前回書いた話などは、結構オリジナルなことを言っているように思うのですが、オリジナリティというのは相対的なもので、基本的には他の人が言っていないようなことを言うのがオリジナリティなわけですから、要するに皆さんにとってはあまり聞いたことのないたぐいの話であるというわけで、確かに自分の書いたのを客観的に読んでみると、そもそもなんの話をしているのかわからないだろうなあと、自分でも思います。
しかしながら、わたしは常にわたしの考えやら物の見方やらでできた世界のなかにいて、むしろそういう世界がわたしにとっては標準になってしまっているので(もう25年くらい、だいたい同じところにいる)、わたしの実感としてはそんなにオリジナルなことを言っているつもりはないのです。
例えば、以下は2008年に書いた記事なのでもう12年前になるわけですが、読んでみたら結構面白かったんですけど、こないだの記事と同じ話をしていて、書いたことをあんまり覚えていなかった文にも同じことが書いてあるのを見ると、やっぱりわたしの世界では、だいぶ前から実際にそういうことになっているんだろうなあと思います。(ロバ先生についてはこちらを参照。)
こちらの記事では、例えば「実在」について、ロバ先生は概念によって「実在」を抽象的に把握するのに対して、女の子たちは存在として「実在」を具体的にとらえている、といってますが、これはまんま前回の記事での批評的理解と体験的理解のことですね。
もっとも、さすがに昔と全く同じというわけではなくて、前回の記事では、概念的(知的)にリアリティをとらえる際のダイナミズムについて言及しているところはちょっと進化しているような気がします。
アップデートしたように思われるところを、ちょっと図示してみます。
- 「聖なるもの」を「意味」において「明晰に知る」体験(知的了解、すなわち、概念におけるヒエロファニー)
- 明晰に知ることによって、「聖なるもの」を、より身近に、「常にあるもの」として把握することができるようになる。(「体験」への接近)
- 「聖なるもの」を「常にあるもの」とみなすことによって、「俗なるもの」に変えてしまう。(体験としてのリアリティ(到来の体験)が減る。)(「体験」からの乖離)(もちろん②と③はコインの両面で、同じことを違う側面から言ってるだけです。)
- 内容的に新しい「意味」(とか、深化した「意味」とか)の開示におけるヒエロファニーの体験。つまり「古い意味の再解釈」とか、「新しい意味の発見」におけるクリエイティブな体験。(新しい形での「体験」への接近と乖離。以下繰り返し。)
箇条書きにするとこんな感じです。
意味の深化とか、変容が、それぞれコスモゴニックな体験(クリエイティブな体験)の契機になっているわけですが、これは永遠回帰の神話的には、毎年繰り返されるお祭りにおけるクリエイティブな体験(アルケタイプの体験)と同じです。違いは、ヒエロファニーにおける「俗なるもの」の要素(概念の概念的意味)が、変化するかしないかというところです。
最近わたしは、「知的に了解する」ということを、「知的な了解の体験」として、「体験的了解」の一種として理解するようになっていますが、その方が知的了解の特殊性(知的な次元)と、了解としての普遍性(体験の次元)を特徴づけやすくなったのではないかなと思います。
一方、体験的了解の方は、2008年の時点では、体験的理解が根本的なのはもちろんだけど、自分が体験していることを知的に了解できたほうがよりよいのではないですか、と勧めているような感じですけど、その人にとって存在の体験的な把握が実際にあるのなら、そのことについて知的に了解していなくてもそれほど問題ではないと思っているようです。で、これはまあ、ざっくりいえば今でもそう思っていますが、「体験的了解」といっても、それはやっぱり言語的な体験なんだと思うようになったところが少し変わったかと思います。つまり、言語的体験である以上は、ナマな具体性そのものではなく、(もちろん昔もナマな具体的体験が可能だと思っていたわけではないですが、)体験的了解は、もっとも根源的な形で「意味化されたもの」の体験であるということです。
この「意味化」は、(歴史的にというか、歴史以前的に)長い間それだけで十分だったものなわけですが、人間の経験が多様化するにつれて複合的意味が必要になってきて、それにともなって意味の深化や再意味化(意味の意味を問う姿勢)がなされるようになり、だんだんと存在から離れた意味であるかのようなことになっていったのでしょう。もっとも、先に述べたように、そうはいってもそうした意味の体験は、やっぱり「体験」なのだという点がわたしにとっては重要ですし、むしろ事実としては、複合的意味の発見が先で多様化が後という方が正確だと思いますが。
つまり、体験的了解といっても、「理解する」という体験であるわけだから、要するに「知的なもの」の体験であるし、知的理解といっても、知的なものを了解する「体験」であるわけで、両者は見かけほど異なったものではないのじゃないかというのが、最近のわたしの考えです。
それはともかくとして、2008の記事に出てくる「こぐま」は、もうちっとも「こぐま」じゃなくなってしまって、中学3年と1年です。大きくなってしまって残念ですが、一緒にゲームとかできるようになったので、悪くはないです。ロバ先生は、相変わらずアルバイトをしながら非常勤の掛け持ちをしていますが、だいぶかかすけてきました。