てたのですが、最初起きたときには、猫の声は聞こえませんでした。それで、1時間くらい、うだうだしていたのですが、そのうち猫の声が聞こえてきました。それで、そういえばかっぱが子猫がいたといっていたなと思いだしました。

くまぶしは最初、猫たちが遊んでいるのかと思ったのですが、鳴き方がちょっと必死な感じだったので、たぶんお母さんを呼んでいるんだろうと思いました。それで、ほっておいたのですが、だいぶたってもずっと鳴いているので、いつまでたっても親が来ないなあと思って見に行ったら、向かいのおうちの車の下に入って、やせっぽちの子猫が鳴いているのでした。

とりあえず、おうちに連れてきて、よく見てみると、すごいがりがりで、骨が浮いてます。あと、鼻水をたらしてくしゃみをしています。眼やにがたまってて、目が半分あいてないみたいです。体重を計ってみたら、600グラムでした。歯はちゃんとはえてます。とりあえず、牛乳をやってみたのですが、飲みません。

それで、タオルにくるんでかっぱのところに持って行ったら、「えー。拾っちゃったの?」といってかっぱも起きてきました。それで、くまぶしは、けっこう深いお皿に牛乳を入れてあげてたのですが、かっぱがいうには、猫はものを飲むのが苦手だから、浅い器か、ティッシュとかに含ませて飲ませるのだといって、やってみたのですが、やっぱり飲みません。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAこれがにゃむぷです。わりとかわいく撮れたほうです。

しょうがないので、ドラッグストアに行って、仔猫用の缶詰を買ってきて、皿にもってやったら、最初は嫌がってたのですが、くまぶしが無理やり口の中に入れたら、やっぱり腹が減っていたのか、がつがつがつがつ食いました。それで、食ったらごろごろいいながら寝ました。とりあえず、名前がないと不便なので、にゃむぷと呼ぶことにしました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA寝ているにゃむぷ。寝ているところはかわいいです。

2時間ぐらい寝かせてから、起こして、鼻をかんで、目の掃除をしました。それから、もう一回ご飯を食べさせました。本当は、風呂に入れたかったのですが、風邪をひいてるから悪いだろうと思ってやめました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAこれがにゃむぷの怖い顔です。

おっきくして見るとわかると思いますが、鼻水たらしまくりです。あと、目が変です。猫Giさん、これはどういう状態だかわかりますか?子猫はこういう目なんでしょうか。くまぶしは猫を飼ったことがないのでわかりませんぶし。かっぱは、30年くらいまえに、放し飼いで猫を飼ってたそうですが、昔のことなので、あまり猫の世話とかはせずに飼ってたみたいです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAあと、おなかに丸いぷにょぷにょしたものがあります。かっぱは、ヘルニアじゃないかというのですが、なんだかわかりません。痛くはないみたいです。

ところで、くまぶしは、今日は25度くらいしかなくて寒いし、風邪をひいてるみたいなので、なにも考えずに家に入れてあげたのですが、この辺は田舎なので、半分野良猫で腹が減ったら餌をやるくらいでなんとかならないかなと思うのですが、どうなるかわかりません。とりあえず、ご飯も食べるし、朝よりはだいぶ元気になったみたいなので、風邪はそのうち治るでしょう。

お腹のぷにょぷにょのことは、一回病院に連れてった方がいいかなと思うのですが、明日から大叔母さんをお見舞いに一泊旅行に行かないといけないので、帰ってきてからどうするか考えますぶし。あと、かっぱがいうには、ジステンバーのワクチンとかをしないといけないそうですが、基本的には野生動物なわけだから、どの辺まで面倒をみるか、難しいところだと思います。くま。
aug. 17, 2008
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55.お盆の構造とアルカイックな宗教

こんにちは。くまぶしです。
今日から三日間、山のステーキ屋で仕事です。昨日はせっかくの休みだったのに、学会の準備があったので、結局のところお休みがなくなってしまいました。たいへん不満なくまぶしです。

今日はお盆なので、お盆の話をします。くまぶしの近所には、立派な門がついてる農家がたくさんあるのですが、門の所にぼんぼんが吊ってあってきれいです。

お盆という言葉は、盂蘭盆会(うらぼんえ)から来ていて、これはサンスクリットで逆さづりという意味だそうです。ホテルに置いてある仏教説話集とかで読んだことがある方も多いと思いますが、お釈迦様の弟子の目連さんのお母さんが、餓鬼道で逆さづりになって苦しんでた話ですね。それで、目連さんがお釈迦さまに頼んで、施餓鬼の方法を教えてもらって、お母さんは極楽に行けましたというお話です。

施餓鬼会というのは、安吾(雨期にする坊さんたちの強化合宿)の最後の日に、集まっているお坊さんたちに施し物をすると、餓鬼道に落ちてるお母さんにも、おすそ分けの施しがあげられて救われるよという行事です。うがった見方をすると、坊さんたちがお布施をたかっているかのようですが、目連さんはお釈迦様の弟子の中で、神通第一の人だったから、実際に神通力でお母さんが救われるところを見たそうです。だからたぶん本当なんでしょう。くま。

目連さんの話は、盂蘭盆経というお経に書いてある話だそうですが、盂蘭盆経は中国で書かれたお経です。こういうのを、ちょっと言葉が悪いですが、偽経といいます。悪くない言葉でいうと、中国撰述経といいます。まあ、どっちでもいいのですが、いわゆるもともとの仏教じゃない要素がたくさん入っているといわれてます。たとえば、さっきのお話で、地獄で苦しむとか、極楽に行くとかいうのは、本来的な要素ではないといわれてます。ブッダの説だと、輪廻していることが苦で、輪廻しなくなることが成仏なので、極楽に天人として転生しても、別に救われたことにはなりません。ただ、ブッダの仏教は、ちょっとインテリの宗教なので、普通の人は、本気でブッダがいう意味での成仏をしたいとは思わないことが多いです。

話がそれましたが、お盆というのは、そういうわけで、中国仏教の施餓鬼会なわけです。けれど、日本にもともとなかったかというと、そうともいえません。一般には、もともとあった先祖供養のお祭と、中国から聞いた盂蘭盆会が習合したものだとされています。

日本にもともとあった行事というのは、推測ですが、年に二回、春のはじめと秋のはじめに、ご先祖様がやってきて、お祭りをするというものだったと思われています。盆と正月が一緒に来たようだというような言い回しが今でもありますが、昔は正月が二回あって、それが今の盆と正月になったという説もあります。盆暮れというと、実家から離れている人が地元に帰るときなわけですが、これは、ご先祖が帰ってくるのと同じわけですね。

仏教行事としての盂蘭盆会(施餓鬼会)の場合には、地獄なり餓鬼道なりで苦しんでるだろうご先祖を、供養することで救ってやろうとするわけで、別に、ご先祖様がこの世に帰ってきたりするわけではありません。そういう意味では、今のお盆は、本質的には、仏教行事であるというよりは土着のお祭に近いといえそうです。

日本のお盆では、お盆の最初の日に、地獄の釜の蓋が開いて、それでご先祖たちが出てきて、きうりの馬に乗っておうちに帰ってくるわけです。それで、子孫の顔を見て、ご馳走を食べて、一緒に盆踊りをして、最後になすびの牛に乗って帰っていくわけです。来るときは馬なので早いですし、帰りは牛なので名残を惜しんでゆっくり帰ります。一説には、牛だとお土産を運べるから便利だといいます。

さて、このように、お盆というのは、ひとことで言うと、ご先祖がやってきて、一緒に遊んで、それから帰っていくのをお見送りするというお祭りです。このようにいうと、前にお話したアイヌのクマの神さまと同じ構造だということがわかりますね。クマの神さまは、カムイコタンからクマの毛皮を着てこの世にやってきて、帰るときに毛皮と肉を置き土産に置いていくわけです。人間がクマを狩ることには、クマの神さまがカムイコタンに帰るのを手伝うという意味があります。また、やっぱり前にお話ししたタタリのお祭というのも、基本的には同じことだと思います。タタリの神さまは、突然やってくる神さまなので、びっくりしますが、神さまがいるのだ(たたり)ということがわかった時点で、おもてなしをして、それからさようならをするわけです。

つまり、やってくるものがいて、それをおもてなしして、最後にさようならをするというのが、お祭の基本的な構造なわけです。もっとも、こういうお祭は、いわゆる「高級な」宗教ではあまりやりません。「高級な」宗教というのは、例えばブッダの仏教とか、ジーザスの福音とかで、わりあいインテリの宗教のことです。

くま宗教学では、お盆のような簡単なお祭も、もちろん宗教なのですが、いわゆる「高級な」宗教と区別するために、アルカイックな宗教とよんでいます。アルカイックというのは、古代的ということですが、アルケーっぽいという意味でもあります。根本的という意味ですね。それで、一般の考えとは逆なんですが、簡単なお祭をするようなアルカイックな宗教の方を基本的な(エレメンタルな)宗教であると考え、それに対して、いわゆる「高級な」宗教は、特殊な宗教だと考えているわけです。

アルカイックな宗教をもたない人間はいないのに対して、特殊な宗教をもたない人間は結構います。日本人はだいたいそうかもしれません。そういうわけで、くま宗教学では、特殊な宗教ももちろん研究しますが、中心に研究するのはアルカイックな宗教です。特殊な宗教は、アルカイックな宗教から派生したものとして理解しています。ふつうの考えでは、ちゃんとした宗教と、宗教以前の宗教というように、逆に考えていることが多いので、くまぶしはちょっと不満です。

アルカイックな宗教というのは、前にいったことがあると思いますが、人間の基本的な条件であると思います。お盆の場合でいえば、やってきたものをおもてなしするというのは、基本的なことです。もっとも、もてなし方にはいろいろあって、そのやり方は文化によって違うでしょうが、おもてなしすることが基本的なことだというのはいいと思います。おもてなしをしたら、いいことをしてくれるだろうから、おもてなしをするということもあるかとは思いますが、それがすべてというわけでもないと思います。また、ちゃんとおもてなしをしないと、タタリの神さまみたいに、あばれることがあるかもしれませんが、だからといって、暴れられるのがいやだからお祭をするという言い方が正しいわけではないと思います。訪ねてくる人がいたら、とりあえずおもてなしをするということに、理由は必要ないと思います。

理由が必要ないということは、それが、基本的なことだからということだと思います。つまり、ご飯を食べたり、寝たり、遊んだりすることは、人間の基本的な行動です。「眠いから寝るのだ」というのは、一応の理由ですが、実際のところ、眠いから寝るのではなく、人間は寝るようにできているといった方が正しいと思います。同じように、やってくるものをもてなす(祭る)というのも、理由はさまざまつけることができるでしょうが、すべて後付けの理由にすぎないと思います。つまり、その理由ゆえにお祭をするのではなく、人間は、本質的にお祭をするようにできているわけです。

もっとも、私はお祭なんかしないという人は結構いるでしょうが、ここでいっているお祭というのは、文化的に規定されたお祭だけをさしているのではなくて、例えばご飯を食べたり、言葉を話したりするのも、くまぶしの考えではお祭の一種です。

ご飯を食べるというのは、やってくるものを体の中に入れることです。味がするのがお祭りです。うんちをするのは、食べたものとさようならをすることです。

何かを話すというのは、何かを発信することで、話を聞くというのは何かを受信することです。その意味でも十分お祭りですが、それだけではなく、そもそも、言語体系に依存して生きるということは、人間にとって基本的なことです。これは、文化的に形成された世界(世界解釈)の存在を前提にして、はじめて個々人がありうるということです。言葉なんて信じないと思ったとしても、そのように言葉で考える以外にないわけなので、結局のところ、言葉を信じないということは不可能なわけです。それで、言葉を使うということは、一種の文化的に決められたお祭を実践するということだといえると思います。

文化的に「無宗教」という宗教をもつことは可能ですが、言葉を信じないことが不可能であるように、本当に無宗教であることは不可能です。一般に「無宗教」というのは、くま宗教学でいう特殊な宗教をもっていないという意味だと思います。

要するに、くまぶしがアルカイックな宗教というのは、人間の定義であるわけですが、実をいうと、人間の基本的な条件を、アルカイックな宗教とよんでいるだけのことです。そういうわけで、宗教という言葉を使うのがいやな人は、別の言葉を使ってくれてもいいと思います。

ちょっとおおげさな話になってしまいましたぶし。本当は、盆踊りのこととか話そうかとおもってたのですが、アルカイックな宗教の話になってしまいましたね。

それではまた。おやすみなさいぶし。
aug. 14, 2008
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54.塾にいくまぶし

こんにちは。くまぶしです。

くまぶしは最近、毎日毎日、子供に勉強を教えていて忙しいです。夏休みなので、夏期講習というのをするのです。くまぶしは授業じゃなくて、個人指導というのをしています。中学2年生二人と、とある大学に行ってる仮面浪人に英語を教えています。

くまぶしは、山のステーキ屋さんで、肉を運ぶ仕事をしていたのですが、うし肉の脂のアレルギーになったので、あまりステーキ屋に行けなくなりました。それでも、ステーキ屋の時給がけっこういいので、週に一回だけ行っています。

塾の時給は、ステーキ屋より低いのですが、ステーキ屋と違って座り仕事なので、子供がいうことを聞く子だったら、まあまあ楽ちんだと思います。けれど、くまぶしの担当の子供は、ぜんぜんいうことを聞かないので、ちょっと割に合わない気がします。仮面浪人は、さすがに中学生よりは勉強する気があるので楽ちんです。不満なことは、交通費がでないことです。くまぶしのうちから車で往復20キロくらいかかるので、最近では往復に400円かかることになります。たいへん不満だぶし。

明後日からは、お盆なので塾もお休みです。明日が夏期講習の前半の最後で、それが終わったら、二十日くらいまでお休みになります。うほ。

それでは明日までがんばりますぶし。くま。
aug. 11, 2008
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53.ロータスブロッサム

こんにちは。くまぶしです。今日は、関東一円で大雨がふって、東京ではマンホールで働いていた人たちが流されたりして大変だったみたいですが、茨城では降りませんでした。でも、いま七時ですが、神鳴りがなってます。もうすぐ降るのかもしれないぶした。

今日はわりあい涼しかったので、友達とレンコン畑に行ってきましたぶし。れんこんうまいぐう。もっとも、レンコンを掘りにいったのじゃなくて、お花見にいったのです。それで、写真をとってきたので見てくださいくま。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAこの花は、ピンクです。レンコンを育ててる人がちょうどお仕事をしていたので、いろいろ聞いたのですが、ピンクのレンコンは、白いレンコンとは別の種類なんだそうです。ピンクの方がかわいいですが、レンコン(根っこ)が深い所に埋まっていて、掘るのが大変だということでした。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA→これはつぼみです。つぼみもかわいいです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA←これは、ちょっとピンクですが、白いレンコンです。ピンクのレンコンとは別の種類です。ちょうどいい感じに咲いてます。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA→これは、大クエポニしているところです。こうなったら、花粉がなくなっていて、もうすぐに散るそうです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA←たくさん咲いてるところだぶし。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA→はたけは、こんな感じになってます。かなり密集しているので、泥の上にはえていることがよくわかりません。

くまぶしは、インドで睡蓮をよく見ましたが、あの人たちは葉っぱも花も、水のすぐ上にあったのですが、今日見てきたレンコンたちは、だいぶ高い所に咲いてました。密集してるからというのもあるでしょうが、どうやら種類が違うかららしいです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA←水面には、水草がびっしりです。水草が生えていると、水温が高くならないので、ほんとはちゃんと取らないといけないのだそうです。畑の雑草取りといっしょだぶしね。

花粉が取れてしまった花の、中心のところの中には、種が入ってます。ちょっともらって食べました。松の実みたいな味でうまかったぶした。

友達の話では、ハスの花を切って、上からお酒を入れて、下の茎からちゅうちゅうと飲む行事があるそうです。くまぶしもやってみたいと思ったのですが、落ちてた花を拾ってみたら、ナメクジがいっぱいついてたので、残念ですがあきらめました。

ちなみに、レンコンは芋みたいに、レンコンからそのままはやすので、農家の人にとっては、花とか種とかはいらないそうです。というか、どっちかというと邪魔らしいです。どうしてかというと、種から生えたレンコンは、レンコンから生えたレンコンより小さいので、出荷のときにばらばらになって困るからだそうです。だから、毎年レンコンを植える前に、前の年の種からできてたレンコンを掘りだしてから、新しく植えないといけないのだそうです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAレンコン畑には、ネットがかかっているのと、かかっていないのがあるのですが、これはいつ収穫するかによって違うのだそうです。ネットは鳥よけなのですが、鳥が巣づくりのために、春に葉っぱをむしるのと、秋になってから、カモたちがやってきてレンコンを食べるのを防ぐために、ネットを張るのだそうです。だから、今ぐらいに収穫するレンコンには、ネットをしなくてもよいそうです。ちなみに、写真の鳥は、本物の鳥のミイラです。間抜けな鳥が、引っかかってハングされて、そのままミイラ化してしまうのだそうです。わりあい沢山ぶら下がってました。こわいぶしね。でも、普通の鳥は、うまいことすり抜けられるそうです。カモは大きいので、そもそも入れません。

帰りに、農協によったのですが、レンコンカレーというのがありました。食いたかったけど、仕事に行かないといけなかったので、がまんしました。こんど食いにいきますくま。

それではさようならぶし。
aug. 5, 2008
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52.新聞の勧誘

こんにちは。くまぶしです。夕立ちがふってすごい涼しいぶし。おほ。

夕方、部屋でだらだらしてたら、新聞の勧誘の人が来ました。かっぱが出たのですが、勧誘の人に、「3ヶ月だけとってくれませんか。サービスいっぱいします。タバコを3カートンつけます。洗剤も3000円分つけます。」といわれてました。

かっぱはへらへらしながら断っていたのですが、勧誘の人も粘っていて、撃退するのに20分くらいかかってました。それで、お部屋に戻ってきて、
「『おにいさんかっこいいですね、すごいかっこいいですね、DJオズマに似てるって言われませんか?』って言われた。ばかにしてたのかな?怒るべきだったのかな?」と言いました。

新聞は月に3000円くらいします。3000円あったら、けっこう高い本が買えるわけです。それに、新聞はとっといて何回も読んだりするものじゃないので、ゴミになります。本だったら後で読むこともあるわけです。だいたい、本とか雑誌とかは、読みたいと思う人が自分で買うのが普通です。どうして新聞だけあんなに営業するのか不思議です。くま。
jul. 25, 2008
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51.攻殻機動隊S.A.C

こんにちは。くまぶしです。

くまぶしは今、クーラーをつけてゲームをしてます。

攻殻機動隊 Stand Alone ComplexというPS2のゲームです。アクションです。

たこ博士のアトピーが悪化したので、外出できないから、DSのドラゴンクエスト天空の花嫁を買ってこいといわれて、ゲーム屋さんにいったのですが、その時ついでに買いました。昔のゲームなので、中古で1000円でした。くまぶしは基本的に、安いゲームしか買いません。

素子とか、バトーとか、たちこまになって戦います。仕組みは、メタルギアソリッドみたいです。けどこっちのが簡単です。わりとおもしろいくまくま。

敵の電脳にハッキングしたり、光学迷彩を着たりもできます。おほ。

昨日は、難易度ノーマルでクリアしたので、今日はハードでやってます。

それではさようならぶし。
jul. 24, 2008
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50.御霊会の話

こんばんは。暑い日が続きますね。みなさんげんきですか。くまぶしはちょっとばててます。こないだたたりの話を書いてから、またさぼってました。さぼり癖がついたみたいです。えへ。さぼってなにしていたかというと、まず、宮部みゆきの楽園を読みました。それから、蒲生邸事件も読みました。それから、バイオハザード4を2回クリアしました。それから、鋼の錬金術師のアニメを全部見ました。
とはいえ、さぼってばかりいたわけではありません。ちょっと込み入ったことを書こうと思ったので、なかなかうまく書けなかったわけでもあるのだくま。けれど、いいかげん書かなきゃとおもったので、あんまりまとまってないですが、書いてみます。今日はこないだのつづきで、御霊会の話です。

御霊会というのは、今の祇園祭の祖先みたいなお祭りです。平安時代に京都ではやりました。民間信仰からでてきたものですが、有名なのは日本三代実録という歴史の本に書いてある貞観五年五月二十日の神泉苑御霊会です。神泉苑というのは、京都にあるお庭です。神泉苑御霊会は、朝廷が主催したものですが、一般の人の見学も許されていたので、官民合同開催に近かったんじゃないかと思います。あまり詳しい話をしてもつまらないだろうと思うので、簡単に書きます。史料が手元にないので、けっこう適当です。疑わしいと思った人は、自分で調べてみてください。

御霊会というのは、具体的には、御霊(ごりょう)という神さまみたいなものに対するお祭です。御霊というのは、疫病をはやらせて人を殺すこわい霊です。一般的には、事件とかで死んだ偉い人が御霊になって祟りをするのだと説明されています。そうした説明の根拠は、神泉苑御霊会についての三代実録の記事です。神泉苑の御霊会で祭られたのは、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人観察使、橘逸勢、文屋宮田麻呂だと三代実録には書いてあります。三代実録では、これらの人たちは、「事件に連座して誅せられた人たちで、冤魂がたたりをなした」と説明されてます。

もっとも、このように御霊の正体を決定しようとするのは、朝廷の態度です。民間信仰としての御霊会では、御霊はもっと漠然とした「神さまみたいなもの」と考えられていたみたいです。例えば、道祖神みたいな男女一対の木像が、岐(ふなど)の神とか御霊と呼ばれた(本朝世紀天慶元年)とあります。ふなどの神というのは、境の神さまで、塞の神(さえのかみ)のことです。道祖神には、いわゆる「神格」みたいな個性はないのが普通です。また、ちょっと時代がさがるのですが、船岡山の御霊会は、御霊のお神輿を担いで町中を練り歩いてから、お神輿を海にむかって流すという、今でも農村でやってる虫送りと似たような形式をとっています。船岡山の御霊会では、虫送りの虫みたいに、なにかよくわからないものを御霊としてお祭りしているようです。つまり、民間信仰としての御霊会においては、「御霊」という名前があるだけで十分だったのだろうと思います。

御霊会は、疫病がはやったときに、みんなであつまって、競馬をしたり騎射をしたり相撲をとったり歌ったり踊ったりするお祭りです。もっとも、神泉苑の御霊会は、朝廷が主催したものなので、当時の朝廷の疫病対策である読経(金光明経と般若心経)がメインみたいです。もちろん、御霊会である以上は、競馬とか相撲とか歌舞は欠かせなかったみたいで、神泉園の御霊会でも、ちょっと上品にですが、ちゃんとやっています。(貴族の子弟が雅楽をやったりしたと書いてあります。)

さて、こうしたいわゆる「お祭」的要素は、一般には、御霊の心を慰めて、疫病をばらまくのをやめてもらうためにするのだと解釈されています。つまり、御霊会をやっていた人たちは、疫病が怖くて、そうした疫病を起こす御霊に、そういうことはやめておくれやすとお願いするために御霊会をしたと理解されているわけです。

これは、まあ、理解しやすい説明ではあるし、実際、三代実録にはそのように書いてあるわけですから、間違いではないのでしょうが、くまぶしはちょっと、こうした解釈をそのまま受け入れることに違和感を感じます。

たとえば、それなら御霊会をやっていた人たちは、本当はお祭なんかしたくなかったけれど、しょうがないからしていただけなのか?と意地悪に反問してみます。くまぶしは、注射されるのが嫌いですが、病気になったときにはしょうがないのでお医者に行って注射をしてもらいます。これは、いやいやするわけです。御霊会もそういういやいやするお祭だったのでしょうか。もしくは、人がたくさん死んだりして、本当は歌舞音曲にうつつを抜かしている場合じゃないはずなのに、神さまの心を慰めるために、楽しいふりをしてお祭していただけなのか?と問うてみます。たとえば、やくざさんがお店にやってきて、場所代を払えといって騒ぎます。他のお客さんに迷惑なので、しょうがないのでお金を包んで、よろしくお願いしますといいます。ぶーたれてたらまずいので、顔で笑って心で泣きます。御霊も、やくざさんみたいに、いやがらせをするだけのものだったのでしょうか。

くまぶしも、もちろん、「疫病をはやらせないでくれとたのむ気持ち」がなかった、と主張したいわけではありません。そりゃ疫病はない方がいいに決まってますし、やなことなので、疫病をばらまいている人がいるのなら、そんなことはやめてくれとたのむのは普通のことだろうと思います。

ただ、一般に、御霊信仰の話がされるときには、「昔の人は疫病に対して無力だったから、ただ怯えているしかなかった。それで、自分たちではどうしようもなかったから、神頼みをして疫病がなくなるようにお祈りしていたのだ」というような前提にたって話をすることが多いように思われます。くまぶしは、たしか歴史の本だったと思うのですが、「たたりにおびえていた人々」という見出しを見たことがあります。

それで、くまぶしが、そういう普通の見方に対して違和感を感じるのは、疫病が怖い怖いといっておびえている人間という人間論と、疫病が発生した時に、御霊会をするぞといってお祭り騒ぎをする人間という人間論とが、相容れないように感じるからです。それで、普通の見方の場合は、疫病がこわいとか、いやだという感じ方の方が理解しやすいから、前者の人間論だけを採用して、結果的に、御霊会を、いやなことを回避するための単なる方法のようなものにしてしまうのだと思います。

別のいい方をすると、今の人が御霊信仰について考えるときに問題なのは、「疫病こそがいちばん大事な問題だったはずだ」と考えてしまうところだと思います。これは、いいかえると、人間の生き死にが、人間にとって一番大事な問題だという、ヒューマニスティックな視点からしかものを見れないことだと思います。

一方、前回書いたように、くまぶしはたたりを、「神さまがはっきりとあらわれること」と理解しています。それで、昔の人にとっては、疫病が御霊のたたりだったとわかるということは、疫病を、人間にとっての意味、つまり、単に「人に害をなすもの」としてだけじゃなくて、それ自体が「神さまの出現だ」と理解できるようになることです。つまり、疫病についての見方が、人間中心の見方から、神さま(疫病)中心の見方に変わるということです。

このように、人間中心の視点から抜け出ることができるということは、変な言い方ですが、一種の救済といってもよいものだと思います。もちろん、人間中心から神さま中心になるといったところで、その後、彼にとって、自分の生き死にがどうでもいいことになってしまうわけではありません。つまり、人間的視点がなくなってしまうというわけではありません。
ただ、お祭りをしている間は、そういったみみっちい問題が、もはや重要じゃない世界に行くことができるというだけのことです。

長くなったので、今日はもうやめます。それではおやすみなさい。くま。
jul. 22, 2008
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49.たたりの話

こんにちは。くまぶしです。今日はたたりの話をします。

みなさん、たたりというと、なんか怖いものとか、いやなものとか、思うと思いますが、くまぶしの考えはちょっと違うので、くま宗教学におけるたたりの意味というのをお話しようかと思います。

折口信夫によると、日本語のたたりという言葉は、「たつ」と「あり」が複合したものだそうです。後世風に言えば、「たてり」となります。「たつ」というのは、岩波古語辞典によると、「自然界の現象や静止している事物の、上方・前方に向かう動きが、はっきりと目に見える意。転じて、物が確実に位置を占めて存在する意」です。

八雲立つとか、霧立ちのぼるとか、風立ちぬとかいいますね。これは、はっきり見える(わかる)ことです。月立つというのは、月が見えるようになったということです。「月立てり見ゆ」とかいいます。

ちなみに、「つきたち」が音便して「ついたち」になります。もっとも、今の暦では朔(さく)のことを「ついたち」にして、これを新月としていますが、朔というのは月が見えないことです。ちょっとおかしいですが、昔は三日月のことを新月にしていたらしいので、もともとは、今まで見えなかった月が見えるようになる晩が「ついたち」というわけです。

あと、音をたてるとか、腹立ちとか、名とか噂が立つとか、思い立つとか、役に立つとか、戸をたてるとか、いろいろありますが、ようするに、出現するとか、めだつとか、はっきりわかるとか、そういうニュアンスです。イメージとしては、柱を立てるとか、木が立ってるとか、家を建てるとかいうように、垂直方向(縦)です。宗教学的には、中心のシンボリズムと関係が深いと思います。

一方、「あり」というのは、そのまんま、あるということです。それで、折口氏の説だと、神さまとかが、「はっきりとあらわれる」というのが、たたりの原義だということになります。詳しく知りたい人は、「「ほ」・「うら」から「ほがひ」へ」という文を見てください。全集の16巻にのってます。

さて、以上のように、神さまとかが「はっきりと出現する」ことがたたりだとすると、人が「たたり」と思うのは、それまでは「はっきりとある」とは知らなかった神さまとかが、「はっきりとある」とわかった時に、そう思うわけです。だから、「たたり」と思うときには、だいたいみんなびっくりします。それまで知らなかった神さまが知られるようになることだからです。

リアリティーとの関係でいうと、それまでリアルと思っていた世界の中に、突如として、それまでのリアリティーを帳消しにしてしまうような、リアルなもの(存在するもの)が現れる体験です。おおげさにいえば、そういう体験によって、それまでリアルと思っていた世界が、実はリアルではなかったとわかるわけです。そういう、おおげさなたたりは、例えば、古事記に書いてある大物主の祟りとか、菅原道真の祟りとかです。

もっとも、本当の体験というのは、構造的には、みなたたり的構造をもっていると思います。たとえば、桃がうまいこととかです。もちろん、桃がうまいことははじめから知っていることですが、「桃はうまいと知っていること」と、実際に桃を食べる(体験する)こととは違うことです。一期一会的に桃がうまいと体験されたら、それは桃におけるたたりといってよいと思います。イザナキの命は、桃に助けられた後に、「オホカムヅミ」という神さまの名前をつけました。一期一会的に桃がうまかった時は、桃は神さまになっているわけです。

ただ、普通の人はなかなか桃を神さまと思うことはありません。それで、ただの桃と思っているわけです。別にそれで悪いわけではないのですが、万事が万事その調子でいくと、そのうち大げさなたたりがあるわけです。だから、人によったら、たたりは、人間に対する罰だと思われることもあります。

けれどくまぶしは、たたりを罰としてだけ理解するのは一面的だと思います。どうしてかというと、人間が、自分の知的理解だけで世界を区切っていったときに、困るのはその人間自身だからです。桃の神さまは、自分がただの桃と思われても、別に怒ったりはしません。桃の神さまを桃の神さまとして理解できないとき、損をしているのは、桃の神さまではなくて、人間の方だと思います。だから、わかりやすい大げさなたたりというのは、神さまの側からしたら、人間に対する親切なのだと思います。キリスト教の原罪というのも、たぶんそうしたものなのでしょう。意地悪をされていると思うのは、ちょっとひがんだ見方だと思います。

ちょっと話が飛んでしまいましたが、今日はこれでやめます。次は、具体的なたたりの話を紹介したいと思います。くま。
jul. 9, 2008
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48.桃

こんにちは。くまぶしです。 62895

今朝、桃を食べました。170486すごいうまくて目が覚めました。あんまりうまかったので、今日は桃の話を書きます。

桃は昔から、神秘的な力があるとされてきました。そのわけは、桃栗三年というように、桃がすぐ実をつけるからだとか、たくさん実をつける(兆)からだとか、形がおしりに似ているからだとか、いろいろといわれていますが、もっとも重要なことは、すごいうまくて元気になるということだと思います。いくら早くたくさん実がなるものだとしても、たいしておいしくないなら神秘的とはいえないわけです。おいしくて、かつ、たくさん実がなるから、神秘的なわけです。

中国だと、桃は陽のものだということで、鬼とか疫病を払う力があるといいます。日本でもそうした考えが伝来して、例えば年末の追儺(つゐな・おにやらひ)の時に、桃弓とか桃杖とかで鬼を追っ払ってたそうです。追儺というのは、今の節分の豆まきみたいな行事です。

確かに、桃を食べると元気になるので、陽のものだというのはいいのですが、だからといって、鬼が桃嫌いなのかどうかはわかりません。中国式の鬼は死んだ人の霊ですが、死んだ人だって桃はうまいと思うのじゃないかしらん。

桃が鬼っぽいものを追っ払う話で、有名なのは古事記のイザナキの話です。
イザナキが黄泉の国で、イザナミから追っかけられて逃げるときに、まず蔓(髪飾り)を投げたら山ブドウがなって、次に櫛を投げたらタケノコがはえて、イザナキは、イザナミの手下がそれを食べている隙に逃げたのですが、また追いつかれそうになったときに、ちょうど桃がなっていたので、実をもいで投げたら逃げていったので助かったという話です。

この話だと、追っかけている方の魔物軍の人たちは、山ブドウとかタケノコは食べているのに、桃を投げられると逃げだすわけです。このようにいわれると、どうも桃だけは嫌いであるらしいのですが、さてどうでしょう。

くまぶしは、実際のところは、魔物といえども桃嫌いということはないのじゃないかと思います。桃が陽のもので鬼が陰のものだというのは、人間に対して、正反対の作用をするということで、実際に鬼が桃を嫌いだというわけではないと思います。

桃が鬼を追い払うというのは、桃の力の一端ですが、桃の力はそれだけではありません。よくいわれるのは、長寿(不老不死)です。

長寿の桃というのは、西王母の桃が有名です。西王母というのは、中国の崑崙山の主人ですが、彼女の桃は蟠桃といって、六千年だか九千年だかに一度しか実をつけないのですが、そのかわり、食べると不老不死になります。(とはいえ、桃を食べるために何千年も待てるんなら、もう十分長寿なような気もしますが。)ちなみに、孫悟空は、この蟠桃園の管理人をしていたのですが、ちゃんと管理をせずに桃を全部食ってしまって、おかげですごい力を得るのですが、お釈迦様に叱られて、いろいろあった末に三蔵法師の弟子にさせられるわけです。

不老不死になるというのは、中国の場合は、仙人になるということです。つまり、ただ寿命が延びるというだけのことではなくて、スーパーナチュラルな力を得るから、結果として不老不死にもなるというわけです。それで、そのスーパーナチュラルな力というのは、鬼を追っ払う力と同じものです。結局、長寿といい、魔除けといっても、働き方が違う方向に現れただけで、根本的な力は同じものなのだと思います。

それで、その根本的な力とはなにかというと、最初にいったように、桃は神秘的にうまいということにつきると思います。
jul. 7, 2008
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