Tag: くまぶしの主張

76.スターウォーズみたぶし

こんばんは。くまぶしです。
今日はテレビでスターウォーズエピソード3を見ました。前に、映画館で見たのですが、まるっと忘れていました。でも、みているうちにだんだんと思い出しました。

20090222014401パルパティーンは、フォースのダークサイドはすごいつよいのだと言っていましたが、ダークサイドといってもたいしたことはなくて、要するに卑怯なことでもなんでもやって、勝負に勝とうとする姿勢のことだと思いました。宮本武蔵と佐々木小次郎みたいですね。つまり、ダークサイドを知ると強くなるわけじゃなくて、何をしてもいいから勝つのだという姿勢がダークサイドなわけです。力をもっているから勝つわけではなくて、勝った方が力を持っているのだというプラグマティックな考え方だと思います。

例えば、パルパティーンは、サミュエル・ジャクソンに負けそうになりましたが、弱ったふりをして油断させて逆転したわけです。力自体は、サミュエルの方が強かったみたいですが、勝負に勝ったのはパルパティーンのほうでした。

また、パルパティーンはアナキンに、ダークサイドを知るとパドメを救うことができるみたいなことをいうのですが、これはたぶん、まるっきり嘘っぱちだろうと思います。この場合でも、うそでも何でもいいから、とにかくアナキンを味方にするのが大事だということなんだろうと思います。

一方、ジェダイの騎士たちですが、オビワンとヨーダ以外の人たちは、クローン兵なんかに倒されてしまって、油断しすぎだと思います。この人たちは力は強いのかもしれませんが、全体に甘いです。フェアプレイの精神というのは、相手も同じルールに従っている場合はフェアプレイになりますが、相手が別のルールに従っている場合、ただの油断した人か甘い人になってしまうと思います。

源義経とか織田信長は、あきらかにダークサイドな人たちですね。この人たちは、卑怯なことをしたから強かったわけです。孫子は兵はきどうなりといっていますが、ダークサイドというのは要するにそういうことだと思いました。
feb. 21, 2009

75.ガッツポーズと「伝統主義」

こんばんは。くまぶしです。こないだの記事で朝青龍のガッツポーズのことを書いたら、めづらしくコメントが三つもつきました。やはり時事ネタは反響がありますね。くま。それで、お返事のコメントをひとつ書いたのですが、長くなってしまったので、猫Giさんとタコのお返事は新しい記事にします。だから、いちおうこないだの続きです。くま。

さきほど、柔道の山下さんがオリンピックで勝ったときの思い出の番組をやってましたが、ガッツしまくりでしたね。要するに、オリンピックだったら別に問題にもなりゃしないということでしょう。
それで、一つ思ったのは、グーでやるからガッツ石松ポーズになるわけで、パーでやったらいいんじゃないかと思います。パーならバンザイなので、日本的なのだと言い張ることができるんじゃないでしょうか。くま。

猫GIさんのいうように、大相撲というのは、スポーツなのか格闘技なのか伝統行事なのか神事なのか興行なのかが曖昧です。それは別にいいんですが、「かわいがり」が悪しき伝統で、「ガッツポーズをしないこと」がよき伝統であるといわれると、ちょっと気に入らないなと思います。どうしてかというと、いい伝統、悪い伝統という判別は、ある立場から判断して、この伝統は良くて、この伝統は悪いといってるわけです。それで、そういう判別をくだす視点は、非伝統的な視点(伝統の外にある視点)です。

ややこしい話なので、ちょっと整理します。伝統が大事という立場を、とりあえず伝統主義とよぶとして、この伝統主義に二つあります。一つは、本当の意味での伝統主義で、もう一つは、くまぶしの気に入らない伝統主義です。「本当の意味での」というのは、「言葉どおりの意味での」という意味で、別にほめているわけではありません。

本当の意味での伝統主義というのは、伝統は伝統であるがゆえに正しくて、現在の根拠になりうると考える態度のことです。こうした態度はもちろん「前近代的」ですから、近代的な態度からするとあまりよろしくないものと考えられています。(くまぶしは別によろしくないとは考えていませんが、よろしいこととも考えていません。もちろん、くまぶし自身はそれほど伝統主義的ではありません。クール&シニカルなくまなのです。)けれど、昔の人はだいたい伝統主義です。有職故実とかはまさにそうですし、神話や儀礼が意味を持つ根拠というのも、こうした伝統主義的態度にあるわけです。

例えば、あるお祭りをするのは、昔からしてきたからです。一般にお祭りには、豊作になるとか穢をはらうとか、そういったさまざまな「効能」があるとされていますが、そうした「効能」ゆえにお祭りをするというのは正確ではありません。まず第一にお祭りをすることになっていて、そのお祭りに+αとして「効能」があるというのが正確だと思います。極端な話、今の人はたいてい、お祭りに「効能」があるなんて信じちゃいませんが、それでもお祭りをします。(しない人ももちろんいますが。)その点では、昔の人と同じだと思います。

さて、以上が文字通りの意味での伝統主義ですが、これに対して、くまぶしの気に入らない伝統主義というのは、近代的伝統主義のことです。近代的伝統主義というのは、近代ナショナリズムとだいたい同じものだと思います。この態度では、伝統が大事だと主張しますが、本当の伝統主義のように、伝統に「盲従」しません。本当の伝統主義は、魚が水の中にいるように、伝統の中で生きていて、それ以外の生き方というのはありえないのですが、近代的伝統主義は、「伝統に従わなければならない」と主張します。つまり、伝統に従うか従わないかは、個人や共同体の選択にかかっているわけです。だから結局のところ、大事なのは伝統ではなく、特定の伝統を大事だと思う自分の判断なのです。

お相撲の場合でいうと、ガッツポーズをしないこととか、女性を土俵に上げないことが伝統的であるがゆえに守られなければならないというなら、「かわいがり」も、相撲協会の閉鎖的性質も、八百長も、伝統的であるがゆえに守られなければならないといわなければなりません。「よい伝統」は伝統であるがゆえに守らなければならず、「悪い伝統」は伝統であっても守るべきではないというのはおかしいと思います。

長くなったので結論をいうと、「伝統ゆえに」ということは、本当の伝統主義的人間以外(つまり近代人)にとっては、理由にならないということです。今回の相撲協会の判断もそうですが、近代的人間が「伝統」を論拠に何かを批判するときは、単に明確に提示しえない「自己」というのを正当化しているだけだと思います。特に朝青龍に対して「伝統」を云々するというのは、近代ナショナリズム全開でちょっと不愉快です。そんなに「伝統」が大事なら、最初から相撲なんぞやらせなきゃいいのにと思います。

ちょっと攻撃的になりましたが、別にそれほど怒っているわけではありません。こういうことはよくあることですし。ただ、相撲協会の人が、神さまがどうのこうのいっていたので、2センチくらいむかついただけです。ちなみに、くまぶしが困ったことだと思っていることは、本当の伝統主義と近代的伝統主義を一緒くたにすることです。くま。
feb. 7. 2009

74.朝青龍のガッツポーズのこと

20090129k0000m050113000p_size5昨日、ニュースを見ていたら、朝青龍がガッツポーズをしたといって、相撲協会の人が文句をいってました。

なんでも、ガッツポーズというのは、品格にかけるんだそうです。それで、誰だか知りませんが、「土俵は神さまも見ていて神聖だからガッツポーズをしちゃいけないんだ」といってました。
なんのこっちゃとおもいます。
神さまがガッツポーズを嫌うというのは偏見だと思いますし、ガッツポーズが品格がないというのも偏見だと思います。

本当は、横綱は品格がなくちゃいけないというのも偏見だと思いますが、それはまあいいです。横審がいう品格というのは、中学校の校則で中学生らしい服装をしなさいというようなもので、明確に定義できないきまりをつくって、なんとなく気に入らないやつをいじめるためにあるんだと思います。

相撲協会は、すぐに伝統だというのを好みますが、ガッツポーズをしちゃいけないとかいうのは、たぶん、最近になって捏造した伝統にすぎないと思います。

20081129225255前に紹介した、かたおかめという昔のお相撲とりです。品格ないですね。でもこの人は横綱じゃなかったから、いいのかもしれません。

お相撲が、もともと神事だったというのは本当ですが、儀礼(リチュアル)と祭礼(フェスティバル)でわけたら、もちろん祭礼のほうです。品格だの何だのというのが大事なのは、リチュアルのほうで、フェスティバルにおいては、逆に、そんなのかんけーねーという大騒ぎが大事なわけです。

だから、横綱に品格がなくちゃいけないといってもまあいいですけど、あんまりうるさくいうのは興ざめですくま。
jan. 29, 2009

つづき。ガッツポーズと「伝統主義」

69.おばまさん

こんにちは。くまぶしです。
おばまさんがアメリカの大統領になりますが、おばまさんはお父さんがケニア人でお母さんがカンザス州の白人だそうです。だから黒白50パーセントのミックスなのに、なんで黒人といわれるかというと、まあアメリカの文化的なものでしょう。

昔はワンドロップ法とかあって、今もあるのかもしれませんが、ちょっとでも黒人の血がはいったら黒人だよと決められていたから、その名残なんだろうと思います。
でも、日本のニュウスとかでも、初の黒人大統領とかいってて、ちょっと変だなと思います。

おばまさんが黒人だとすると、白人のお母さんは黒人を生むことができるけれど、黒人のお母さんは白人を生むことができないということになっちゃいますね。ということはつまり、黒人というのは雑種で、白人は純血種だってことなんでしょうか。すごいナチっぽい話ですね。

とはいえ、まあ、自分で好きな風にきめたらいいと思うので、おばまさんが自分で黒人だというなら、くまぶしには別に文句はないです。くま。
dec. 10, 2008

65.酔っ払い運転のこと

こんばんは。くまぶしです。今日は、鶏肉のカレーをつくって食いました。うまかったです。にゃむぷさんには、ゆでた鶏肉をおすそわけしました。

先週、警察の偉い人が、酔払い運転でつかまったことがありました。その人は、なんでも東京で酔っ払い運転撲滅のキャンペーンをやってた人だそうで、しょうがない話ですが、そもそも、酔払い運転というのは、酔っ払ってるから運転しても平気だと思うことが多いんだろうと思います。その人も、酔っ払ってなかったら、自分の立場を考えて、まさか酔払い運転なんてするわけないだろうと思いますが、酔っ払ってたから、そういうことを考えられなくなって運転しちゃたわけですね。

その警察の人は、友達とキャンプに行ってお酒を飲んでたそうですが、キャンプだから、多分そのまま泊まっていくはずだったんじゃないかと思います。ところが、酔っ払ってから、何を思ったか一人で車を運転して、接触事故と自損事故をおこして、路肩に乗り上げてしまったらしいです。

そもそも、酔っ払いというのは、突拍子もないことを考えたりするので、しらふの時は飲酒運転なんかするわけないじゃんと思っていても、実際に酔っ払うとやってしまうことが多いのだと思います。飲酒運転というのは、ちゃんとなくそうとするのはたいへんなんだろうなあと思いました。
nov. 19, 2008

43.取引の話

こんにちは。寝違えて首が痛いくまぶしです。

今日は前々回のつづきです。あした書くといって、あさってになりました。まあいいでしょう。くま。

こないだの話では、いわゆる「現実」というのが、人間たちによって共有され、「使えるもの」である限りにおいて、価値を持つ(存在する)ものであるということをいいました。お金とかのことですね。今日のお話は、そういう「現実」が発生する仕組みのことです。お金の例が簡単なので、これも、取引のことを例にしてお話します。くま。

「使える」ということは、お金が実際に使えるというように、役に立つという意味ですから、こうした有用性というのも、一種の力(働きかける力)でないわけではありません。そういうわけで、お金持ちとか、政治家とかは、他の人に対して押し出しの強さみたいなものを感じさせることもあるでしょう。しかしながら、お金の働きかける力は、実体としてのお金、つまり、お札とか硬貨に内在しているわけではなく、通貨システムに由来するものです。

「現実」のこうした構造は、ふつうに説明すると、弁証法的なものだということになると思います。つまり、まず、みんなが「価値がある」と思うことがあって、「価値がある」とみんなが思っているから「使える」わけで、そして、「使える」わけだから「価値がある」とみんな思うというふうに、相互に作ったり作られたりする関係にあると説明されることが多いと思います。

簡単にいうと、みんながお金には価値がある(使える)と思っているから、価値があるわけです。そういう意味では、お金の価値の源泉は、人間たちの総体的な思い(考え)なわけです。だから、お金における「価値」とか、お金のような「現実」というのは、実は一次的なものではなくて、二次的なものだということができると思います。それで、問題になるのは、人間たちの思いはどこから出てくるかということです。

もちろん、ここで二次的なものだというのは、一次的な価値とか存在とくらべてのことです。それで、くまぶしが一次的な価値とか存在と想定しているのは、「もの」だったら、その「もの」自体が、人間に対して直接的に働きかけてくるような「もの」のことで、ようするにクエポニ存在のことです。たとえば、食べ物とかは、わかりやすくそうです。

樺太にいるくまぶしの仲間たちは、毎年秋になると、川に行って、のぼってきた鮭をくま食いします。しかも、鮭はどんどんのぼってくるので、はららごだけちゅうちゅうして捨てたりします。ぜいたくな秋の楽しみです。鮭はうまいですが、卵の方がもっとうまいわけです。

くまにとって、鮭は価値であり実在ですが、鮭の卵はもっと価値であり、もっと実在なわけです。それは、鮭の身よりも卵の方がうまいから好きだという意味です。くまたちは、別に、鮭の卵の方が鮭の身よりもうまいと、「信じている」のでも「思い込んでいる」のでもありません。事実としてうまいだけです。くまにとっては、うまいものは実在しているもので、実在はそれ自体が価値なだけです。

もっとも、人間は、くまは動物でばかだから、本能のままに生きているだけだというかもしれません。それはまあ、そうともいえるのですが、だからといって、人間が何かに対して、それ自体の価値(実在)を感じることと、それほどの違いがあるわけではないと思います。

お金にしても、そもそものはじめは、貝殻とか、素敵な石とか、お米とか、貴金属としての金(ゴールド)とか、そういうものが始まりだったわけです。そうしたものは、例えば、キラキラしてて素敵だとか、米だったらすごいうまいとか、それ自体としての価値があると感じられたからこそ、お金を使い始めた最初のころの人間は、それらを、他のそれ自体で価値があると感じられていたものと取り換える気になったのだと思います。

こうした感覚は、最近まで残っていて、例えば金本位制などというのは、紙幣が、それ自体で価値があると感じられるものではないので、「金」の代わりなんだから大丈夫なんだよという安心感が必要だったのだと思います。実際、ドルが安くなったときに、アメリカ人が欲しがるのは「金」なわけです。最近は原油も買われます。もちろん、投機目的の金とか原油いうのは、買った人がそれを自分の家に持ってくるわけではないですし、単に投機対象として魅力的だから買うだけのことではありますが、それでも、「もの」としての実質を持っているという点で、「政府の保証」しかない通貨よりも、なんとなく安心感が感じられるから、経済危機の時に買われるのだと思います。

要するに、くまぶしがいいたいのは、「何かの役に立つから便利」という価値の源泉は、鮭はうまいとか、米がうまいとか、映画がおもしろいとか、そういう、自分に対して働きかけてくるものの、それ自体の価値から発生したのだろうということです。

つまり、あるものを、すてきとか、おもしろいとか、かっこいいとか、そういう風に感じるということが根本にあって、これこそが価値の原初的体験なわけです。それで、そういう素敵なものは、みんなだいたい同じように素敵だと思うので、ほしいなあと思うわけです。それで、ちょうだいというわけですが、ただではくれません。それで、代わりになんか素敵なものをくれよといって、取引が始まるわけです。取引は、ある人とある人が、あるものとあるものの素敵さを比較する(判断する)ということから発生するのだと思います。

それで、いろんな人が、自分が素敵と思うものを、他の人が素敵と思うものとくらべて、別の素敵なものを手に入れます。すると、今まで知らなかった素敵なものを体験できるわけです。これは、ただのモデルで、歴史的な話ではありませんが、二次的な価値の発生する仕組みはたぶんこういう感じだと思います。

それで、こういう物々交換を繰り返しているうちに、人間の間に、これはみんなが素敵と思ういいものだというコンセンサスができてくるわけです。原初的な意味でのお金というのは、こういうコンセンサスによって成り立っていると考えられます。原初的なお金というのは、貝殻とか黒曜石とか宝石とかですが、これらは、小さくて持ち運びに便利で、わりあい誰にとっても魅力的なものだったからこそ、みんなが感じている一次的価値を測る尺度になりえたのだと思います。

まとめます。
多数決で決まっているかのように見える「現実」とか「価値」というものも、そもそもは、ひとりひとりの人間が、自分はこういうものを素敵と感じるよという体験を、他の人に話したり、取引を通じて吟味したりすることによって、みんなが、なるほどこりゃ素敵だと納得したものであると思います。だから、そういう「価値」とか「現実」というものは、一見、人間たちが自分たちで決定しているかのように見えますが、もとを正せば、人間にそのように感じさせるものの力が、自身の「価値」を決定したり、自身の「実在」を証明しているのだと思います。価値のコンセンサスというのは、教育的価値はあるでしょうが、それでも結局、教えられた人自身が、本当にそのものには「価値」がある、これは「実在」だと感じなかったなら、そもそも共有されなかっただろうと思います。

ちなみに、くま宗教学では、そういう力を感じる体験を、ヒエロファニー(聖なるものがあらわれること)といいます。体験される実在とか価値というのは、聖なるものなわけです。
jun. 17, 2008

41.使えるフィクションとしての「現実」

こんばんは。くまぶしです。

今日の「もっちり占い」は、存在運上昇で、「大存在の映画を見て興奮するでしょう」といってました。何のことやらわかりませんが、とりあえず今日も存在論の話をしとこうかと思います。ちなみに、さっき、蘇る金狼を見ました。「大存在」の映画だったかな?

前回のお話は、小説とか映画とかのいわゆるフィクションにおける「存在」と、いわゆる現実世界における「存在」とを、働きかけてくる存在であるクエポニ存在と、持続する存在であるモナド存在とに分けて考えてみるという話でした。今日はそのつづきです。

今日のくまぶしの主張は二つあります。一つは、いわゆる「現実」とされていることも、フィクショナルなものであるということです。もう一つは、いわゆる「現実」とされているフィクションと、いわゆる「フィクション」とされているフィクションとの違いについて考えることで、「現実」とされているフィクションを定義してみることです。

狭い意味でのフィクションは、小説とかマンガとか映画とかゲームですが、広い意味でフィクションという言葉を使うなら、人間によって意味があると感じられるものは全部フィクションだということもできます。たとえば、民主主義とか、人権とか、お金とかです。もっと簡単なものでもいいです。たとえば、コップとか車とか羊とかです。要するに、言葉でいうことができるものは、すべてフィクショナルなものだということです。どうしてかというと、コップという言葉は、コップという言葉が指し示すものの意味だからです。

今ちょっと買い物に行って、玉子を買ってきました。156円でした。玉子が1パック156円というのがフィクションだということは、みなさん別に文句はないと思います。仮にそのように値段をつけたということだからです。明日には違う値段になっているかもしれませんから。156円というのは、ある側面からみた玉子1パックの意味です。たとえば、アメリカで、玉子1パックを156円で売ろうとしても売れません。円を使っていないからです。だから、156円というのは、日本でしか通用しない意味です。同じように、玉子という言葉は、鶏が産んだ楕円形の白い物を、ある側面(食べる物としての側面)からみたときの意味です。これも日本語ですから、日本でしか通用しません。アメリカでは、エッグといわなければ通じません。

さて、以上のような広い意味でのフィクションは、ふつう「現実」だとされています。こうした広い意味でのフィクションと、こないだお話した狭い意味でのフィクションとは、どういう点で違うかというと、「現実」とされるフィクションは、それが働きかけてくるから「存在」するとされるわけではなくて、それが使えるから(共有されているから)「存在」するとされているところが違います。たとえば、アメリカで玉子が156円で売れないのは、アメリカでは円を使うというフィクションが共有されていないからです。代わりに、ドルを使うというフィクションが共有されているので、アメリカにおいては、ドルを使うというフィクションが「現実」であり、円を使うフィクションは、「現実」ではないわけです。

もっとも実際には、アメリカ人も、日本人が円を使っていることは知っています。つまり、日本においては、円を使うフィクションが「現実」として通用していることを知っているわけです。だから、アメリカ人が「円を使う」というフィクションを、単なるフィクションではなく、日本においては「現実」なのだと思ったなら、ドルと円を両替してくれるでしょう。インフレというのは、お金が「使えなく」なっていくことですから、フィクションとしてのお金の現実感が少なくなっていく現象だといえます。インフレになると、お金(紙幣)は「紙くず」になってしまいます。これは、「現実」とされていたフィクションが、ただのフィクションになってしまうということなわけです。

ところで、前の回にお話した、いわゆるフィクションでは、それが働きかけてくるから「存在する」と感じられるのだといいました。こうした狭い意味でのフィクションを、「現実」とされるフィクションと比べてみると、次のようにいえると思います。つまり、狭い意味のフィクションは、それ自体が目的であるのに対して、「現実」とされるフィクションは、それ自体が目的というよりは、それが私たちの役に立つかどうかで「存在」するかどうかが決まるものだといえると思います。あるお話が、リアルなものだと感じるのは、自分がそのお話を聞いたときに、わくわくしたりじーんとしたりするからなわけです。その作品の価値(クエポニ存在としての価値)は、その作品自体によって決まります。本とかDVDなど、ものとしての作品に値段を付けることはできますが、作品において語られている出来事はプライスレスです。つまり、高いからいい作品だとか、安いからつまらない作品だということにはなりません。人によっても違います。ある人にとってすごく働きかけてくるものが、誰にとってもおもしろいとはかぎらないわけです。

最後に、いわゆる「現実」とされているフィクションは、それが通用する限りにおいて、つまり私たちの役に立つ限りにおいて、意味を持つようなフィクションです。つまり「現実」は、通用性という点から判断されるべきものですから、たくさんの人に通じるフィクションの方が、少数の人にしか通じないフィクションよりも「価値」があるということになります。だからいわゆる「現実」は、基本的には多数決で決まるという性質があると思います。

今日はこれでやめますくま。おやすみなさいぶし。
jun. 11, 2008

40.フィクションのこと

こんにちは。ちょっとさぼってました。今日はすこし、フィクションの話をしようかと思います。フィクションというのは、とりあえず、お話という意味です。くまぶしは、お話を読んだり、映画を見たりするのがわりと好きです。これは、みなさんわりと好きなんじゃないかと思います。おもしろいお話とか、かっこいいお話とかを見たりするとわくわくします。悲しい話や怖い話を見ると、ひゅえーとなります。かっぱは、大破壊の映画を見たりすると興奮します。

今まで何度も、クエポニ存在とか、モナド存在とかいう言葉を使ってよくわからなかっただろうと思いますが、今日の話は、この二つの概念を使うと、どんないいことがあるかの説明です。概念の使い方の例です。具体的には、お話の中にでてくる人とか世界は、存在するかどうかを考えるときに便利なのです。

フィクションで語られる出来事は、普通は、実在しないこと(リアリティがないこと)と思われています。たとえば、小説の中の人は、実在の人ではないと思われています。でもそれは、モナド的には存在しない、つまり、生物としての体を持っていないという意味で、クエポニ的に考えれば実在しています。

本を読んで何かを感じるというのは、本の中の人とかが働きかけてくるからです。感動するというのは、感動させられるという受動的なことですから、誰かが私を感動させたわけです。それで、働きかけてくる存在がクエポニ存在ですから、本の中の人はクエポニ的には実在しているわけです。

そもそも、「働きかけてくる」という点から考えると、駅ですれ違ったその辺のだれかは、ふつうはあまり働きかけてこないものです。ちょっとぶつかったらすいませんといいますが、それでさようならです。つまり、ぶつかることができるというモナド的意味においては、彼は存在しているといえますが、働きかけてくるかどうかというクエポニ的な意味では、ほとんど存在していないわけです。

よく知らない人に、なれなれしくするのは失礼なことです。独立した存在であるモナドに対して、クエポニ的な意味で働きかけるということは、そのモナドの自己同一性に対する侵害になるからです。モナド的存在というのは、国家みたいなものです。近代国家は、主権と国民と領土を持っています。それらにおいて、他の国家に対して排他的であることによって、国家はモナド的に存在しうるわけです。だから、過失からの領空侵犯でも、場合によっては撃ち落とされます。

ならず者は、肩がちょっとぶつかっただけで、宣戦布告と受け止めます。ゴルゴ13は、誰かが背後に立っただけで攻撃します。こわいですね。こういう人たちは、軍備をばんばんやってる国みたいなものです。けれどふつうの人は、そんなにピリピリしながら暮らすのはエネルギーの無駄なので、もっと平和的に暮らしています。軍事費に金を使いすぎると国家財政が圧迫されるのと同じです。それで、ふつうはちょっとぶつかっただけなら、すいませんといえばすむわけです。

さて、以上のように、モナドとしての個人は、他人の領域を侵さないよう、あるいは、自分の領域を侵されないよう、気をつけて暮らしているわけです。つまり、あまり他の人に働きかけないようにしようということです。常識とか礼儀というのは、戦争しないための国際条約みたいなものです。

これに対して、フィクションというのは、モナドとしての実質を持っていないので、領域を侵される心配がありません。(もちろん程度によりますが。)だから、本を読んだり映画を見たりするときには、他の人と会ったりするときとは違って、武装解除することができます。そして、武装解除して接するからこそ、フィクションは働きかける力を発揮することができるわけです。(現代人の場合は、です。)

たとえばファンタジーでは、竜とか魔法使いとか妖精とか神さまとかがでてきたり、ホビットが冒険の旅に出たりします。ファンタジーを読むときは武装解除しているので、おもしろいぶしと思います。働きかける力を素直に受け入れることができるわけです。そんなの嘘っぱちだと思っていたら、あまり楽しくないと思います。嘘っぱちだと思うことはとりあえずどこかに置いておいて、そのお話の中のリアリティを体験するわけです。

けれど、例えば新興宗教の勧誘の人が来て、チャクラを開くのだとか、神さまはいるのだとかいう話をしたとします。よく知らない人なので警戒しながら話を聞きます。そうすると、おもしろいぶしと思ったファンタジーと似たような話だったとしても、ぜんぜん働きかけてきません。うそ臭いなあと思うだけです。「うそ臭い」というのは、モナド的世界の存在論からの判断です。相手が体をもった人なので、こちらも体をもったモナド存在として対応するわけです。実際、知らない人にいきなり「何か悩みはないですか」とかいわれるのは、礼儀正しいモナド的関係においては、ちょっと失礼なこと(働きかけすぎ)だと感じられるのです。それで、新聞いらないよというのと同じように、間に合ってますというわけです。

とりあえず今日はここでやめます。いいたかったことは、フィクションにおけるリアリティは、クエポニ的リアリティで、これはモナド的リアリティとは別物で、モナド的に警戒していると体験できなくなるということでした。

それではまた。くま。
jun. 9, 2008

37.ねこ

こんばんは。くまぶしです。

今日はNHKのご近所の底力という番組を見ました。なんでも、東京で野良猫がたくさんいて困っているらしいです。それで、野良猫にえさをやる人がいるから増えるのだと文句をいう人たちと、餌をやれば盗みは働かないし、去勢してやれば増えないからいいのだという人たちが出てきて、話し合っていました。

問題なのは、猫がゴミをあさったり、糞をしたり、車の屋根に乗って傷をつけたりすることだそうです。

猫が嫌いな人たちは、どうやら猫の存在自体が許せないみたいです。殺してしまえとはいっていませんでしたが、餌をやらずに飢え死にさせようと思ってるみたいでした。逆に、餌をやる方の人も、去勢してしまえば、結局のところそのうちいなくなるからいいのだといってました。

それで結論は、地域猫という運動があって、要するに、地域で猫を飼うという仕組みをつくるといいということでした。まあそれならそれでいいのですが。

動物を去勢するのは、ペットとか競争馬とかなら意味がありますが、野良の動物を去勢するのは無意味だと思います。実際には無理でしょうが、野良猫を全部去勢したなら、原理的には野良猫はいなくなるはずです。でもそれは、今殺さずに5年後に殺すというのと同じことだと思います。絶滅させるという意味でですが。番組では、「今いる野良猫が天寿をまっとうしたら、野良猫はいなくなる」といっていましたが、そんなに野良猫がいるのがいやなら、今ぜんぶつかまえて殺してしまえばいいのにと思います。ゴキブリとかにするみたいに。でも、ゴキブリを叩き潰すのはちょっと気持ち悪いです。猫を殺すのは、ゴキブリを殺すのより、勇気がいります。だから、猫嫌いの人も、去勢することで、「自然に」絶滅するのを待つのがいいと思うようです。

けれど、地域猫というのは、要するに、地域全体のペットとして猫を飼うということみたいですので、猫が好きな人には、おうちで猫を飼うのと同じく、意味があることだと思います。それから、猫が嫌いな人にとっても、自分で猫を殺さなくてもいいという点で、意味があるのだろうと思いました。都会は人がたくさんいるので、なににつけても大変ですねと思いました。くま。

ちなみに、くまぶしは、わりと猫好きです。くま。
may 30, 2008

28.ロバ先生と女の子たち

こんにちは、くまぶしです。
最近ロバ先生にあってなかったのですが、昨日、研究会があって学校に行ったら、なぜかロパ先生もいました。それで、今年から行ってる女子大の女の子たちのことで、ちょっと悩んでいました。

その女子大の女の子たちは、まじめな学校らしいので、基本的にいい子たちみたいですが、そうはいっても女の子たちだから、ロバとは正反対の生き物なわけです。

ロバ先生は、まったく話が通じないといって悩んでいました。かわいそうですが、しかたありません。

ロバと女の子たちとの間には、深くて広い深淵があります。たとえばロバ先生は、ロッキーとランボーのDVDを全部持ってます。ひとりで、何度もみてるみたいです。さすがに、一番新作のロッキーはだめだといってましたが。好きな俳優は、笠智衆と大滝秀治です。好きなマンガは、ゴルゴ13と「まんが道」です。「まんが道」を読んで大笑いしてる人(ロバですが)を、くまぶしは久しぶりに見ました。趣味はブックオフ巡りです。ガソンリンがこんなに高いのに、ひとりで隣の県のブックオフまで行って、ちょっとでも安いゴルゴ13を探したりします。どうしようもありませんね。

そういえば、ロバ先生は、ロバになる前は、ロボでした。ロボというのは、みんなでスキーに行ったとき、動き方がロボットみたいだったからなのですが、動き方だけじゃなくて、特に女の子たちから、感情がないと思われていたからです。くまぶしは知っているのですが、ロバ先生にも、実は感情らしきものはあるのです。ただそれが、非常に表にあらわれにくいことと、発動するポイントがあまりにも女の子たちとは違うから、彼女たちには「ない」と見えるわけです。だから、なにが楽しくて生きているか、まったくわからないわけです。

ロバ先生も、自分が女の子たちとはまったく違う生き物だということは承知してますから、努力はしているみたいです。けれど、くまぶしから見ると、どうやら的外れな努力をしてるんじゃないかしらと思うことも多いです。おおざっぱにいって、女の子たちは、具体的なものにこそ意味があると思っています。ロバ先生は、普遍的なものにこそ意味があると思っています。根本のところで正反対になっているので、ロバ先生がわかりやすく言おうと思えば思うほど、女の子たちにはわからなくなっていくのじゃないかと思います。

女の子たちは、若くて元気いっぱいですから、ロバ先生よりも自信満々です。だから、ロバ先生がいうことに、なんらかの意味があるかもしれないなんて、思いつきもしないでしょう。意味がないとも思わないほどに、意味がないわけです。ロバ先生は、しょせん疲れたロバです。勝負になんかなりません。かわいそうですが、しかたないですね。女の子たちに、いじめられないだけましだと思います。くま。
may 15, 2008