こんばんは。くまぶしです。
こないだ、くまぶしのおばあさんが、86歳の誕生日だったので、お祝いしてきましたぶし。
そのとき、実家に、子供のころに読んでた星の王子さまがあったので持ってきました。くまぶしのうちにもあったはずなんですが、英語版とフランス語版はあるのに、日本語版だけどっかにいってしまってて、たまに見たいと思ってもみつからなくて不便だったのです。(フランス語版は、読めないくせに持ってるだけ。)

サン=テグチュペリは、かなり好きな作家です。「人間の土地」はすごく感動的です。人間の土地 (新潮文庫)。これは堀口大学の訳もいいんだと思います。彼が言っていることは、くま宗教学的にもだいぶよいのですが、ちょっとヒューマニスティックな気もします。それはともかく、とにかく文が好きです。

それで今日、ひさしぶりに読んだのだけど、昨日書いたことと関係があると思ったので、今日はそのことを書くぶし。

王子さまの考えだと、昨日の話で言うところの、普遍的にする方の「知ること」は、「おとなみたい」な知り方で、これは本当に知ることではありません。

たとえば地理学者は、「一ばんだいじなこと」を研究するといいますが、彼にとって一番大事なことというのは、「いつまでもかわらないこと」です。当然、彼から見て、個人的見解にすぎないと見えるものは、「はかないもの」で、重要ではないことになります。つまり、地理学者にとっては、具体的なもの(現象)の背後にある普遍的なものこそが重要で、知る価値があるものだというわけです。

ちょっと脱線します。めんどくさい人はとばしてください。

くまぶし的にいうと、王子さまがおとなと思うのは、簡単にいうと、モナド的存在論において生きることです。王子さまの考えは、一見すると、「自分にとっての意味が重要だ」ということのようですが、それだけだったら、王子さまも、王さまも、うぬぼれ男も、呑んだくれはちょっと違いますが、実業屋も、みんなそうなわけです。王子さまと大人たちが違うのは、「自分にとっての意味」というときの、「自分」が、クエポニであるかモナドであるかという点です。ちなみに、呑んだくれは、モナドであることがいやだと思って酒を飲むわけです。しかしながら、飲みたくて飲むのではなくて、モナドであることを忘れるために飲むという点がモナド的です。

これら大人たちと王子さまの違いを、王子さまの言葉でいうと、「あんたたちのためには、死ぬ気になんかなれないよ」というものには、意味を見出さないということです。実業家にとって、星は自分の財産として意味がありますが、それは彼の所有物であるかぎりにおいて意味があるということです。価値を支える根拠は彼のモナドにあります。だから、彼は、星のためには死ぬ気にはならないわけです。彼が死んだら、星の意味も死ぬからです。つまり、王子さまからすると、「本当は大事と思っていないものを大事と思いこんでる態度」ということになります。

ガス灯の点灯夫と地理学者は、ちょっと違います。この二人は、自分にとっての意味よりも、客観的意味の方が大事だと思っています。彼らはひょっとすると、ガス灯をつけたり消したりするという「命令」や、学問のために、死ぬかもしれません。その意味では、王子さまは、その他の大人たちに対するよりも同情的です。この二人は、普遍的価値に従属するモナドであるという意味で、単なるモナドではないからです。王子さまは点灯夫について、つぎのように考えます。

あの男は、王さまからも、うぬぼれ男からも、呑み助からも、実業屋からも、けいべつされそうだ。でも、ぼくにこっけいに見えないひとといったら、あのひときりだ。それも、あのひとが、じぶんのことでなく、ほかのことを考えているからだろう。

この、「ほかのこと」というのが、モナドとしての自分よりも価値のある何かということになります。ただし、普遍的価値に従属するモナドは、単なるモナドではないといいながら、やはりモナドであってクエポニではありません。もっとも、「命令」に従属して死んでしまえばクエポニになりますが、これは自爆テロと同じやり方のクエポニで、別に悪いという気はないですが、永遠回帰のクエポニではなくて、一回きりのクエポニです。一回きりで決着をつけてしまおうと考えるところが、ちょっとくまぶしの趣味にはあいません。このことはそのうち書きます。

閑話休題。王子さまにおける、二種類の「知ること」についてだけ、かんたんに書きます。

まず、王子さまは、小惑星B612という小さい星にいました。この小さな星は、王子さまの世界です。この星に、あるとき花が咲きました。王子さまは〈ああ、美しい花だ〉と思って、「きれいだなあ!」といいました。そしたら、花はけんそんな花ではなかったので、自分の美しさをはなにかけて、王子さまを苦しめました。結局、それが原因で、王子さまは旅にでるわけです。

王子さまは、後で振り返って、

「人間は、花のいうことなんていいかげんにきいていればいいんだから。花はながめるものだよ。においをかぐものだよ。ぼくの花は、ぼくの星をいいにおいにしてたけど、ぼくは、すこしもたのしくなかった。(中略) ぼくは、あの時、なんにもわからなかったんだよ。あの花のいうことなんか、とりあげずに、することで品定めしなけりゃあ、いけなかったんだ。ぼくは、あの花のおかげで、いいにおいにつつまれていた。明るい光の中にいた。だから、ぼくは、どんなことになっても、花から逃げたりしちゃいけなかったんだ。ずるそうなふるまいはしているけど、根は、やさしいんだということをくみとらなけりゃいけなかったんだ。花のすることったら、ほんとにとんちんかんなんだから。だけど、ぼくは、あんまり小さかったから、あの花を愛するってことが、わからなかったんだ」

といっています。花のいうことじゃなくて、することで品定めするというのは、花は、その働きかける力において理解されなければならないということ、つまり、クエポニ存在として理解されなければならないということです。(クエポニというのは、ナワトル語で、そもそも花が開くという意味です。)

それはそうなのですが、クエポニ存在というのは、前にいったように、普通は、モナド存在の殻を破る力の体験として可能になるものです。「知ること」の場合でいえば、具体的に知ることが大事なのだとしても、具体的に知るというのは、ある普遍的理解と比べて相対的に具体的理解ということだから、なんらかの相対的に普遍的理解がないところには、具体的理解もありえないわけです。これだけが理由ではないでしょうが、王子さまが旅に出なければならなかった理由のひとつは、ここにあると思います。

王子さまの場合、彼がバラの花のクエポニ存在としての具体的意味を知ったのは、地球に来て、たくさんのバラが咲いているのを見た後でした。地球でたくさんのバラを見たとき、王子さまはびっくりしました。引用です。

王子さまは、バラの花をながめました。花がみな、遠くに残してきた花に似ているのです。
「あんたたち、だれ?」と、王子さまは、びっくりしてききました。
「あたくしたち、バラの花ですわ」と、バラの花たちがいいました。
「ああ、そうか・・・・」
そういった王子さまは、たいへんさびしい気もちになりました。考えると、遠くに残してきた花は、じぶんのような花は、世界のどこにもない、といったものでした。それだのに、どうでしょう。見ると、たった一つの庭に、そっくりそのままの花が、五千ほどもあるのです。王子さまは考えました。
「もし、あの花が、このありさまを見たら、さぞこまるだろう・・・・やたらせきをして、ひとに笑われまいと、死んだふりをするだろう。そしたら、ぼくは、あの花をかいほうするふりをしなければならなくなるだろう。だって、そうしなかったら、ぼくをひどいめにあわそうと思って、ほんとうに死んでしまうだろう・・・・・」
それから、王子さまは、また、こうも考えました。
「ぼくは、この世に、たった一つという、めずらしい花を持ってるつもりだった。ところが、じつは、あたりまえのバラの花を、一つ持ってるきりだった。あれと、ひざの高さしかない三つの火山――火山も一つは、どうかすると、いつまでも火をふかないかもしれない――ぼくはこれじゃ、えらい王さまなんかになれようがない・・・・」
王子さまは、草の上につっぷして泣きました。

引用終わり。ここで王子さまは、花の普遍的意味(「バラの花というものだ」ということ)を知って、ひとまず悲しくなりました。それまでは、ただの花で唯一の花だったのが、多くのバラの花の一つにすぎないと知ったわけです。
その後、王子さまはキツネと会って、飼いならす(テイム)ことと仲良くなることの話を聞きました。つまり、普遍的意味から出発して、具体的にすることによる「知ること」の方法を学んだわけです。それで、もう一度たくさんのバラたちに会いに行って、次のようにいうわけです。引用です。

「あんたたち、ぼくのバラの花とは、まるっきりちがうよ。それじゃ、ただ咲いているだけじゃないか。だあれも、あんたたちとは仲よくしなかったし、あんたたちのほうでも、だれとも仲よくしなかったんだからね。ぼくがはじめて出くわした時分のキツネとおんなじさ。あのキツネは、はじめ、十万ものキツネとおんなじだった。だけど、いまじゃ、もう、ぼくの友だちになってるんだから、この世に一ぴきしかいないキツネなんだよ」
そういわれて、バラの花たちは、たいそうきまりわるがりました。
「あんたたちは美しいけど、ただ咲いているだけなんだね。あんたたちのためには、死ぬ気になんかなれないよ。そりゃ、ぼくのバラの花も、なんでもなく、そばを通ってゆく人が見たら、あんたたちとおんなじ花だと思うかもしれない。だけど、あの一輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ。だって、ぼくが水をかけた花なんだからね。覆いガラスもかけてやったんだからね。ついたてで、風にあたらないようにしてやったんだからね。・・・・・不平もきいてやったし、じまん話もきいてやったし、だまっているならいるで、時には、どうしたのだろうと、きき耳をたててやった花なんだからね。僕のものになった花なんだからね。」

こう言ってから、王子さまは自分の星に帰るわけです。ここで王子さまは、「僕のものになった花」というわけですが、この場合の「僕」というのが、旅に出る前の王子さまにはなかったものなわけです。
つまり、モナドとしての「僕」です。これがないから、王子さまは花のいいなりになるしかなかったのです。

「知ること」でいうと、王子さまは、無自覚にそこにいた具体的意味の世界から、普遍的意味の世界へと旅することによって、はじめて具体的意味の世界を「知る」ことができるようになったということです。

これは永遠回帰的運動です。創世紀の知恵の実のパラドックス、楽園追放の話として描かれているのも同じ運動です。

ようは、一般に、「自我の確立」とかいわれることかもしれませんが、ちょっと違う気もします。どうしてかというと、王子さまにとって「僕」ということは、花をクエポニ存在として理解するための前提としてのみ重要だからです。いいかえると、否定されるべきものとしてのみ重要だということです。

けれど、「自我の確立」といわれるものも、結局はそういうことをいっているのかもしれません。くまぶしにはよくわかりません。
単に、モナドとして自立することが大事なのだという「自我の確立」もけっこうあるような気がします。
そういうのは、くまぶしにとっては鬱陶しい話なんですが、でも、ひとまずそういう自我を確立しなかったら、先には進めないわけで、だから一概に悪いとも言えないわけですね。

may 8, 2008
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