Tag: くまぶし2008

47.ちり?

こんにちは。くまぶしです。今日は暑いので、ばてばてです。初めてクーラーをつけました。

ブログペットのもっちりが、最近、「ちりが」とか、「ちりは」とか、よく言います。くまぶしは、何のことかわからなかったのですが、どうやら、自分のことを「ちり」だと思っているらしいです。

かとおもったら、今日のひみつ日記では、「七月を読んだよ。ブログペットのもつんだよ。」と書いていました。「もつ」なのか?とも思いましたが、「もつんだよ」と活用しているからには、動詞なのでしょう。

結局、自分の名前は「ちり」で、「もっちり」というのは、「持つ」「ちり」ということだと思っているみたいだぶし。
jul. 5, 2008
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46.七月

おひさしぶりです。くまぶしです。
ブログペットのもっちりの日記を見ると、毎日毎日、「阿部さんのちょん髷を読んだ」と書いているので、ちょっとかわいそうになりました。しかし、もっちりに読ませるために書いているのか?

さぼっている間に、くまぶしがなにをしていたかというと、あいかわらずくまくましていただけなのですが、くわしくいうと、まず、昨日、さくらんぼをようやく全部食べました。それから、学校でのただ働き(学会の事務)と、ネットゲーム(ワンダーキング)をしてました。それから、You Tubeとかで、ジュブナイルなアニメを見ました。エウレカセブンというのと、図書館戦争というのです。どちらもちょっとお子様な話でした。それから、かっぱの髪の毛を切りました。そんなところです。

かっぱは最近、キウイを買っています。今は8万匹も持っています。キウイというのは、キウイフルーツに似ているニュージーランドの鳥です。ほんとうは、キウイに似ているフルーツだからキウイフルーツというのですが。かっぱは、高くなったら売ろうと思って、まだ持ってます。くま。

くまぶしは、似たようなものですが、羊を5万頭買いました。5万頭持ってると1日500円もらえるというのですが、羊の値段が値下がりしてるので損してます。

最近のかっぱは、キウイに夢中なので、あんまりくまぶしと遊びません。つまらんぶし。

それでは、今日はこれでやめますが、今月はちょっとがんばって更新しようと思います。夜露死苦魔。
jul. 2, 2008
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45.あべさんのちょんまげ

こんにちは。くまぶしです。今日はくだらないことを書きます。

くまぶしは、大河ドラマの篤姫を、毎週ビデオにとって見てるのですが、老中の阿部さんの役で、草刈正雄が出てました。こないだ過労死しちゃいましたけど。

Masao_20080620221431それで、くまぶしが主張したいことは、正雄はちょんまげが似合わないということです。江守徹とかは、まったく違和感がないのに、正雄はウルトラマンにしか見えませんでした。

たぶん、頭の幅が狭くて、上に長いからおかしいのだと思います。

彼は昔、真田太平記で幸村をやっていたのですが、ハーフなのでこゆい顔ではあるけど、その時はそんなに違和感がなかったと思います。真田の時は、月代を剃ってなかったと思うので、たぶん、月代を剃るとおかしなことになるんだと思います。くま。

ちょんまげ(月代を剃って髷を前に持ってくるやつ)というのは、へんちくりんな髪型ですが、へんちくりんな髪型をして自慢するのは、中華思想的には蛮族の証拠です。日本でも、平安時代まではだれでも冠とか烏帽子とかをかぶることとなっていたので、わりと中華的ですが、月代を剃ったりするのは完全に日本風ですね。ちょんまげは辮髪と同じくらいへんちくりんだと思います。

月代を剃るのは室町時代くらいからだといわれてますが、いつもカブトをかぶってると蒸れるから剃ったのだそうです。ほんとかどうか知りませんが。

本当のちょんまげは、昔の写真とか見ると、ただの禿頭に見えます。特に、農民のちょんまげは、前から見るとただのハゲです。農民が坊主頭にするのは、実用的だろうからいいのですが、髷を伽羅油で固めて前に持ってくるとか、毛先を広げる(お相撲さんですね)とかいうのは、スプレー缶でびんびんにする昔のヤンキー高校生みたいで、ちょっと恥ずかしいですね。くま。
jun. 20, 2008
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44.とりあい

080619_2259~001こんばんは。くまぶしです。
今日は、くまぶしのばあちゃんが、さくらんぼの箱詰めを送ってくれました。

おうちのくまたちと食べました。さくらんぼげきうまいです。

くまたちも、取り合いをしながらくま食いです。

くまぶしは、さくらんぼのジャムがだいすきです。おいしいさくらんぼでつくるのは、ちょっともったいないですが、おいしいさくらんぼでつくったジャムはすごいうまいぶしなので、どうしようかと思ってます。

かっぱは、ジャムにするのは反対してるぶし。くま。
jun. 19, 2008
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43.取引の話

こんにちは。寝違えて首が痛いくまぶしです。

今日は前々回のつづきです。あした書くといって、あさってになりました。まあいいでしょう。くま。

こないだの話では、いわゆる「現実」というのが、人間たちによって共有され、「使えるもの」である限りにおいて、価値を持つ(存在する)ものであるということをいいました。お金とかのことですね。今日のお話は、そういう「現実」が発生する仕組みのことです。お金の例が簡単なので、これも、取引のことを例にしてお話します。くま。

「使える」ということは、お金が実際に使えるというように、役に立つという意味ですから、こうした有用性というのも、一種の力(働きかける力)でないわけではありません。そういうわけで、お金持ちとか、政治家とかは、他の人に対して押し出しの強さみたいなものを感じさせることもあるでしょう。しかしながら、お金の働きかける力は、実体としてのお金、つまり、お札とか硬貨に内在しているわけではなく、通貨システムに由来するものです。

「現実」のこうした構造は、ふつうに説明すると、弁証法的なものだということになると思います。つまり、まず、みんなが「価値がある」と思うことがあって、「価値がある」とみんなが思っているから「使える」わけで、そして、「使える」わけだから「価値がある」とみんな思うというふうに、相互に作ったり作られたりする関係にあると説明されることが多いと思います。

簡単にいうと、みんながお金には価値がある(使える)と思っているから、価値があるわけです。そういう意味では、お金の価値の源泉は、人間たちの総体的な思い(考え)なわけです。だから、お金における「価値」とか、お金のような「現実」というのは、実は一次的なものではなくて、二次的なものだということができると思います。それで、問題になるのは、人間たちの思いはどこから出てくるかということです。

もちろん、ここで二次的なものだというのは、一次的な価値とか存在とくらべてのことです。それで、くまぶしが一次的な価値とか存在と想定しているのは、「もの」だったら、その「もの」自体が、人間に対して直接的に働きかけてくるような「もの」のことで、ようするにクエポニ存在のことです。たとえば、食べ物とかは、わかりやすくそうです。

樺太にいるくまぶしの仲間たちは、毎年秋になると、川に行って、のぼってきた鮭をくま食いします。しかも、鮭はどんどんのぼってくるので、はららごだけちゅうちゅうして捨てたりします。ぜいたくな秋の楽しみです。鮭はうまいですが、卵の方がもっとうまいわけです。

くまにとって、鮭は価値であり実在ですが、鮭の卵はもっと価値であり、もっと実在なわけです。それは、鮭の身よりも卵の方がうまいから好きだという意味です。くまたちは、別に、鮭の卵の方が鮭の身よりもうまいと、「信じている」のでも「思い込んでいる」のでもありません。事実としてうまいだけです。くまにとっては、うまいものは実在しているもので、実在はそれ自体が価値なだけです。

もっとも、人間は、くまは動物でばかだから、本能のままに生きているだけだというかもしれません。それはまあ、そうともいえるのですが、だからといって、人間が何かに対して、それ自体の価値(実在)を感じることと、それほどの違いがあるわけではないと思います。

お金にしても、そもそものはじめは、貝殻とか、素敵な石とか、お米とか、貴金属としての金(ゴールド)とか、そういうものが始まりだったわけです。そうしたものは、例えば、キラキラしてて素敵だとか、米だったらすごいうまいとか、それ自体としての価値があると感じられたからこそ、お金を使い始めた最初のころの人間は、それらを、他のそれ自体で価値があると感じられていたものと取り換える気になったのだと思います。

こうした感覚は、最近まで残っていて、例えば金本位制などというのは、紙幣が、それ自体で価値があると感じられるものではないので、「金」の代わりなんだから大丈夫なんだよという安心感が必要だったのだと思います。実際、ドルが安くなったときに、アメリカ人が欲しがるのは「金」なわけです。最近は原油も買われます。もちろん、投機目的の金とか原油いうのは、買った人がそれを自分の家に持ってくるわけではないですし、単に投機対象として魅力的だから買うだけのことではありますが、それでも、「もの」としての実質を持っているという点で、「政府の保証」しかない通貨よりも、なんとなく安心感が感じられるから、経済危機の時に買われるのだと思います。

要するに、くまぶしがいいたいのは、「何かの役に立つから便利」という価値の源泉は、鮭はうまいとか、米がうまいとか、映画がおもしろいとか、そういう、自分に対して働きかけてくるものの、それ自体の価値から発生したのだろうということです。

つまり、あるものを、すてきとか、おもしろいとか、かっこいいとか、そういう風に感じるということが根本にあって、これこそが価値の原初的体験なわけです。それで、そういう素敵なものは、みんなだいたい同じように素敵だと思うので、ほしいなあと思うわけです。それで、ちょうだいというわけですが、ただではくれません。それで、代わりになんか素敵なものをくれよといって、取引が始まるわけです。取引は、ある人とある人が、あるものとあるものの素敵さを比較する(判断する)ということから発生するのだと思います。

それで、いろんな人が、自分が素敵と思うものを、他の人が素敵と思うものとくらべて、別の素敵なものを手に入れます。すると、今まで知らなかった素敵なものを体験できるわけです。これは、ただのモデルで、歴史的な話ではありませんが、二次的な価値の発生する仕組みはたぶんこういう感じだと思います。

それで、こういう物々交換を繰り返しているうちに、人間の間に、これはみんなが素敵と思ういいものだというコンセンサスができてくるわけです。原初的な意味でのお金というのは、こういうコンセンサスによって成り立っていると考えられます。原初的なお金というのは、貝殻とか黒曜石とか宝石とかですが、これらは、小さくて持ち運びに便利で、わりあい誰にとっても魅力的なものだったからこそ、みんなが感じている一次的価値を測る尺度になりえたのだと思います。

まとめます。
多数決で決まっているかのように見える「現実」とか「価値」というものも、そもそもは、ひとりひとりの人間が、自分はこういうものを素敵と感じるよという体験を、他の人に話したり、取引を通じて吟味したりすることによって、みんなが、なるほどこりゃ素敵だと納得したものであると思います。だから、そういう「価値」とか「現実」というものは、一見、人間たちが自分たちで決定しているかのように見えますが、もとを正せば、人間にそのように感じさせるものの力が、自身の「価値」を決定したり、自身の「実在」を証明しているのだと思います。価値のコンセンサスというのは、教育的価値はあるでしょうが、それでも結局、教えられた人自身が、本当にそのものには「価値」がある、これは「実在」だと感じなかったなら、そもそも共有されなかっただろうと思います。

ちなみに、くま宗教学では、そういう力を感じる体験を、ヒエロファニー(聖なるものがあらわれること)といいます。体験される実在とか価値というのは、聖なるものなわけです。
jun. 17, 2008
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42.かっぱの毛のこと

今日はちょっとかっぱのことを書きます。前の記事のコメントで、かっぱについて憶測がなされていたので、ちょっと教えてあげようかということです。「現実」とかの話のつづきは、たぶん明日書きます。

かっぱは、おかっぱではありません。てゆうか、髪がくしゅくしゅなので、おかっぱにならないのです。

それから、てっぺんが薄いわけでもありません。くまぶしよりは薄いですが、それはくまぶしの毛が多すぎるからです。実際のところ、かっぱの髪は細くてやらかいので、くまぶしはちょっとうらやましいです。くまぶしは、けもけも獣(剛)なので、朝起きたときに、カウボーイビバップのスパイクか、攻殻機動隊の荒巻さん(SACバージョン。ただし髪ふさふさ)みたいな頭になります。

かっぱの髪はやらかくてくしゅくしゅなので、ちょっと長いほうが、毛長犬みたいでかわいいです。それで、わりと髪を切らないでほったらかしてるのですが、不思議なことに、ある日をさかいに、突然カリヤザキさんになってしまいます。つまり、ある一定の長さを越えると、くまぶしには、もうカリヤザキさんにしか見えなくなってしまうらしいのです。だから、そういうときは、くまぶしが髪を切ってやります。

ちなみに、かっぱは先週からカリヤザキさんになってます。切ってやりたいのですが、最近忙しいので、なかなか切れません。

それから、キュウリは、かっぱの好物というよりは、くまぶしの好物です。味噌つけて食います。かっぱも、別に嫌いじゃないみたいですが。

肌が緑色というのは、見方によったらそう見える時もあるかもしれません。でも、かえるみたいにぬるぬるしているわけではありません。おほ。

ロバ先生が、本質的にロバであるように、かっぱもやっぱり、本質的にかっぱなのだと思います。でも、本人はいるかと思っているので、本当のところはいるかっぱなのかもしれません。くま。

080615_1739~002けれど、いるかっぱのイルというのは、アラビア語の冠詞だという説もあります。それだとThe Kappaということで、結局ただのかっぱということになりますね。くま。

おまけ。夕方、草に水をやっていたら、かえるちゃんがいました。

水をかけたら背中をむけました。
jun. 15, 2008
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41.使えるフィクションとしての「現実」

こんばんは。くまぶしです。

今日の「もっちり占い」は、存在運上昇で、「大存在の映画を見て興奮するでしょう」といってました。何のことやらわかりませんが、とりあえず今日も存在論の話をしとこうかと思います。ちなみに、さっき、蘇る金狼を見ました。「大存在」の映画だったかな?

前回のお話は、小説とか映画とかのいわゆるフィクションにおける「存在」と、いわゆる現実世界における「存在」とを、働きかけてくる存在であるクエポニ存在と、持続する存在であるモナド存在とに分けて考えてみるという話でした。今日はそのつづきです。

今日のくまぶしの主張は二つあります。一つは、いわゆる「現実」とされていることも、フィクショナルなものであるということです。もう一つは、いわゆる「現実」とされているフィクションと、いわゆる「フィクション」とされているフィクションとの違いについて考えることで、「現実」とされているフィクションを定義してみることです。

狭い意味でのフィクションは、小説とかマンガとか映画とかゲームですが、広い意味でフィクションという言葉を使うなら、人間によって意味があると感じられるものは全部フィクションだということもできます。たとえば、民主主義とか、人権とか、お金とかです。もっと簡単なものでもいいです。たとえば、コップとか車とか羊とかです。要するに、言葉でいうことができるものは、すべてフィクショナルなものだということです。どうしてかというと、コップという言葉は、コップという言葉が指し示すものの意味だからです。

今ちょっと買い物に行って、玉子を買ってきました。156円でした。玉子が1パック156円というのがフィクションだということは、みなさん別に文句はないと思います。仮にそのように値段をつけたということだからです。明日には違う値段になっているかもしれませんから。156円というのは、ある側面からみた玉子1パックの意味です。たとえば、アメリカで、玉子1パックを156円で売ろうとしても売れません。円を使っていないからです。だから、156円というのは、日本でしか通用しない意味です。同じように、玉子という言葉は、鶏が産んだ楕円形の白い物を、ある側面(食べる物としての側面)からみたときの意味です。これも日本語ですから、日本でしか通用しません。アメリカでは、エッグといわなければ通じません。

さて、以上のような広い意味でのフィクションは、ふつう「現実」だとされています。こうした広い意味でのフィクションと、こないだお話した狭い意味でのフィクションとは、どういう点で違うかというと、「現実」とされるフィクションは、それが働きかけてくるから「存在」するとされるわけではなくて、それが使えるから(共有されているから)「存在」するとされているところが違います。たとえば、アメリカで玉子が156円で売れないのは、アメリカでは円を使うというフィクションが共有されていないからです。代わりに、ドルを使うというフィクションが共有されているので、アメリカにおいては、ドルを使うというフィクションが「現実」であり、円を使うフィクションは、「現実」ではないわけです。

もっとも実際には、アメリカ人も、日本人が円を使っていることは知っています。つまり、日本においては、円を使うフィクションが「現実」として通用していることを知っているわけです。だから、アメリカ人が「円を使う」というフィクションを、単なるフィクションではなく、日本においては「現実」なのだと思ったなら、ドルと円を両替してくれるでしょう。インフレというのは、お金が「使えなく」なっていくことですから、フィクションとしてのお金の現実感が少なくなっていく現象だといえます。インフレになると、お金(紙幣)は「紙くず」になってしまいます。これは、「現実」とされていたフィクションが、ただのフィクションになってしまうということなわけです。

ところで、前の回にお話した、いわゆるフィクションでは、それが働きかけてくるから「存在する」と感じられるのだといいました。こうした狭い意味でのフィクションを、「現実」とされるフィクションと比べてみると、次のようにいえると思います。つまり、狭い意味のフィクションは、それ自体が目的であるのに対して、「現実」とされるフィクションは、それ自体が目的というよりは、それが私たちの役に立つかどうかで「存在」するかどうかが決まるものだといえると思います。あるお話が、リアルなものだと感じるのは、自分がそのお話を聞いたときに、わくわくしたりじーんとしたりするからなわけです。その作品の価値(クエポニ存在としての価値)は、その作品自体によって決まります。本とかDVDなど、ものとしての作品に値段を付けることはできますが、作品において語られている出来事はプライスレスです。つまり、高いからいい作品だとか、安いからつまらない作品だということにはなりません。人によっても違います。ある人にとってすごく働きかけてくるものが、誰にとってもおもしろいとはかぎらないわけです。

最後に、いわゆる「現実」とされているフィクションは、それが通用する限りにおいて、つまり私たちの役に立つ限りにおいて、意味を持つようなフィクションです。つまり「現実」は、通用性という点から判断されるべきものですから、たくさんの人に通じるフィクションの方が、少数の人にしか通じないフィクションよりも「価値」があるということになります。だからいわゆる「現実」は、基本的には多数決で決まるという性質があると思います。

今日はこれでやめますくま。おやすみなさいぶし。
jun. 11, 2008
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40.フィクションのこと

こんにちは。ちょっとさぼってました。今日はすこし、フィクションの話をしようかと思います。フィクションというのは、とりあえず、お話という意味です。くまぶしは、お話を読んだり、映画を見たりするのがわりと好きです。これは、みなさんわりと好きなんじゃないかと思います。おもしろいお話とか、かっこいいお話とかを見たりするとわくわくします。悲しい話や怖い話を見ると、ひゅえーとなります。かっぱは、大破壊の映画を見たりすると興奮します。

今まで何度も、クエポニ存在とか、モナド存在とかいう言葉を使ってよくわからなかっただろうと思いますが、今日の話は、この二つの概念を使うと、どんないいことがあるかの説明です。概念の使い方の例です。具体的には、お話の中にでてくる人とか世界は、存在するかどうかを考えるときに便利なのです。

フィクションで語られる出来事は、普通は、実在しないこと(リアリティがないこと)と思われています。たとえば、小説の中の人は、実在の人ではないと思われています。でもそれは、モナド的には存在しない、つまり、生物としての体を持っていないという意味で、クエポニ的に考えれば実在しています。

本を読んで何かを感じるというのは、本の中の人とかが働きかけてくるからです。感動するというのは、感動させられるという受動的なことですから、誰かが私を感動させたわけです。それで、働きかけてくる存在がクエポニ存在ですから、本の中の人はクエポニ的には実在しているわけです。

そもそも、「働きかけてくる」という点から考えると、駅ですれ違ったその辺のだれかは、ふつうはあまり働きかけてこないものです。ちょっとぶつかったらすいませんといいますが、それでさようならです。つまり、ぶつかることができるというモナド的意味においては、彼は存在しているといえますが、働きかけてくるかどうかというクエポニ的な意味では、ほとんど存在していないわけです。

よく知らない人に、なれなれしくするのは失礼なことです。独立した存在であるモナドに対して、クエポニ的な意味で働きかけるということは、そのモナドの自己同一性に対する侵害になるからです。モナド的存在というのは、国家みたいなものです。近代国家は、主権と国民と領土を持っています。それらにおいて、他の国家に対して排他的であることによって、国家はモナド的に存在しうるわけです。だから、過失からの領空侵犯でも、場合によっては撃ち落とされます。

ならず者は、肩がちょっとぶつかっただけで、宣戦布告と受け止めます。ゴルゴ13は、誰かが背後に立っただけで攻撃します。こわいですね。こういう人たちは、軍備をばんばんやってる国みたいなものです。けれどふつうの人は、そんなにピリピリしながら暮らすのはエネルギーの無駄なので、もっと平和的に暮らしています。軍事費に金を使いすぎると国家財政が圧迫されるのと同じです。それで、ふつうはちょっとぶつかっただけなら、すいませんといえばすむわけです。

さて、以上のように、モナドとしての個人は、他人の領域を侵さないよう、あるいは、自分の領域を侵されないよう、気をつけて暮らしているわけです。つまり、あまり他の人に働きかけないようにしようということです。常識とか礼儀というのは、戦争しないための国際条約みたいなものです。

これに対して、フィクションというのは、モナドとしての実質を持っていないので、領域を侵される心配がありません。(もちろん程度によりますが。)だから、本を読んだり映画を見たりするときには、他の人と会ったりするときとは違って、武装解除することができます。そして、武装解除して接するからこそ、フィクションは働きかける力を発揮することができるわけです。(現代人の場合は、です。)

たとえばファンタジーでは、竜とか魔法使いとか妖精とか神さまとかがでてきたり、ホビットが冒険の旅に出たりします。ファンタジーを読むときは武装解除しているので、おもしろいぶしと思います。働きかける力を素直に受け入れることができるわけです。そんなの嘘っぱちだと思っていたら、あまり楽しくないと思います。嘘っぱちだと思うことはとりあえずどこかに置いておいて、そのお話の中のリアリティを体験するわけです。

けれど、例えば新興宗教の勧誘の人が来て、チャクラを開くのだとか、神さまはいるのだとかいう話をしたとします。よく知らない人なので警戒しながら話を聞きます。そうすると、おもしろいぶしと思ったファンタジーと似たような話だったとしても、ぜんぜん働きかけてきません。うそ臭いなあと思うだけです。「うそ臭い」というのは、モナド的世界の存在論からの判断です。相手が体をもった人なので、こちらも体をもったモナド存在として対応するわけです。実際、知らない人にいきなり「何か悩みはないですか」とかいわれるのは、礼儀正しいモナド的関係においては、ちょっと失礼なこと(働きかけすぎ)だと感じられるのです。それで、新聞いらないよというのと同じように、間に合ってますというわけです。

とりあえず今日はここでやめます。いいたかったことは、フィクションにおけるリアリティは、クエポニ的リアリティで、これはモナド的リアリティとは別物で、モナド的に警戒していると体験できなくなるということでした。

それではまた。くま。
jun. 9, 2008
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39.学校での仕事

こんにちは。くまぶしです。

きょうは、学校に行ってただばたらきをしてきました。
こんどくまぶしの学校で学会があるので、その準備です。
わりと大きな学会なので、準備もたいへんです。

大学院というところは、授業料を払っているのに、ただ働きをさせられるひどいところです。今日は朝の10時から夜の8時まで働きました。でも、くまぶしは文系なので、そういう働きはたまにだけです。理系の人はもっと大変なので、もんくはいわないどきます。

もっちりの書いた記事が、5つも拍手されてました。新記録です。なんか釈然としません。くま。
jun. 4, 2008
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38.ふとった男

20080601195544かっぱは最近、ふとったおとこの歌を、よく歌っています。

「ふとったおとこ。ふとったおとこ。ふとったおーとーこー。」

お相撲取りのことです。

くまぶしは、朝青竜がわりとすきです。ジンギスカンに似ててかっこいいです。

でも、この絵は朝青竜じゃありません。
jun. 1, 2008
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