Tag: くまぶし2008

27.ヒエロファニーをひとことで説明すると

こんばんは。くまぶしです。

自慢ですが、今日は短いですよ。346
前に、ヒエロファニーという言葉をちょっと説明しましたが、これは神さまみたいなものがでてくることという意味です。これを今日は、別の言い方で説明してみようと思います。

普遍的なものが具体的なものとして現れること。

今日はこれでおしまいです。一言でいうのは大事です。だいたいくまぶしは、いつも長すぎです。反省はしてるんです。

ひとことぬしという神さまがいますが、いいこともひとこと、わるいこともひとことです。

それではごきげんよう。くま。
may 14, 2008
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26.ドラマみたぶし

こんばんは。くまぶしです。

今日は晩ごはんにカレーを食べながら、きむたくのドラマ見てました。選挙の話です。

番宣で、マドンナが、its’s cool.といってました。「寒っ!」っていう意味かな?と思いました。冗談です。すいません。

ドラマを見てて、ちょっと思いついたことがあったので書きます。感想とかじゃないです。

ドラマの話とはほとんど関係ないのですが、話の中できむたくが選挙演説して、

「世間には必要な悪があるんだと、子供たちに教えたくはありません」(適当です)

とかいっていました。きむたくは元小学校の先生という設定なので、子供たちに教える云々がでてくるわけです。それはいいのですが、くまぶしはこのセリフから、ちょっと考え事をしたのでそれを書きます。

ふつうに考えると、「必要な悪などというものはないのだ」とか、「あるという人がいるがそれは間違いだ」、もしくは、「あってはならないのだ」とか、そういう意味だろうと思うわけです。

しかしながら、教えたくないなら教えなきゃいいじゃんと思うこともできます。つまり、このセリフをポエティックな表現として理解せずに、文字通りの意味として理解することもできるということです。そうすると、きむたくは政治の演説をしてるはずなのに、なんで子供に悪について教える話をするんだろうか?と思うわけです。高校の国語のテストとかだと、×にされてしまう理解のしかたですが、ある視点からすると、ここで関係ない話をしてるのはきむたくの方だということになるわけです。

そもそも、「教えたくない」ということは、どういう意味なのかしらん? 「本当はあるのだが、僕は子供にはピュアでいてほしいから教えたくない」という意味かもしれません。あるいは、「あるという人はいるが、僕はないと思っているので、子供には、あるという人の意見は教えたくありません」という意味かもしれません。でもそれはちょっとヒステリーな感じがします。「あるという人もいるが、本当はないんだよ」とか、「あるという人もいるが、僕はないとおもうよ」と教えるべきです。このように考えると、だんだんむかついてくるわけです。

こういう風に考えるのは、揚げ足とりですが、「悪」とかそういう概念の話をするときには、ちゃんと定義してからじゃないと、意味がわからなくなることはよくあります。まあ、きむたくのセリフは、政治家になろうとしている人のいうことですから、政治家的専門用語としてはもう定義されているのかもしれません。たぶん、法律で「犯罪」とされているものが「悪」なのでしょう。けれどそれなら、「悪」とかいわずに、「犯罪」といったほうが正確ですから、そういってほしいです。それに、子供に教える云々はどう考えても不必要です。

もしくは、きむたくにとって、本当のところは「悪」はどうでもよくて、単にごめんなさいということをポエティックにいってみただけなのかもしれません。もしくは、子供が好きだということをポエティックにいってみたのかもしれません。

ポエティックな表現には、そのようにいう以外にいいようがないもの(ポエジー)がなくてはいけないと思います。そうした効果が出るように、ポエティックな表現を使うことには意味があります。ポエジーの表現ではない、ポエティックなつもりの表現は、単なる曖昧で無意味な言明でしかないことが多いです。

正確な表現をすべきときに、ポエティックな表現でなにかをいった気になるのはよくないです。ドラマでもニュースでも、そういうポエティックな表現がでてくると、ちょっとうんざりします。人を殺した少年の「心の闇」とかね。

ちょっと、むかついたくまぶしの愚痴でした。それではさようなら。これからカウボーイビバップみます。
may. 12, 2008
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25.阿弥陀さんがやってくる話

こんばんは。よくコメントくれる「まりんご」が、ブログに、牛久にいる大仏さんに会いに行ったことを書いていました。

牛久の大仏さんは、阿弥陀さんですが、遠くから見ると山越阿弥陀に見えます。

山越阿弥陀というのは、来迎図の一種です。来迎図は、阿弥陀さんが家来を引き連れてお迎えにやってくるところを書いた絵ですが、ふつうは雲に乗ってやってきます。山越阿弥陀というのは、巨大な阿弥陀さんが、山の向こうから、歩いてこっちにやってくるところが、ふつうの来迎図とは違って、大迫力です。

20080511195514ひとつめ。京都の禅林寺というお寺にある山越阿弥陀図です。

昔の人は、山越阿弥陀図の手のところに紐をつけて、死にそうになったらその紐をもって死ぬと極楽にいけるぞというようなことをやっていたらしいです。

死にそうな人だったら、迎えに来てくれて感激ですけど、元気な人だったら、逃げ出すかもしれない迫力ですね。

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ふたつめ。愛知の大樹寺山越阿弥陀図です。

こっちを向いているところが迫力ですね。もっとも、斜め向きのやつもあります。

斜めの方が、ふつうの来迎図に近いですが、正面の方が、迫力があってかっこいいです。

この迫力は、クエポニだと思います。やってくるというところが特にそうです。「救うぞ。どーん」という感じがします。大きいところも、ウルトラマンみたいで強そうです。

もっとも、牛久の大仏さんは、スタチューなので動きません。いつもは墓守りをしてらっしゃいます。

こっちから会いに行かなければならないわけです。けれど、成田の方から牛久に向かっていくと、ちょっと歩いているようにも見えるときがあります。歩いたら、すごいだろうなあ。くま。

山越阿弥陀の話は、折口信夫に、「山越しの阿弥陀像の画因」というのがあります。(リンクは青空文庫さんです。)興味のある人はどうぞ。

阿弥陀さんは、他の仏像よりも、働きかける力がダイレクトに表現されているのが多いと思います。

20111111見返り阿弥陀(永観堂)たとえば、みかえり阿弥陀とか。これは、ある坊さんが念仏していたら、阿弥陀さんが突然あるきだしたので、お坊さんがびっくりして立ちつくしていたら、振り返って、「おそい!」といってるところだそうです。急いで救いにいこうとしてるのに、坊さんがグズだったから怒ってるわけです。

なかなかすてきですね。くま。
may 11, 2008
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24.さめ

こんばんは。くまぶしです。

最近、ちょっと硬い話だったので、今日はだらだら書きます。

sameまず、さっきかっぱと見たディープブルーという映画の絵です。くまぶしが襲われているところです。

おばかなお話でした。くまぶしは、逃げようとしているサメをなんで殺さなければならないのか、わかりませんでした。

逃がしても、かしこくマグロを狩ったりするだけじゃないかと思います。

最後にサメ爆弾は、ちょっとかわいそうでした。

まあアメリカ人らしい話ではあります。

それはともかく。

昨日書いたやつに、コメントもらいました。読む人いたんですねって感じです。くま。

ひろみちゃんは、ちっともわからんかったとコメントしてくれました。ありがとー。別にわからんでもいいのです。くまのいうことですから。だいたい、動物のいうことはわからんもんです。うちのもっちりのいうことも、だいたいわかりません。それに、わからんというのも、考え方によったらわかることのひとつです。

ただ、星の王子さまは別にむずかしい話じゃないです。難しくしたのはくまぶしですので、誤解のないように。難しくないので、できたら読んでみてください。羊もでてきます。バオバブの木もでてきます。

あと、『人間の土地』という本は、不動産屋の話ではありません。これも誤解のないように。新潮文庫だと、宮崎駿が表紙を書いてます。こっちはちょっと、ひろみちゃんには「難しい」かもしれません。ばかにしてるわけじゃありません。世の中には、『星の王子さま』の方が難しいと思う人もたくさんいるので、そういう人には『人間の土地』の方がおすすめです。ひろみちゃんは、『星の王子さま』むきだと思うわけです。

ひろみちゃんは、フェレット飼ってます。モモとジョンといいますが、こいつらちょっとげきれつです。けもけも獣(柔)なので、テイムされまくりです。ばかすぎですが、要するに、くまぶしの負けです。ごめんなさい。さわりたいです。

もう一人は、ゆめさんでした。ゆめさんは、星の王子さまを読んだことがないそうですが、また読みたいといっています。前世で読んだのかしら? すいません冗談です。あげあしとっただけです。怒らないでください。たぶん、あらすじは知っているけど、本は読んだことがないという意味でしょう。ぜひお子さんによんであげてください。

もしかしたら、アニメを見てらしたのかもしれません。あのアニメは、実をいうと、全然違う話です。くまぶしも子供のころに見ていましたが、本を先に読んでたので、なんじゃこりゃと思ってました。けど、終わりの歌の最後のところで、「ほしのーおーじさまー。じさまー。じさまー。」とエコーがかかっているところは大好きでした。妹と一緒に、自分エコーで歌ってました。

ゆめさんは、「こんなに奥が深い物語だとは知りませんでした」とコメントしてくれました。くまぶしの話で、奥が深かったかどうかはわかりませんが、深いのが偉いというのは偏見だと思います。ゆめさんに文句をいってるわけじゃなくて、一般にそういう偏見があるということです。特に頭のいい人がそうです。お話はただのお話であって、論述とか説教とかじゃないということです。

お話でいちばん大事なのは、お話の意味じゃなくて、そのお話がおもしろいか、感動的かどうかというところです。だから、お話自体は、簡単な方が偉いです。隠された意味がないとおもしろくないお話は、お話としては二流だと思います。

まあとにかく、くまぶしは、ゆめさんの文が好きです。人柄が出てると思います。どうぞよろしく。それではまたー。

くま。
may 9, 2008
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23.星の王子さまにおける「知ること」

こんばんは。くまぶしです。
こないだ、くまぶしのおばあさんが、86歳の誕生日だったので、お祝いしてきましたぶし。
そのとき、実家に、子供のころに読んでた星の王子さまがあったので持ってきました。くまぶしのうちにもあったはずなんですが、英語版とフランス語版はあるのに、日本語版だけどっかにいってしまってて、たまに見たいと思ってもみつからなくて不便だったのです。(フランス語版は、読めないくせに持ってるだけ。)

サン=テグチュペリは、かなり好きな作家です。「人間の土地」はすごく感動的です。人間の土地 (新潮文庫)。これは堀口大学の訳もいいんだと思います。彼が言っていることは、くま宗教学的にもだいぶよいのですが、ちょっとヒューマニスティックな気もします。それはともかく、とにかく文が好きです。

それで今日、ひさしぶりに読んだのだけど、昨日書いたことと関係があると思ったので、今日はそのことを書くぶし。

王子さまの考えだと、昨日の話で言うところの、普遍的にする方の「知ること」は、「おとなみたい」な知り方で、これは本当に知ることではありません。

たとえば地理学者は、「一ばんだいじなこと」を研究するといいますが、彼にとって一番大事なことというのは、「いつまでもかわらないこと」です。当然、彼から見て、個人的見解にすぎないと見えるものは、「はかないもの」で、重要ではないことになります。つまり、地理学者にとっては、具体的なもの(現象)の背後にある普遍的なものこそが重要で、知る価値があるものだというわけです。

ちょっと脱線します。めんどくさい人はとばしてください。

くまぶし的にいうと、王子さまがおとなと思うのは、簡単にいうと、モナド的存在論において生きることです。王子さまの考えは、一見すると、「自分にとっての意味が重要だ」ということのようですが、それだけだったら、王子さまも、王さまも、うぬぼれ男も、呑んだくれはちょっと違いますが、実業屋も、みんなそうなわけです。王子さまと大人たちが違うのは、「自分にとっての意味」というときの、「自分」が、クエポニであるかモナドであるかという点です。ちなみに、呑んだくれは、モナドであることがいやだと思って酒を飲むわけです。しかしながら、飲みたくて飲むのではなくて、モナドであることを忘れるために飲むという点がモナド的です。

これら大人たちと王子さまの違いを、王子さまの言葉でいうと、「あんたたちのためには、死ぬ気になんかなれないよ」というものには、意味を見出さないということです。実業家にとって、星は自分の財産として意味がありますが、それは彼の所有物であるかぎりにおいて意味があるということです。価値を支える根拠は彼のモナドにあります。だから、彼は、星のためには死ぬ気にはならないわけです。彼が死んだら、星の意味も死ぬからです。つまり、王子さまからすると、「本当は大事と思っていないものを大事と思いこんでる態度」ということになります。

ガス灯の点灯夫と地理学者は、ちょっと違います。この二人は、自分にとっての意味よりも、客観的意味の方が大事だと思っています。彼らはひょっとすると、ガス灯をつけたり消したりするという「命令」や、学問のために、死ぬかもしれません。その意味では、王子さまは、その他の大人たちに対するよりも同情的です。この二人は、普遍的価値に従属するモナドであるという意味で、単なるモナドではないからです。王子さまは点灯夫について、つぎのように考えます。

あの男は、王さまからも、うぬぼれ男からも、呑み助からも、実業屋からも、けいべつされそうだ。でも、ぼくにこっけいに見えないひとといったら、あのひときりだ。それも、あのひとが、じぶんのことでなく、ほかのことを考えているからだろう。

この、「ほかのこと」というのが、モナドとしての自分よりも価値のある何かということになります。ただし、普遍的価値に従属するモナドは、単なるモナドではないといいながら、やはりモナドであってクエポニではありません。もっとも、「命令」に従属して死んでしまえばクエポニになりますが、これは自爆テロと同じやり方のクエポニで、別に悪いという気はないですが、永遠回帰のクエポニではなくて、一回きりのクエポニです。一回きりで決着をつけてしまおうと考えるところが、ちょっとくまぶしの趣味にはあいません。このことはそのうち書きます。

閑話休題。王子さまにおける、二種類の「知ること」についてだけ、かんたんに書きます。

まず、王子さまは、小惑星B612という小さい星にいました。この小さな星は、王子さまの世界です。この星に、あるとき花が咲きました。王子さまは〈ああ、美しい花だ〉と思って、「きれいだなあ!」といいました。そしたら、花はけんそんな花ではなかったので、自分の美しさをはなにかけて、王子さまを苦しめました。結局、それが原因で、王子さまは旅にでるわけです。

王子さまは、後で振り返って、

「人間は、花のいうことなんていいかげんにきいていればいいんだから。花はながめるものだよ。においをかぐものだよ。ぼくの花は、ぼくの星をいいにおいにしてたけど、ぼくは、すこしもたのしくなかった。(中略) ぼくは、あの時、なんにもわからなかったんだよ。あの花のいうことなんか、とりあげずに、することで品定めしなけりゃあ、いけなかったんだ。ぼくは、あの花のおかげで、いいにおいにつつまれていた。明るい光の中にいた。だから、ぼくは、どんなことになっても、花から逃げたりしちゃいけなかったんだ。ずるそうなふるまいはしているけど、根は、やさしいんだということをくみとらなけりゃいけなかったんだ。花のすることったら、ほんとにとんちんかんなんだから。だけど、ぼくは、あんまり小さかったから、あの花を愛するってことが、わからなかったんだ」

といっています。花のいうことじゃなくて、することで品定めするというのは、花は、その働きかける力において理解されなければならないということ、つまり、クエポニ存在として理解されなければならないということです。(クエポニというのは、ナワトル語で、そもそも花が開くという意味です。)

それはそうなのですが、クエポニ存在というのは、前にいったように、普通は、モナド存在の殻を破る力の体験として可能になるものです。「知ること」の場合でいえば、具体的に知ることが大事なのだとしても、具体的に知るというのは、ある普遍的理解と比べて相対的に具体的理解ということだから、なんらかの相対的に普遍的理解がないところには、具体的理解もありえないわけです。これだけが理由ではないでしょうが、王子さまが旅に出なければならなかった理由のひとつは、ここにあると思います。

王子さまの場合、彼がバラの花のクエポニ存在としての具体的意味を知ったのは、地球に来て、たくさんのバラが咲いているのを見た後でした。地球でたくさんのバラを見たとき、王子さまはびっくりしました。引用です。

王子さまは、バラの花をながめました。花がみな、遠くに残してきた花に似ているのです。
「あんたたち、だれ?」と、王子さまは、びっくりしてききました。
「あたくしたち、バラの花ですわ」と、バラの花たちがいいました。
「ああ、そうか・・・・」
そういった王子さまは、たいへんさびしい気もちになりました。考えると、遠くに残してきた花は、じぶんのような花は、世界のどこにもない、といったものでした。それだのに、どうでしょう。見ると、たった一つの庭に、そっくりそのままの花が、五千ほどもあるのです。王子さまは考えました。
「もし、あの花が、このありさまを見たら、さぞこまるだろう・・・・やたらせきをして、ひとに笑われまいと、死んだふりをするだろう。そしたら、ぼくは、あの花をかいほうするふりをしなければならなくなるだろう。だって、そうしなかったら、ぼくをひどいめにあわそうと思って、ほんとうに死んでしまうだろう・・・・・」
それから、王子さまは、また、こうも考えました。
「ぼくは、この世に、たった一つという、めずらしい花を持ってるつもりだった。ところが、じつは、あたりまえのバラの花を、一つ持ってるきりだった。あれと、ひざの高さしかない三つの火山――火山も一つは、どうかすると、いつまでも火をふかないかもしれない――ぼくはこれじゃ、えらい王さまなんかになれようがない・・・・」
王子さまは、草の上につっぷして泣きました。

引用終わり。ここで王子さまは、花の普遍的意味(「バラの花というものだ」ということ)を知って、ひとまず悲しくなりました。それまでは、ただの花で唯一の花だったのが、多くのバラの花の一つにすぎないと知ったわけです。
その後、王子さまはキツネと会って、飼いならす(テイム)ことと仲良くなることの話を聞きました。つまり、普遍的意味から出発して、具体的にすることによる「知ること」の方法を学んだわけです。それで、もう一度たくさんのバラたちに会いに行って、次のようにいうわけです。引用です。

「あんたたち、ぼくのバラの花とは、まるっきりちがうよ。それじゃ、ただ咲いているだけじゃないか。だあれも、あんたたちとは仲よくしなかったし、あんたたちのほうでも、だれとも仲よくしなかったんだからね。ぼくがはじめて出くわした時分のキツネとおんなじさ。あのキツネは、はじめ、十万ものキツネとおんなじだった。だけど、いまじゃ、もう、ぼくの友だちになってるんだから、この世に一ぴきしかいないキツネなんだよ」
そういわれて、バラの花たちは、たいそうきまりわるがりました。
「あんたたちは美しいけど、ただ咲いているだけなんだね。あんたたちのためには、死ぬ気になんかなれないよ。そりゃ、ぼくのバラの花も、なんでもなく、そばを通ってゆく人が見たら、あんたたちとおんなじ花だと思うかもしれない。だけど、あの一輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ。だって、ぼくが水をかけた花なんだからね。覆いガラスもかけてやったんだからね。ついたてで、風にあたらないようにしてやったんだからね。・・・・・不平もきいてやったし、じまん話もきいてやったし、だまっているならいるで、時には、どうしたのだろうと、きき耳をたててやった花なんだからね。僕のものになった花なんだからね。」

こう言ってから、王子さまは自分の星に帰るわけです。ここで王子さまは、「僕のものになった花」というわけですが、この場合の「僕」というのが、旅に出る前の王子さまにはなかったものなわけです。
つまり、モナドとしての「僕」です。これがないから、王子さまは花のいいなりになるしかなかったのです。

「知ること」でいうと、王子さまは、無自覚にそこにいた具体的意味の世界から、普遍的意味の世界へと旅することによって、はじめて具体的意味の世界を「知る」ことができるようになったということです。

これは永遠回帰的運動です。創世紀の知恵の実のパラドックス、楽園追放の話として描かれているのも同じ運動です。

ようは、一般に、「自我の確立」とかいわれることかもしれませんが、ちょっと違う気もします。どうしてかというと、王子さまにとって「僕」ということは、花をクエポニ存在として理解するための前提としてのみ重要だからです。いいかえると、否定されるべきものとしてのみ重要だということです。

けれど、「自我の確立」といわれるものも、結局はそういうことをいっているのかもしれません。くまぶしにはよくわかりません。
単に、モナドとして自立することが大事なのだという「自我の確立」もけっこうあるような気がします。
そういうのは、くまぶしにとっては鬱陶しい話なんですが、でも、ひとまずそういう自我を確立しなかったら、先には進めないわけで、だから一概に悪いとも言えないわけですね。

may 8, 2008
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22.「知ること」の話

こんにちは。くまぶしだぶし。今日はお休みだったので、だらだらしてました。実は明日もお休みです。

もちろんだらだらしますとも。

今日はだらだらしながら、知ることについてだらだら考えてみました。

何かを知るというときには、その何かを、具体的にすることによって知る場合と、普遍的にすることによって知る場合とがあります。もっとも実際には、両方の知り方が混ざってるとは思いますが、おおざっぱにいえば、「知る」というアクションには、二つの方向性があるわけです。

たとえば、またおじいさんで恐縮ですが、あるおじいさんと知り合いになったとします。このとき、いちばん最初に、「おじいさんだな」と思ったとします。これは、目の前にいる人を、おじいさんというカテゴリーにあてはめているわけですから、普遍的にすることによって知ることです。

それから、このおじいさんの名前が吉住清衛門だと知ったとします。これは、おじいさんから吉住清衛門になるわけですから、具体的にすることによって知る場合です。

それから、清衛門さんは「怒りっぽい人」だと知ったとします。たぶん、怒っているのを見たのでしょう。怒っているのを見るというのは、具体的にいうと、清衛門が赤くなってどなったりするのを見たりすることです。つまり、「怒っている清衛門」という具体的な体験から、「怒りっぽい人」というカテゴリーが導かれるわけです。(哲学っぽくいうと、「清衛門が怒った」と言うこと自体が、具体的なものを普遍的なものにすることだともいえます。)

さて、知ることというのは、「知らない」という状態から、「知る」という体験がなされることだといってみます。「知る」体験というのは、「なるほど」と思うことです。

「知る」以前は「知らない」といっても、ふつうは、後からそう言えるようになるだけのことです。つまり、知った後になってから、「実は今までは知らなかったのだ」ということがわかるようになるのが一般的で、まったく知らなかったものを知るようになることはまれです。

そういうわけで、「最初にどのようなものとして知っていたか」によって、次の知り方が決まってくるわけです。つまり、あるものを、もっぱらその普遍的側面において知っていたなら、そのものの具体的側面を知ることが、「知る」という体験になるだろうし、逆に、主に具体的側面において知っていたなら、そのものの普遍的意味を知ることが、知るという体験になるわけです。

ちょっと単純化しすぎたかもしれません。具体的と普遍的といいましたが、この二つは相対的な区別にすぎません。たとえば、「日本人」というカテゴリーは、「人間」とか「アジア人」というカテゴリーよりは具体的ですが、「福井県人」というカテゴリーよりは普遍的です。どう使うかは、使う人の勝手です。だから、なにが普遍的でなにが具体的かは、後になって決まるともいえます。

その人が「なるほど」と思った理解の形と比べて、それ以前の知り方は、相対的に普遍的であるか具体的であるかのどちらかなわけです。たとえば、自分では、これこそが具体的な理解だと思っている理解があったとします。そのあと、別の理解の仕方を発見して、「なるほど」と思ったとします。それで、後の方の理解の方が具体的だと思ったなら、それ以前の理解のしかたは、自分で思っていたのとは違って、相対的に普遍的だったということになります。逆に、後の方の理解が普遍的だと思ったなら、最初の理解は、自分が思っていた通り、相対的に具体的だったということになります。

ちょっとこんがらがってきました。別に、混乱させようと思っているわけではありません。

なにかを知ったり、なるほどと思うことは、このように、こんがらがったしくみになっているのだと思います。

今日はこれでやめます。わりと短く終わったと思ったら、そうでもなかったぶしね。

62895えへ。くま。
may 6, 2008
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21.ゴールデンウィーク

こんにちは。くまぶしです62895

黄金週間なので、お休みの方が多いでしょうが、くまぶしは、ふだんくまくましている分、みんながお休みの日はちょっと忙しいです。

例によって、山の焼肉屋に行ってます。まだやめてなかったのです。山に遊びに来た人たちが、肉を食べにたくさんやってくるのです。

くまぶしは、昨日も今日も、お客に、どんな肉が食いたいか聞いたり、肉を運んだり、鉄板を下げたり、机を拭いたりしてました。つかれたくま。

いちばん疲れるのは、鉄板を持って階段を登らなければならないことです。古い民家を改造した店なので、階段の段が高いのです。くまぶしは、身長が143センチなので、のぼるだけでも大変です。鉄板は、たくさん持つと重いです。エレベーターをつけるべきだと思います。

わざと転んだら社長も考えるかなと思うのですが、階段がすごく急なので、ちょっと怖くて転べません。

でも、もうすぐやめてやると思っているので、他の肉運び係のために、辞める前に、社長に言ってやろうと思っています。くま。

かっぱも、今日は仕事に行きました。かっぱの仕事は、木賃宿で、客から金をもらって、かわりに鍵を渡す仕事です。夕方の6時から朝の9時までで、15時間労働です。

帰ってくると下痢をします。かっぱはわりとストレスに弱いです。

日当8000円ですので、時給533円です。かっぱなので低賃金です。

くまぶしかっぱも仕事があるときは、かっぱが帰ってきたころに、くまぶしが仕事に行って、くまぶしが帰ってくるころにかっぱが仕事に行くので、すれ違いになります。

前にテレビで、ニューヨークの出稼ぎ中国人の暮らしを見たことがあるのですが、1つの部屋に6人で住んで、三交代で二人づつ寝てました。そんな感じです。くま。

くまぶしは、明日は仕事ですが、それからちょっと休みなのでうれしいです。

それではさようなら。
may 4, 2008
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20.のびる

こんにちは。くまぶしだぶし。

おととい、かっぱが食いたいというので、家のうらに生えてるのびるをとってやりました。

nobiruかっぱは、子供のころから、のびるが大好物だったそうです。

くまぶしは、子供のころは、辛いのであんまりすきじゃなかったのですが、昨日の夜のおかずに、味噌をつけて食ってみたら、けっこううまいぶしと思いました。

だけど、くまぶしは、ネギ系のものは、生で食べるとたいていおなかが痛くなるので、二つだけ食べてやめときました。

かっぱは、うまいうまいといって、ばくばくかっぱぐいしてました。

今朝、くまぶしが起きたら、かっぱは便所にこもって泣いていました。夜中から腹が痛くなって、下痢が止まらないそうです。ばかです。

ストッパ下痢止めを飲ませときました。

みなさんも、のびるの食いすぎには注意しましょう。くま。
may 2, 2008
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19.くま宗教学の存在論③

こんにちは。くまぶしです。

今日は、前回述べた二つの存在論の関係について書きます。これは人間存在の定義でもあるので、人間論でもあるぶし。存在論の話は、一応これで終わりです。やったー。今日はついでに、永遠回帰の話もちょっとします。

くま宗教学では、人間を、クエポニ的であり、かつ、モナド的であるものとして理解します。クエポニ存在論と、モナド存在論という二つの存在様態間の循環として人間存在を定義するわけです。要は、ダブルスタンダードということだぶしね。

クエポニというのは、花が咲くという意味です。ナワトル語というメキシコの原住民の言葉です。花は咲くことによってはじめて存在するというこころです。

まず、クエポニ存在とモナド存在の関係について、簡単に書きます。

クエポニ存在というのは、力を発するもの、働きかけるものです。
クエポニ存在を体験するということは、力を受けること、働きかけられることです。クエポニ的存在様態は、いいかえると、コミュニケーション状態のことです。

たとえば、何かを食べるということは、コミュニケーションです。食べられるものは、まず初めは、食べる人とは別のものとして存在します。つまり、食べる人と食べられるものは互いにモナド的関係にあります。食べ物を見て、おいしそうと思ったり、食べたいと思うことは、コミュニケーションへの欲求(誘惑)です。これは、モナドによる、非モナド的状態(クエポニ状態)への欲求といえます。

食べものを口に入れるとき、食べる人のモナドに窓が開きます。モナドロジー的には、アブノーマルな状態のモナドになるわけです。窓が開いたモナドはモナドではないわけですから。インデペンデントじゃないということです。

それで、口に入れたものを噛みます。噛むことは、モナドとしての食べ物のモナド性(ATフィールド)を破ることです。すると味がします。というか、そうしないと味がしません。味はうまいです。味というのは、食べてみなければわからないものです。味を知るためには、食べ物のATフィールドを破らなければなりませんし、同時に、自分のATフィールドにも穴を開けなければ、食べることはできません。そういうわけで、食べることはコミュニケーションです。

もっとも、まだ食べ物が口の中にあるときは、食べ物と食べている人は別のものといえるかもしれません。吐き出すこともできるわけですから。けれど、食べ物を飲み込んでしまうと、普通は、食べ物と食べた人は別のものではなくなります。完全に消化したら、もう完全に一体です。これは言い換えると、食べた人のモナドが再び閉じたということです。(うんちをするときまた開きますが。)

コミュニケーションは、このように、モナドに穴を開けたり、モナドの殻を破壊しないと成り立ちません。そして、食べ物がそうであるように、食べてしまったものはなくなってしまいます。なくなってしまうというのは、もちろん、モナド的に存在しなくなるという意味です。

つまり、一言でいうと、知るためには相手と自分のモナドに窓を開けなければならない、しかし、穴をあけられたモナドは死ぬ。ということになります。←これ、なんかバタイユっぽい言い方ですね。

食べ物の例の場合は、食べられる方は大変ですけど、食べる人のモナドは、たいしたリスクを冒していません。しかしながら、常にそうだとは限りません。たとえば、神さまに会うということはリスキーです。神さまとのコミュニケーションでは、人間が食べ物の役割を担うこともあります。けれど、アイヌの場合のように、神さまが食べ物の役割をすることもよくあることです。というか、食べ物はふつう神さまでしたね。

ちょっと脱線しました。とにかく、クエポニ存在というのは、人間の場合に限っていえば、まずはじめにモナド的存在であることから出発して、モナドに穴があいている状態として定義づけられます。自己同一性を失わない限り(つまり死なない限り)は、この穴は開きっぱなしということはありません。そういうわけで、クエポニ存在というのは、持続することができません。持続するものは常にモナドです。人間的意味でのクエポニ存在とは、普通は、持続するモナドに時たま穴が開く運動として記述できます。

人間的クエポニ存在は、そのクエポニにおいてモナドとして死なない限り、必ずまたモナド的存在に戻ってきます。ごく簡単にいうと、これを永遠回帰といいます。

永遠回帰という仕組みは、モナド的存在論に重心をおいて考えると、ニヒルな感じになります。クエポニ(非モナド状態)といったって、結局モナドに戻ってくるんじゃないかというわけです。コミュニケーションといったって、コミュニケートした気になっているだけだというわけです。確かに、事後的に見たらそういうことになるのでしょう。
で、ニヒルな気分になって、醒めないために薬をやりつづけて、オーバードーズで死んじゃったりするわけですね。
(あるいは、それをいいことであるかのように思ってなのかしりませんけど、「モナドを活性化させるためにクエポニが必要なのだ」というような言い方をする人もいます。これはジラールとかですかね。無用の用みたいな言い方で回収しようとする態度。)

けれど、クエポニ存在の方に重心をおくと、そうでもありません。クエポニするには、モナドは必要だというだけのことです。クエポニが持続しなければならないと考えるのは、クエポニをモナド化しようとすることで、そういう考えは、非常にクエポニ的ではありません。

ニーチェというくまが、むかしこういいました。「踊るには、何かふまれるもの、踏みすてられるものがなくてはなるまい?」まったくそのとおりだと思います。(たぶんツァラトゥストラ)

最後に、クエポニ的存在論に重心を移して、永遠回帰を記述します。

クエポニ的存在論を中心に永遠回帰の運動を見てみると、クエポニ的存在とは、モナドの発生だといえると思います。どうしてかというと、死んでしまった徳三さんの場合のように、くまぶしを悲しませるという働きが、逆に、「徳三」という存在を創造するからです。この新しく生まれた徳三は、生きている時のモナド的徳三と比較してみればクエポニ存在でしょうが、しかしながら、「徳三」という名前をもっているという意味では、なんらかの自己同一性を依然として持っているわけです。

つまり、クエポニ→モナド→クエポニという循環は、クエポニによってモナドが創造され、そのモナドを足場にして、つまり穴を開ける対象として、次のクエポニが可能になるという仕組みだと思います。

さて、以上でくま宗教学における存在論と人間論について、だいたい説明しました。わかりにくかったと思いますが、しかたがないことだったと思います。どうしてかというと、具体的な例をださずに、理論的な説明しかしなかったからです。

けれど、今は一応、理論的な説明をしたので、これからはもうすこし、具体的な話をすることができると思います。

最後に、「永遠回帰のくまぶし」というタイトルについて話します。

「永遠回帰のくまぶし」というタイトルには、実践的意味と、理論的意味があります。つまり、事実としてくまぶしが永遠回帰することと、永遠回帰について理論的に説明することとです。

事実としてくまぶしが永遠回帰するというのは、くまぶしが心を動かされたことを書くという意味です。これは、くまぶしの生活の話とか、くまぶしが面白いと思った神話の話とか、神さまの話とか、くまぶしが書く絵のことです。書くことは、動かされた心を固定化すること、モナド化することです。そういうわけで、クエポニ状態からモナド状態への永遠回帰なわけです。これは、書いたくまぶしが、それを書いたくまとして、モナドに回帰するということでもあります。書くことは、主体であることからの脱出です。しかし同時に、書いたという事実から、それを書いたくまとして、再びくまぶしが定義されます。これが書くことにおける永遠回帰です。

一方、永遠回帰の理論的意味というのは、今まで書いたみたいに、永遠回帰について理論的に説明するということです。これは、くま宗教学の理論的側面です。うざいだろうから、これからは必要最低限にしたいと思います。けれど、くまぶしにとっては、こういう理論があると、いろいろ説明がしやすくなるのです。だからくまぶしの都合で、ときどきはやると思います。

たこ博士の具合がまた悪くなったらしいので、今から食べ物と飲み物を届けに行ってきますぶし。

それではごきげんよう。さようならくま。
may 1, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

18.くま宗教学の存在論②

こんにちは。くまぶしです。やっと元気になりました。

今日は、天気がよかったので、葉っぱを植えました。それから、かっぱにのびるをとってやりました。

かっぱの好物なのです。味噌をつけて食います。くまぶしはあまり好きじゃありません。

今日はこないだの続きですが、あわよくば「永遠回帰のくまぶし」というタイトルの意味まで説明できたらいいなと思います。

こないだの徳三さんの話では、死んでしまうと会えなくなる徳三さんと、死んでしまってからもくまぶしを悲しがらせたりする徳三さんと、二つの種類の徳三さんがいるという話でした。これが徳三における二つの存在様態です。

死んでしまうと会えなくなる徳三のほうを、自己同一的徳三ということにします。

難しい言い方だけど、言ってることは簡単だぶしよ。ようするに、徳三は他のものではないから徳三だということです。徳三=徳三で、かつ、徳三≠非徳三ということだぶし。

自己同一的徳三は、体に象徴される空間を占めていて、その徳三空間は、他の物の侵入を許さない、つまり、徳三の内部です。自己同一的存在というのは、このように外部に対して内部をもつことで成り立つぶし。

近代の人間論は、だいたいこういう自己同一的存在論にもとづいているぶし。徳三の権利というのは、徳三空間を侵害されない権利で、人殺しやレイプは、他の人の自己同一的空間に対する侵害だから悪いこととされるわけです。あと、財産という概念も、自己同一的存在が所有する財産で、彼自身である排他的空間の内部にあるから、他の人が手を出してはいけないわけです。

まあ、権利の話とかは、自己同一性の根本ではないので、ここではどうでもいいです。いま問題なのは、権利を持つとされる主体の方です。

体をもった存在の場合、一応、外側にある体が自己同一性を区切る境界になります。シンジ君がエヴァの中でなくしてしまったやつです。自我境界線でしたっけ? 自我が崩壊しないためには、ある程度硬い殻が必要なわけです。だから、徳三さんの体に象徴される区切りは、徳三としての自己同一性を保つために必要な、ATフィールドみたいなものだといえます。カオル君は「心の壁」といっていましたが、そういうものとして機能しないといけないわけです。

外に対して内側をつくって、そこに自己同一性を確保するわけです。日常的には、「存在する」という言葉は、そういう自己同一性をもったものを指して使います。こういう自己同一的存在は、モナド(独立した、それ以上に分割できない粒のこと)であると考えられます。

もっとも、自己同一性を区切るとはいっても、実際に生きている徳三さんは、息を吸ったり吐いたり、ご飯を食べたりうんちをしたり、少しですが話をしたりもするわけですから、完全に閉じているわけではありません。また、徳三さんの孫のたかしくんは、明らかに徳三さんの自己同一性の内側(つまり彼の一部)ですから、徳三さんの体が徳三さんの自己同一性の境界だというのは、一応の目安にすぎません。

ライプニッツさんは、モナド的存在論一本やりで押し通したみたいですが、普通の人は、なかなかそういうわけにはいきません。それで、モナド的存在論を公式見解として、非モナド的存在様態は、プライベートな領域だけに閉じ込めておくわけです。

人前でうんちをすることは、恥ずかしいことです。これは、モナド的に閉じているべき存在の穴があからさまになるからです。同様に、食べることも基本的には恥ずかしいことです。ほかにもいろいろあります。ようするに、主体においてコントロールされない出来事は、主体にとって弱みになります。過度な愛情とか、感情の発露とかもそうです。

この恥ずかしさを利用して、親しさを演出することができます。男の人はつれしょんするし、女の人も便所でおしゃべりします。一緒に御飯を食べることは、仲良しのしるしです。趣味のグループも、ちょっと犯罪組織と似ています。マニアというのは、ギリシャ語では「憑かれること」という意味です。デーモンが憑いて、それであやつられているわけです。そういう状態は、モナドにとっては弱みなわけです。それで、この弱みを媒介にして、他の存在と融合するのがコミュニケーション(交流)です。

コミュニケーションというのは、自分と相手のATフィールドを切り裂かないと成り立ちません。だから、わりと暴力的です。ちなみに、モナド論では、モナドには窓がないので、コミュニケーションは不可能だとされています。

ちょっと話がずれたような気がします。ごめんなさいぶし。

とにかく、くま宗教学では、モナド的存在論とは別に、もう一つの存在論があります。名前がないと不便なので、とりあえずくまぶしは、クエポニ存在論とよんでいます。理由はそのうち話します。

自己同一的存在論では、存在するものとは、不可侵の空間を持つ主体と定義できますが、これに対して、クエポニ存在論では、働きかける力を基準にして、存在と非存在を定義します。

死んでしまった徳三さんの人格の場合は、クエポニ存在論の例です。死んでしまった徳三さんがくまぶしをさびしがらせるというのは、比喩的な表現ではありません。死んでしまった徳三さんは、モナド的存在としてはもはや存在していませんが、今でもくまぶしに働きかけるという意味では存在しているわけです。

モナド的存在論とクエポニ存在論とでは、主体についてのとらえ方が違います。モナド的存在論では、主体がまず先に措提(「ある」ものとすること)されて、その主体が、なんらかのアクションをするという順番で考えられますが、クエポニ存在論では、まずはじめに力の体験があって、その力の発信源として、後から主体の存在が認識(発見・創造)されるわけです。

死んでしまってもういないと思っていた徳三さんが、実はくまぶしを悲しがらせるという行為において、「いる」と認識される(発見される、あるいは創造される)わけです。

そういうわけで、クエポニ存在論は、上で述べたような意味でのコミュニケーションに特化した存在論です。前に、くまぶしと関係ないどっかのおじいさんが死んでも、くまぶしは悲しくならないといいましたが、これは、クエポニ存在論的見地からすると、そのおじいさんはそもそも存在していなかったからだといえます。このようにいうと、なんだか自己中心的みたいな感じがしますが、そうではありません。自己中心的というときの自己というのは、モナド的自己(初めからある自己)だからです。

クエポニ存在論では、死んでしまった徳三さんが、くまぶしの悲しみにおいて存在するようになるわけですが、それと同時に、くまぶしもまた、その悲しみにおいて、はじめて存在するようになるのです。悲しまないくまぶしは、モナド的存在論においては存在していましたが、クエポニ存在論的には存在していなかったというわけです。(ここ、たいへん重要。)

神さまがいるというのは、クエポニ存在論的にいるということです。モナド存在論的に神さまがいるというのは、くまぶしは疑わしいことだと思っています。それどころか、神さまに対して失礼なことだと思います。

また、長くなってしまいました。ごめんなさい。もう一回で、とりあえず終われると思います。永遠回帰のことは次回に話します。おもしろくないかもしれませんが、もう一回だけがまんしてね。くま。ぶし。
Apr. 30, 2008
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