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37.ねこ

こんばんは。くまぶしです。

今日はNHKのご近所の底力という番組を見ました。なんでも、東京で野良猫がたくさんいて困っているらしいです。それで、野良猫にえさをやる人がいるから増えるのだと文句をいう人たちと、餌をやれば盗みは働かないし、去勢してやれば増えないからいいのだという人たちが出てきて、話し合っていました。

問題なのは、猫がゴミをあさったり、糞をしたり、車の屋根に乗って傷をつけたりすることだそうです。

猫が嫌いな人たちは、どうやら猫の存在自体が許せないみたいです。殺してしまえとはいっていませんでしたが、餌をやらずに飢え死にさせようと思ってるみたいでした。逆に、餌をやる方の人も、去勢してしまえば、結局のところそのうちいなくなるからいいのだといってました。

それで結論は、地域猫という運動があって、要するに、地域で猫を飼うという仕組みをつくるといいということでした。まあそれならそれでいいのですが。

動物を去勢するのは、ペットとか競争馬とかなら意味がありますが、野良の動物を去勢するのは無意味だと思います。実際には無理でしょうが、野良猫を全部去勢したなら、原理的には野良猫はいなくなるはずです。でもそれは、今殺さずに5年後に殺すというのと同じことだと思います。絶滅させるという意味でですが。番組では、「今いる野良猫が天寿をまっとうしたら、野良猫はいなくなる」といっていましたが、そんなに野良猫がいるのがいやなら、今ぜんぶつかまえて殺してしまえばいいのにと思います。ゴキブリとかにするみたいに。でも、ゴキブリを叩き潰すのはちょっと気持ち悪いです。猫を殺すのは、ゴキブリを殺すのより、勇気がいります。だから、猫嫌いの人も、去勢することで、「自然に」絶滅するのを待つのがいいと思うようです。

けれど、地域猫というのは、要するに、地域全体のペットとして猫を飼うということみたいですので、猫が好きな人には、おうちで猫を飼うのと同じく、意味があることだと思います。それから、猫が嫌いな人にとっても、自分で猫を殺さなくてもいいという点で、意味があるのだろうと思いました。都会は人がたくさんいるので、なににつけても大変ですねと思いました。くま。

ちなみに、くまぶしは、わりと猫好きです。くま。
may 30, 2008
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36.クエポニ存在とモナド存在の関係のイメージ(昨日のつづき)

昨日は、クエポニ存在のイメージを、いくつかの典型的な事例から提示してみました。理論的な説明より、ちょっとはわかりよかったらよかったんだけど。
今日は、昨日のつづきで、クエポニ存在とモナド存在の関係について話そうと思います。

クエポニ存在の反対は、モナド存在です。
クエポニはだれも使わない言葉ですが、モナドはわりと使われる言葉なので覚えておいて損はありません。もっとも「モナド存在」とかいう言い方はないでしょうけど。
モナド存在というのは、「存続する、永続する」存在です。一般には、お祭りしてるとか、お参りしているとか、そういう特別な状態(クエポニ状態)でない日常において、ふつうに「存在している」と思うときの存在です。仏像も、そうした視点から見ればただの像です。つまり、ずっと存続するもの(モナド存在)です。クエポニ存在としての「仏」を、「仏像」という固定した形で表現することは、だから、クエポニ存在をモナド存在として表現してしまう危険性を常にはらんでいます。キリスト教で神の像をつくってはいけないというのは、そうした危険性を避けるためです。仏像におけるこうしたジレンマは、芸術におけるジレンマと同じだと思います。

たとえば、岡本太郎は、芸術はバクハツだといいます。彼は、バクハツ(クエポニ)存在を表現しているわけですが、実際に作られるものは、モナド存在でもあるわけです。だからそれを、仏像をただの像とみなすことが可能なのと同じように、モナド存在としてのみ見ることも可能です。そういう見方が可能だということを知っているからこそ、太郎はくどいほど「バクハツだ」というわけです。しかし、言葉で説明してわかってもらおうというわけではないと思います。太郎は創造する人ですから、創造されたもの(モナド存在)で勝負しなければなりません。くまぶしは、太郎の絵はふつうに好きですが、彫刻の方が大好きです。太郎の彫刻は、椅子とかオブジェとかですが、「ほれ、さわってみたいだろ」といっていると感じます。前に、保育園に行ってる姪と一緒に、岡本太郎美術館に行ったことがあるのですが、姪もやっぱり、面白い形をした椅子とかをみると、目がらんらんと輝くのでした。それで、くまぶしに、「すわっていい?」と聞くのですが、悲しいことに太郎美術館では、だいたいの椅子に座ってはいけないことになっているのでした。これにはくまぶしもだいぶフラストレーションがたまりました。それで、座っていい椅子があるコーナーにいって、二人で思う存分座りました。

太郎は、だいぶ老人になってから、諏訪の御柱祭を見に行ったそうです。御柱祭では、山出しといって、山から切り出した大きな柱を、ごろんごろんと落とす祭りがあるのですが、太郎は、人々が落下する柱に乗っているのを見て、自分も乗りたい乗りたいといって周りの人を困らせたそうです。このとき太郎には、転げ落ちる柱が、クエポニ存在として、すごく生きているものとして、爆発しているものとして、つまり神さまとして見えたのだと思います。それで彼は、どうしてもその柱に乗りたいと感じたのでしょう。

つまり、太郎は、クエポニ存在としての柱を見ることによって、自分もクエポニ存在になってしまったわけです。昨日の話で、ナナワツィンが太陽になって、その太陽の光と熱がすべてのものに侵入するように、そこにあるクエポニ存在は、それを見ているモナド存在の自己同一性を破って侵入してくるものです。それで、侵入されたモナド存在は、「窓が開いた」状態になって、もはやモナド存在ではなく、クエポニ存在になってしまうのです。

既にしてクエポニ存在になってしまった太郎は、柱につぶされて死ぬかもしれないといった考えは思いつかないわけです。思いついたとしても、そういうことはどうでもいい問題になってしまっているわけです。なぜなら、転げ落ちる柱こそが「生きている」わけですから、その柱に乗らないなら、自分は「生きていない」ことになるからです。しかしながら、モナド存在としての彼は、老人ですし、柱から落ちたりしたらすぐ死んでしまうかもしれません。それで、太郎をモナド存在として見ている周りの人は、乗らないでくださいと頼むわけです。実際のところ、彼が柱に乗ったのか乗らなかったのかは忘れてしまいましたが、確か乗ったんじゃなかったかと思います。太郎美術館で、展示物に触らないでくださいというのは、太郎に柱に乗らないでくださいと頼んだ人たちに違いないと、くまぶしは思っています。

まとめます。くま解釈学で、クエポニ存在とかモナド存在とかいうのは、ある「もの」が、時と場合によって、クエポニ存在として体験されたり、モナド存在として体験されたりするという意味です。簡単にいえば、すべての「もの」は、二つのレベルにおいて「存在」しているわけです。(アイヌにとって、くまがくまであると同時にカムイであるように。)
本当の「もの」というのは、モナド存在であり、かつクエポニ存在である「もの」のことです。前に、ヒエロファニーという言葉の説明をしましたが、ヒエロファニーというのは、本当の「もの」に出会うことです。太郎のつくる「もの」が、モナドとしての「もの」でありつつ、それにもかかわらずバクハツを感じさせるなら、それはそのときヒエロファニーが起きているということで、太郎が本当の「もの」を創造したということだと思います。仏像だったら、モナドとしての像でありながら、人々を救おうとして歩き出すことがあるわけです。その時、仏像は仏になっているわけです。
may 28, 2008
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35.クエポニのイメージ

こんにちはくまぶしです。

たんたんがいくつかまとめてコメントをくれました。他の人も、わからないところがいろいろあるだろうと思います。めんぼくないくま。くまぶしも、わかりやすく説明したいのですが、いっきにぐぐっとわかりやすく話すのは難しいです。

だから、ちょっとづつ説明しようと思います。クエポニ存在については、前には理論的に説明しましたが、今日は、クエポニのイメージについて話そうと思います。

まず、クエポニという言葉は、中央アメリカのメシーカ人が話していたナワトル語という言葉で、(花が)咲くとか、(星が)光るとか、そういう意味の動詞です。どうしてナワトル語なのかというと、別に他の言葉でもよいのですが、たこ博士にメキシコの太陽の起源神話の話を聞いて、たいへんおもしろいと思ったからです。(ちなみにクエポニというのは、専門用語ではありません。日本でクエポニという概念を使っているのは、たこ博士とくまぶしだけだからです。)

その話です。サアグンという人の記録したのを、たこ博士が訳しました。

 世界が闇の中にあったとき、太陽がなかったとき、ものが照らされてなかったとき、神々はテオティワカンと呼ばれる場所に集まり話し合った。「神々よ来たれ! さあ、誰がものを照らし熱する役目を引き受けるだろうか?」するとそこにいたテクシステカトルという神が「神々よ、私が引き受けよう」と言った。神々はもう一度、「他に誰かいるか」と言った。…誰も答えなかった。前に進み出るものはいなかった。みなが怖れて、しり込みした。
 …そこにいたナナワツィンという神に、神々は言った。「引き受けよ、ナナワツィン」。この神はこの命令を静かに受け入れた。「神々よ、ありがたく引き受けます。」 
 こうして二神は苦行を始めた。テクシステカトルとナナワツィンは四日間断食を行った。それから火が据えられた。それは炉で燃え盛った。テクシステカトルが用意したものは高価なものばかりだった。ケツァル鳥の羽、金の器、貴石や珊瑚の針、そしてとても良い御香。かたやナナワツィンのものは、水辺の葦草、葦草で作った器、サボテンの針。それらには彼の血が塗られていた。そして御香には自分のかさぶたを焚いた…。
 …それから神々はこの二神に衣装を着せた。テクシステカトルには、サギの丸い羽と綿布の上着を与えた。ナナワツィンには、紙でできた髪留め、肩掛け、下帯を与えた。
 それから神々は炉を囲んだ。…神々は炉の両側に二列になり、その中央にテクシステカトルとナナワツィンの二神を立たせた。彼らは炉に正対し、炎を見つめていた。神々はテクシステカトルに言った。「さあ、テクシステカトル、炎の中に飛び込め。」
 テクシステカトルは火に飛び込もうと進み出た。熱が肌に達した。それは耐え難い熱さだった。炎は炉で激しく燃えた。炎は立ち昇った。テクシステカトルは恐怖した。後ずさりした。…実に四回も、テクシステカトルは火に飛び込もうと試みた。だができなかった。
 そこで神々はナナワツィンに叫んだ。「さあ、ナナワツィンよ、飛び込め!」 ナナワツィンは、覚悟を決めた。気持ちを強くした。目をしっかり閉じた。怖れなかった。ぐずぐずしなかった。たじろがなかった。後ずさりしなかった。火に飛び込んだ。その体は、燃えた、咲いた、音を立てて燃えた。・・・

そして出てきた、現われた、太陽が。
それは真っ赤に揺れていた。
その顔を見ることはできなかった、それは眩しかった。
それは激しくものを照らしていた、熱と光を放っていた。
その熱と光は、あらゆるところに広がった。
その熱と光は、あらゆるところに入りこんだ。

この話自体は、有名な話なのですが、たこ博士は、ナナワツィンが火に飛び込んだ時に、「咲いた(クエポニした)」といわれているところに注目して、クエポニするという言葉は、普通には花などが「咲く」と訳されているけれども、もっと宗教的な意味のある言葉なのじゃないかという論文を書いたのです。それで、くまぶしたちに見せにきたので、くまぶしたちの解釈学に取り入れてみたわけです。
たこ博士の論文を、1パラグラフでまとめます。メシーカ人の言葉の使い方によると、花が咲くこと、星が光ること、太陽が燃えること、(ナナワツィンが)火に飛び込んで燃えること、戦士が華々しく戦うこと(戦って死ぬこと)、王さまが即位すること、子供が成人すること、以上のようなことが全部、クエポニという言葉で表現されます。そして、このクエポニという行為は、メシーカ人にとっては、理想的な行為、生のモデル、簡単にいえば、「すごくかっこいいこと」として考えられているわけです。

さて、ここからはくまぶしの解釈学になるのですが、以上のようなメシーカ人の理想は、世界の宗教の歴史という視点からみると、なにもメシーカ人だけに限ったことではありません。たとえば、日本でも、武士が腹切りします。腹を切ることは、いろいろな意味があるでしょうが、ひとことでいえば、腹だって切れるぞという勇気が問題なのだと思います。討ち死にすることも、華々しく散るといいます。花のイメージなのです。「咲く」ではなくて「散る」ところが日本的ですが。以上は、戦士的な宗教性といってもいいかもしれません。血がビューと吹き出したりするところが、花が咲くこと(散ること)に似ています。切腹の作法として、内臓をつかみだして投げるというのもあります。すごいいたそうですが、そういうことができる状態の人間は、神的なのです。別の言葉でいうと、「ものすごく生きている」のです。これは、燃えている太陽が「ものすごく生きている」と感じられるのと同じように、「ものすごく生きている」のです。太陽は、自分を激しく燃やしながら、「その光と熱を放って」います。そして、太陽が放つ光と熱は、「あらゆるところに」、つまり諸存在(モナド)の中に侵入してきます。つまり、モナドとしての諸存在は、太陽的存在(クエポニ存在)に侵入されることによって、窓が開く(自閉状態でなくなる)、つまり、「生きる」ことができるわけです。

ちょっと古いですが、ザ・イエローモンキーに「太陽が燃えている」という歌があります。この歌では、「愛」と「花」と「太陽が燃えていること」が同じこととして歌われています。さびのところで、

太陽が燃えている ギラギラと燃えている
二人が愛し合うために 他に何もいらないだろう

とあります。「愛し合うこと」というのは、「君のからだの中 僕のからだの中 太陽が燃えてる」ということで、この歌の場合は、これが「生きること」だといっていいでしょう。反対に、愛し合わない状態は、太陽的ではない、つまり「生きていない」わけです。

こうした「生きている」状態を存在することだとする態度は、哲学的にいうと、ライプニッツのモナドロジーに代表される存在論の否定です。つまり、腹を切ることというのは、自分はモナド(コギト)ではないということを証明することなのです。ライプニッツ的にいうと、モナド(自閉した自己=コギト)に無理やり窓を開けることです。

もっとも、戦士的な理想というのは、過激で乱暴です。イエモンの歌もわりあい乱暴です。けれど、クエポニ的存在を典型的に表現していると思います。

戦士的でないクエポニの例としては、例えば仏像がそうです。仏さまはだいたい蓮華座というのに座っています。つまり、ハスの花が咲いた上に座っているわけです。これはどういう意味かというと、くまぶしの解釈では、仏さまは、ハスの花が咲くように、この世にあらわれる(存在する)という意味になります。もうすこし詳しくいうと、仏さまというのは、「咲くもの」なのです。造花ではなくて、生きた花なのです。だから、仏さまにお花を供えるわけです。もっとも、今は造花で済ませてしまうことが多いですが。造花というのは、花の存在を固定化しようとするものです。つまり、花のモナド性(永続する存在)を強調すると造花になるわけです。同様に、灯明も、神社でも寺でも、今はろうそく型の電灯を使います。これもよくありません。どうしてかというと、ろうそくの炎は生きていますが、電灯の光は生きていないからです。炎はちろちろと動いている生き物です。バックドラフトでもそういっていました。ろうそくの炎は、ろうそくを食べながら生きている光なので、ろうそくが尽きたら死ぬわけです。ろうそく型の電灯も、造花も、ずっと死なない「存在」ですが、それは生きていないから死なないだけの話です。

さて、長くなったので強引にまとめます。まず、くまぶしのいうクエポニ存在というのは、簡単にいえば「生きている」と感じられるものです。特に、神さまとか仏さまというのは、太陽のように、普通のものよりも、「ものすごく生きている」と感じられるものです。こういうものを「聖なるもの」といいます。もっとも、神さまとか仏さまには、単純にクエポニ的であるというだけではない側面もありますが、それはまた別のときに話します。とにかく、お祭りのときとか、お参りしたときとかに、神さまとか仏さまとかが、「ものすごく生きているもの」としてあらわれたなら、それは神さまが、クエポニ存在として存在しているということです。
may 28, 2008
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34.やまにのぼってきたぶし

20080526222617こないだお山にのぼってきました。

くまぶしの人間のお友達がやってきたので、案内してあげたのです。
お友達は、エロ保健婦とエジプト人と痴呆公務員の3人です。

くまぶしはふだん、ずっとおうちでくまくましてるので、筋肉がチーズフォンデュのようにとろけています。

でも、800メートルくらいの低いお山なので、ぜんぜんよゆうぶし!!とおもってたのですが、登山口の石段40段くらいのぼったところで、足がつりました。

人間のお友達は意地がわるいので、案内人であるくまぶしを置いて、どんどんのぼっていってしまいました。

くまぶしは泣きながらロープウェイでおいかけたのでした。

しぜんをあなどってはいけませんね。くま。
may 26, 2008
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33.いちご

080523_0527~02こんにちは。くまぶしです。

くまぶしの植えたいちごが、まっかっかになりました。

おほ。うまそうぶし。

残念ながら、一粒です。

もう二粒あるけど、まだ緑色で、小さいです。

今日のところは、かっぱにはやらないで、くまぶしが食います。

くまぶしは、いちごがすごい好きです。いちごはうまいぶしねー。

いま、冷蔵庫で冷やしてます。くま。
may 23, 2008
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32.ランボーみたぶし

こんばんはくまぶしです。

最近むし暑いので、アトピーがかゆかゆで、なにもできません。
かゆくてよく寝れないので、だらだらしてます。今日はかっぱとランボーを見ました。

ロバ先生じゃないですが、最初のランボーはやっぱりおもしろいですね。

20080523001721ランボーは、最初の方では、「俺にかまうな」とかいって、山の中で野生動物として暮らしたいみたいなことを言いますが、それは嘘です。どうしてかというと、州兵に砲撃されて、みんながランボーが死んだと思った後に、わざわざ武器を奪っておおあばれをしだすからです。野生動物として生きたいなら、死んだふりをして黙っていればいいわけです。てゆうか、最初から暴れなければいいわけです。

結局、保安官たちにかまってもらいたかったんだろうと思います。バガボンドで、佐々木小次郎と切りあったなんとかさんが、「俺たちは、抱きしめあう代わりに斬りあうんだな」とか言ってたきもちです。

ディープブルーのサメは、たぶん、本当に「俺にかまうな」と思っていたと思いますが、ランボーは、撃ち合いをするときとてもうれしそうです。ガソリンスタンドだって、合理的に考えれば、別に爆破する必要はなかったんだと思います。俺はここにいるぞということだと思います。で、ランボーが生きていたと知ったときの保安官の顔もまた嬉しそうです。たぶん、「俺に殺されるために生きていてくれたんだな」と思ったのでしょう。

要するに、「野獣死すべし」と同じで、撃ち合いにおいて、生き生きすることを体験してしまったから、撃ち合いをしない世界では生き生きできなくなってしまったわけです。「野獣死すべし」もおもしろいですが、ちょっと理知的すぎというか、優作がしゃべりすぎです。まあ、そこが面白いんですが。その点、ランボーはほとんどしゃべらないのでいいです。

松田優作がカメラマンだったのに対して、ランボーは実際に撃ち合いをしていた人だったから、その点では、優作は「野獣にあこがれた人」で、ランボーは「野獣」なのでしょう。もっとも、「野獣」とはいいますが、本当の野生動物ではありません。くまぶしは、クエポニ族の一種だと思います。日本でも、戦国時代の侍なんかには、わりあい沢山います。かっぱもニーチェもクエポニ族ですが、ランボーとかは、肉体派のクエポニ族ですね。

ともかく、グリーンベレーの上官がやってきて、「おびえていただけなんだよね、一緒に森へ帰ろう。」と言って、南の森へ戻って、次作以降は南の森で大暴れすることになるわけです。人材の有効利用だぶしね。一般に、近代社会はクエポニ族を嫌います。近代社会はモナド存在論で成り立っているからです。それで、武器というのは、暴力的クエポニ族のコミュニケーションツールなので、廃刀令とか出して禁止するわけです。国家が一つのモナドである以上、外部に対して力を発揮するのは構わないのですが、内部でクエポニをやられるのは迷惑なわけです。その点では、アメリカが銃社会というのは、近代国家的ではありません。アメリカはリベラリズムなので、たぶんそのせいでしょう。

もっとも、アメリカで銃を持とうという人たちの主張も、基本的にはモナド存在論で、クエポニ的ではありません。要するに、おれの家に入ってくる奴は撃つというのが建前です。個人としてのインディペンデントの象徴なわけです。クエポニ族というのは、わりと貴族だから、アメリカ的ではないのです。

しかしながら、実際のところは、そう簡単ではないみたいです。ただ、そういうクエポニは、自爆テロと似ていて、痛ましい感じがします。本当のクエポニ族は、もっとあっけらかんとしていると思います。
may 22, 2008
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31.デイ・アフター・トゥモロウを見たぶし

昨日、かっぱと、デイ アフター トゥモローを見ました。これは、土曜日にテレビでやってたのですが、かっぱが木賃宿で夜勤だったので、ビデオにとっておいたのです。

この映画は、ひとことで言うと、地球温暖化のせいで極地の氷が溶けて、海の塩分濃度が変わって、それで海流が流れなくなって、すごい寒くなって、人がたくさんスノーマンになって死ぬ話です。

kumastormくまぶしは、超巨大竜巻がLAで大暴れして、車を飛ばしたりビルを倒したりしたところと、NYが津波に襲われるところが、すごいと思いました。あと、宇宙(スペースシャトル)から見た巨大嵐がかっこよかったです。絵を描きました。くまぶしとかっぱも飛ばされています。

この巨大嵐が、北半球に三つあらわれて、それぞれ南下していって、北半球の中緯度以上がほぼ全滅するのです。どうして嵐くらいで壊滅してしまうのかというと、その嵐の中心の気温が-100℃なので、嵐が通ったところにあるものは、一瞬でぴきぴきと凍ってしまうからでした。飛んでいるヘリコプターも凍ります。生きている人も凍ります。

でも、嵐のまんなかだけ-100℃というのは、ちょっとうそ臭い感じがしました。あと、どうでもいいことですが、映画の邦題をつけないで、カタカナで書くのはやめてほしいです。デイアフタートゥモローだと読みにくいし、デイ アフター トゥモローだと間が抜けています。デイ・アフター・トゥモローとナカグロで書くしかないですが、合成語みたいでちょっと変です。

かっぱはこういう話が大好きです。つまり、大破壊が大好きなのです。かっぱは不謹慎なので、大笑いしながらみます。ムスカみたいです。くまぶしは、かっぱほど不謹慎じゃないので、すごいなあとは思いますが、ふつうに怖いなあと思います。

もっとも、かっぱにとっては、こういう大破壊はヒエロファニーなのです。つまり、神さまっぽいものが大あばれする働きというわけです。実際、ルドラとかシヴァとかスサノヲなどは、暴風の神さまです。ちなみに、こういう力としての聖なるもののあらわれを、特にクラトファニーといいます。

かっぱにとって、逆説的ですが、大破壊はすごい創造的なことなのです。これは、創造的というのを、力があふれているかいないかで判断するからです。かっぱによると、ものができることは確かに創造的ですが、できあがってしまったなら、それは非創造的状態になってしまったことなのです。それで、今度は非創造的状態(モナド)が破壊されることが、創造的なことになるわけです。

くまぶしはかっぱを、すごい悪魔的と思いますが、かっぱは自分のことを、天使的と思っているみたいです。

かっぱの座右の銘です。
悲劇的な者たちが沈んでゆくのをみる。そして深い理解、感動、共感を覚えるのにもかかわらず、彼らを笑いとばすことができる。これは神的なことなのだ。(ニーチェ)
may 21, 2008
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30.検索まぶし

こんにちは。くまぶしです。

「くまぶし」で検索すると、だいたい上の方にでるようになりました。みなさんありがとうございます。

いちばんのライバルは、「遠山物産館くまぶし」で、これは熊伏山(くまぶしやま)にある土産物やです。
でも、ここは一応、「くまぶし」なので、負けても別にいいです。

負けていやだったのは、「すごくまぶしい」とか、「小麦粉をうすくまぶして」とか、そういう偽物のくまぶしです。
くまぶしじゃないじゃん!
けど、おかげさまで、この人たちには勝てるようになりました。えへ。
may. 20, 2008
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29.こぐまが来た話

昨日は、すてきなお客が来ました。こぐまです。
二匹のこぐまが、両親に連れられてやって来たのです。父親(名前は弱といいます。もうおっさんです。)が、かっぱの同級生だったので、くま自慢に来たのでした。1歳3ヵ月と、3歳のくまです。激烈でした。くま。特に、小さい方(女)は、歩き始めたばかりで、ちょっと言葉らしきものを話します。くまー。たまりませんね。こいつ、食っていいか?と思いました。足が、ミシュランマンみたいなのです。

こぐまと遊んでいたら、ロバ先生が来ました。モバイルのパソコンを買ったのだけど、ネットにつながらないといって、かっぱに相談に来たのでした。かっぱもそんなに詳しいわけではないのですが、ロバ先生は特別にメカに弱いので、いろいろ聞きにくるのです。うちのLANにつないだらすぐにつながりました。どういうことか、よくわかりません。

先生もちょっとくまを見たのですが、「鞄に入れて持って行きたくなるな」と言っていました。先生にしては珍しいです。先生によると、8歳すぎたら、憎たらしさがまさるそうです。ペーズリー呼ばわりされたことを、いまだに根に持ってるみたいです。

くま達が帰ってから、先生に、こないだの記事を読ませたら、読みながら、まず、「大滝はそこまで好きじゃない。智衆は好きだが。」と言いました。それから、「まとはずれだとー。」と言いました。最後の方では、「なるほどー。そうかもしれん。」と言いました。えへん。ちょっと自慢です。

それから、このあいだ、リアクションペーパーに、「先生の言うことの半分もわかりません」と書かれたという話をしました。リアクションペーパーというのは、授業の感想とかを書いてもらう紙で、出席をとる代わりに配るのです。先生は、わかりやすく話していたつもりだったので、ちょっとさびしく思ったみたいでした。

先生は、「『実在』とか言うと、みんなぽかーんとするのだ」と言います。それで、「実在」とは何かから説明しようとするわけです。先生もかわいそうですが、女の子たちにも同情しますね。

先生は、単純に、「実在」という言葉が難しいだけで、「実在」それ自身については、女の子たちも知っているはずだし、気づいていないだけで、重要な問題だと思っているに違いないと思うわけです。そもそも、「実在」というのは、本当にあると感じるもの(そのように感じる体験)なわけですから、それを体験していない人はいないわけです。それはそうなのですが、ロバ先生のように、それを「実在」という言葉で把握しようとする態度は、一般的ではありません。どうしてかというと、あるものにおいて、本当に実在を感じている人は、それに対して「実在」という別の名前をつける必要を感じないからです。先生のために、くまぶしが、ためしに説明してみるぶし。親切だぶしね。

たとえば、昨日遊びに来たくまの親父の弱さんは、二匹のくまにおいて「実在」を体験しています。たぶん。彼にとっては、くまがいるからこそ「実在」があるわけで、くまと離れて「実在」はありえません。だから、考えるだに恐ろしいことですが、もしか彼のくまが死んでしまったら、彼にとっては実在が失われるわけです。これは大げさにいうのではなしに、世界喪失の体験です。そうなってみなければわからないことなので、本当のところはなんともいえませんが、まず間違いなくそうだと思います。

もちろん、彼の世界を形成する実在は、くまだけではないでしょう。彼には、かわいい妻もいますし、今度家を新築するつもりですし、楽器の演奏も好きですし、会社の仕事だって実在の一部ではあるでしょう。それら全部が実在なのですが、とりあえず今のところ、彼にとって最も実在的な実在は、彼のくまだということです。顔を見ればわかります。たとえていうと、くまという真実在と、そのくまによって実在的になる実在、くまに従属した諸実在とがあるわけです。会社をクビになったら、ちょっとへこむでしょうが、「くまのために」ぜひとも新しい仕事を見つけなければなりません。新築した家が火事になって、家のローンだけが残ったら、すごくがっかりするでしょうが、「くまさえいれば」(もちろん妻もですが)なんとかなると思います。けれど、くまがいなくなったら、仕事があっても、家があっても、それに何の意味があるのだと思うわけです。彼にとって、仕事や家は、かつてと同じように「意味あるもの」(実在)とは感じられなくなるわけです。

さて、彼にとってのくまが以上のようなものだとします。そのとき彼は、「大事なのは、意味があるのは、くまであって実在ではない」ということもできるのです。というか、そう言う方が一般的だと思います。で、ロバ先生の女の子たち(このように言うと、なんだか先生がモテモテみたいですね)にとっても、それぞれ「実在」があるはずですが、彼女たちもやっぱり、「大事なのは、実在じゃなくて○○だ」と思っているのだと思います。これが、こないだの記事で、「女の子たちは、具体的なものにこそ意味があると思っています。」と書いた意味です。彼女たちがそのように言うのは、それぞれにとっての「実在」が、本当の意味で実在だからです。「実在」という言葉では表現されえないほど、実在的なのです。

さて、以上のようにいうと、ロバ先生は実際のところは「実在」を体験していないからこそ、意識的に「実在」を問題にしなければならないのではないかというふうにも考えられるわけです。女の子たちの側から、ロバ先生の態度を批判するなら、そういう言い方になるでしょう。これは、わりと当たっているかもしれませんし、実はロバ先生のことを知らないからそう見えるだけかもしれません。これについてのくまぶしの意見はまた今度書きます。ただ、彼女たちにとって、ロバ先生が、なにが楽しくて生きているかわからない生き物だというのは、彼が実在的に生きているようには感じられないということだから、少なくとも彼女たちの視点からすると、ロバ先生が「実在」を知らないからこそ、それを探そうとしていると見えるのは仕方がないことだと思います。

それはともかく、実際、先生が学生になにか書かせると、自分には○○があるから、「宗教」なんて必要ないんだと書いてくる子が結構いるらしいです。これは要するに、ロバ先生は宗教をすごい大事なことのように思っているみたいだが、私にはもっと大事なことがあるからどうでもいいという意味です。そのように思うことは別に間違いではないし、それで十分といえばまあ十分なのですが、そういう態度は、旅に出る前の星の王子さまとおんなじだと思います。比喩的にいうと、世界の内部にいるだけの場合、その世界の実在性はそれだけ強いのだけど、それゆえに、世界について「知る」ことができないわけです。

控え目にいっても、理論的には、自分にとっての実在以外は存在しないという独我論的世界にとらわれてしまいます。まあ、実際はそんなことはないでしょうが。それというのも、彼女たちは、そこまで本気で、「自分にとっての実在」と思っているわけではなくて、自分にとっての実在を、「客観的実在」だと無邪気に信じているだけだからです。

くまぶしはそう思うので、それならそれでいいよと思うのですが、ロバ先生はロバなので、理論的にそうなるということから、彼女たちが本当に独我論的世界に暮らしていると思っているみたいです。でも、彼女たちからすると、ロバ先生の方が、300倍くらい独我論的世界に暮らしているように見えるんじゃないかと思います。それで、ロバと女の子たちの間の対話は、宗教間対話のように難しくなるわけです。(これは冗談です。)
may 18, 2008
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28.ロバ先生と女の子たち

こんにちは、くまぶしです。
最近ロバ先生にあってなかったのですが、昨日、研究会があって学校に行ったら、なぜかロパ先生もいました。それで、今年から行ってる女子大の女の子たちのことで、ちょっと悩んでいました。

その女子大の女の子たちは、まじめな学校らしいので、基本的にいい子たちみたいですが、そうはいっても女の子たちだから、ロバとは正反対の生き物なわけです。

ロバ先生は、まったく話が通じないといって悩んでいました。かわいそうですが、しかたありません。

ロバと女の子たちとの間には、深くて広い深淵があります。たとえばロバ先生は、ロッキーとランボーのDVDを全部持ってます。ひとりで、何度もみてるみたいです。さすがに、一番新作のロッキーはだめだといってましたが。好きな俳優は、笠智衆と大滝秀治です。好きなマンガは、ゴルゴ13と「まんが道」です。「まんが道」を読んで大笑いしてる人(ロバですが)を、くまぶしは久しぶりに見ました。趣味はブックオフ巡りです。ガソンリンがこんなに高いのに、ひとりで隣の県のブックオフまで行って、ちょっとでも安いゴルゴ13を探したりします。どうしようもありませんね。

そういえば、ロバ先生は、ロバになる前は、ロボでした。ロボというのは、みんなでスキーに行ったとき、動き方がロボットみたいだったからなのですが、動き方だけじゃなくて、特に女の子たちから、感情がないと思われていたからです。くまぶしは知っているのですが、ロバ先生にも、実は感情らしきものはあるのです。ただそれが、非常に表にあらわれにくいことと、発動するポイントがあまりにも女の子たちとは違うから、彼女たちには「ない」と見えるわけです。だから、なにが楽しくて生きているか、まったくわからないわけです。

ロバ先生も、自分が女の子たちとはまったく違う生き物だということは承知してますから、努力はしているみたいです。けれど、くまぶしから見ると、どうやら的外れな努力をしてるんじゃないかしらと思うことも多いです。おおざっぱにいって、女の子たちは、具体的なものにこそ意味があると思っています。ロバ先生は、普遍的なものにこそ意味があると思っています。根本のところで正反対になっているので、ロバ先生がわかりやすく言おうと思えば思うほど、女の子たちにはわからなくなっていくのじゃないかと思います。

女の子たちは、若くて元気いっぱいですから、ロバ先生よりも自信満々です。だから、ロバ先生がいうことに、なんらかの意味があるかもしれないなんて、思いつきもしないでしょう。意味がないとも思わないほどに、意味がないわけです。ロバ先生は、しょせん疲れたロバです。勝負になんかなりません。かわいそうですが、しかたないですね。女の子たちに、いじめられないだけましだと思います。くま。
may 15, 2008
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