すごいひさしぶり。最近、ポケカラというのにはまってて、スマホでカラオケばっかしてます。で、最近の歌を覚える機会が増えたんですけど、今日は最近の歌についてちょっと考えたことがあるので書きます。別のとこに書いたのの転載なんだけど。 (more…)
Category: 解釈
昔書いたロバ先生の話についての感想
前回書いた話などは、結構オリジナルなことを言っているように思うのですが、オリジナリティというのは相対的なもので、基本的には他の人が言っていないようなことを言うのがオリジナリティなわけですから、要するに皆さんにとってはあまり聞いたことのないたぐいの話であるというわけで、確かに自分の書いたのを客観的に読んでみると、そもそもなんの話をしているのかわからないだろうなあと、自分でも思います。 (more…)
批評的スタンスからの解釈について
半年ほど前のものみたいですが、とあるブログ記事がツイッターのTLに流れてきたので、ざっと見てみたんですが、何らかの作品等を楽しむ際に批評的なスタンスをとらないことを指して「頭を使わない」という言い方をしているようで、挑発しているのかどうか、よくわかんないですが、ともかく、頭を使うとか使わないとかいう言い方はちょっと正確でないような気がするので、それについて書いてみようと思います。(正確に言うと、作品を理解する際に、批評的スタンスをとる必要があるかないかの問題で、「批評的」ということを「頭で」と言っているのなら、言いたいことはわからないわけでもないけれど、この場合「頭で」の対義語は「体で」となるわけですが、この人の場合、「頭で」理解する方が、「体で」理解するのより高級だという偏見に基づいているようなので、まあモダンな人間論としては普通ですけど、わたしとしてはちょっと文句があるところです。)
書いてから気づいたんですが、内容的には、
この辺とほとんど同じことを言ってて、わたし的には新しいことはあんまりなかったです。エターナルリターンですねw
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黒色中国さんの話で思ったこと
ツイッターに黒色中国さんという方がいて、名前だけは知っているという程度ですけど、この方の以下のツイートが若干炎上していたようで、彼を非難してるツイートがわたしのTLにいくつか流れてきました。
で、何の話かと思って、元のツイートを読んでみたところ、黒色さんに対しては、ちょっと批判してる方がずれてるなと思いました。
以前、中国の田舎を旅してた時、しばらく滞在した町でよく通ったレストランがあった。
そこの店主に気に入られたんだけど、ある日私が食事してると、目の前に女子店員全員整列させて、「好きなの選んで結婚しろ。2号店の店長になれ」と言われた。でも、その女子はみんな十代で、一番下が15歳だった…
— 黒色中国 (@bci_) December 15, 2019
特にこの部分が燃えてたみたいですが、
ただ、ここで彼を叩いている人の内、その「チャンス」が巡ってきた時に、どれだけの人が、「ガマン」できるのか…というのは興味ある。私がもしあの時に店主の勧めを受けて「結婚」してても、周囲でそれを誰も咎める人はいなかったし。単にチャンスがなかっただけの人が、人格者ぶってるのも変な感じだ
— 黒色中国 (@bci_) December 15, 2019
「チャンス」ってかっこに入れてるんだから、別に彼自身は手放しにそれを「チャンス」だとは思っていないわけですけど、「そういうことをチャンスというなんて信じられない」とかいって非難する方が多いみたいで、これはまあツイッターらしい脊髄反射的な批判。
黒色中国さんの話は、「シンデレラ」みたいな話で、要するに彼はその場で「王子」だったということでしょう。で、どのシンデレラがいいか選べと言われたというわけです。
シンデレラの話では、王子に選ばれてハッピーエンドということになっていますが、社会全体で「そういうもの」となっている場合は、そういうものなわけですから、シンデレラも「王子に選ばれて嬉しい」と思ってしまうということはありうる話だし、シンデレラが王子に見初められて幸せと思っているのに対して、他の文脈に属する人が、「そんなのは本当の幸せではない」といってもしょうがないということはあります。(もちろん、自分の友達とかだったら、「わたしはそういうことじゃだめだと思う」と伝えてみるのもいいですけど、それは個人的な人間関係に属する問題で、社会的な問題ではありません。)
もちろん、今の日本でシンデレラみたいな話を無批判に繰り返すのは、例えば、「女の子は選ぶ側じゃなくて選ばれる側であるべきなのだ」という考えを肯定することになるので、ポリティカリーにインコレクトです。
だからまあ、今の日本においては、黒色さんがしたような話に対しては、「ひどい」とか言っておけばいいわけですけど(そうだとしても黒色さんがひどいわけではない)、黒色さんの話の主眼はそこにはなくて、そういうリアリティが現にある世界に入っていった時、それに対してこちらの価値観で評価するだけではしょうがないんじゃないかということでしょう。
もちろん、社会の価値観の話なわけですから、個人でどうこうできる問題でないし、結局のところなにもすることなんかできないわけですけど、だからといって、「ひどい」とか「はきけがする」とか「涙が止まらない」とか「震えた」とかいって誰かを殴ることでなにかしたような気になる(カタルシス)というのは、問題を矮小化するだけなのでかえってよくないと思う、というようなことを黒色さんは言いたかったんだろうから、それに対して、「ひどい」とか「吐き気がする」とか「涙が止まらない」とか「震えた」とかって非難されるのは、しょうがないといえばしょうがないことではありますね。痛いところを突いていたのでしょうから。
黒色さんの話は以上。
とあるブログ記事についての感想です
こんにちは。美女と野獣と鉢かづき姫と鶴女房などについて、続きを書こうとは思ってたんですけど、なんかちょっと別のこととかしてて、ほったらかしになっていました。そのうち書こうとは思っています。
今日はそれとはちょっと別の話で、とあるブログ記事を見かけまして、こちらの「あるトランス女性が見た北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』」という記事なんですけど、これを読んでちょっと考えたことがあったので、あんまりまとまってないですけど、感想を書いとこうと思います。 (more…)
美女と野獣と鶴女房と鉢かづき①
こんにちは。たいへんお久しぶりです。
こないだの金曜日に、テレビでエマ・ワトソンの『美女と野獣』をやってて、ちょっとだけ見ましたが、あまりに子供向けだったので、ちょっとしか見られませんでした。 (more…)
もののけ姫に出てくる神さまっぽいものについて
昨日テレビで『もののけ姫』をやってたので、もう何回目かわかりませんけど、また見てしまいました。
皆さんそうだと思いますけど、何回も見ているので、セリフとか動きとか、ほぼすべて覚えてしまっています。すごく好きというわけでもないんですけどね。
最初にもののけ姫を見たのは公開時ですから97年ですか。もう20年にもなるんですか。
わたしは、だいぶ前につぶれてしまった西武の6階の映画館で観ました。
修論を書いた翌年で、修論では風土記に出てくるタタリの話をやってたので、タタリ神的に楽しみにしてたんですけど、タタリ神的にはいまいちな話でがっかりでした。
昔書いたたたりの話
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ジュディス・バトラーについての批判を読んで考えたこと
江口某先生のブログで、ジュディス・バトラーについてのマーサ・ヌスバウムによる批判の日本語訳(だいぶ昔のもの)が紹介されていて、読んでみたらまあまあ面白かったので、今日はそれについて思ったことを書きます。片寄った視点からの勝手な意見です。 (more…)
ルックマンの『見えない宗教』を10分で読んでから考えたこと
今日はちょっと、わけのわからないことを言おうと思います。
考えを述べる際のスピードを5段ギアだとすると、最初の方は3速くらいですが、後半は4速ギアくらいで書いている感じなので、まあわたしと似た考え方をする人以外は、ほとんどなにを問題にしているかわからないだろうなという自覚はあります。(ちなみに5速で書くと、後から自分で読んでも理解できないことが多いです。そうやって書くことは楽しくないわけではないので、昔はよくやっていましたが、最近は年をとって体力がなくなったからか、あんまりそういうことはしていません。)
とはいえ、ここはわたしのブログなので、たまには好きなように書いてもいいだろうということで、ちょっと書きたいことがあるので書こうと思います。どっちにしろ見ている人はほとんどいないわけだし。
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「世界の中心で愛を叫んだけもの」の解釈(永遠回帰的解釈)
こんにちは。ハーラン・エリスンが亡くなったそうですね。
TwitterのTLで、早川書房さんから、「悲しいニュースをお伝えします」とか流れてきたんですけど、わたしは別に悲しくはなかったです。もはやいいお年で、新作をそんなに書いているわけでもなし(こないだ短編集の翻訳が二冊出ましたけど古いやつです)、そもそも翻訳がまったく出ていませんがなんか事情があるんでしょうか、日本の原稿料が安いからとかいう話もありますけど、ほんとなんですかね? あ、”Can & Can’tankerous” は2010年あたりの作品を集めたものらしいので、面白いんだったら読んでみたい。というのも、「世界の中心で愛を叫んだけもの」などはたいへん冷戦的な話ですから、エリスンが9.11以降、どんな話を書いたのかという点にはいささか興味があるわけです。(とはいえ、英語で読むほどの気持ちはない。)
というわけで、今週はずっとエリスンについてなんか書こうとしていたんですけど、そしたらこんどは歌丸師匠もお亡くなりになられたそうで、こちらはエリスンとは違っていささか悲しいニュースかもしれません。つまり、歌丸師匠の芸は、彼が現に生きていることと切り離せないわけですけど、小説家の死は、その死がなにか彼の書いたものに関係あるかというと、すでにして書かれてしまった時点で作者と作品はあまり関係なくなっているわけで、つまり作者は書いた時点ですでにある意味死んでいるわけで、といったのはバルトですけど、今更実物のエリスンが死んだからといって、わたしにはあまり関係ないというか。 (more…)