多くの人にとって「頭を使う趣味」は労働や義務と同じであり、娯楽にはなり得ない


半年ほど前のものみたいですが、とあるブログ記事がツイッターのTLに流れてきたので、ざっと見てみたんですが、何らかの作品等を楽しむ際に批評的なスタンスをとらないことを指して「頭を使わない」という言い方をしているようで、挑発しているのかどうか、よくわかんないですが、ともかく、頭を使うとか使わないとかいう言い方はちょっと正確でないような気がするので、それについて書いてみようと思います。(正確に言うと、作品を理解する際に、批評的スタンスをとる必要があるかないかの問題で、「批評的」ということを「頭で」と言っているのなら、言いたいことはわからないわけでもないけれど、この場合「頭で」の対義語は「体で」となるわけですが、この人の場合、「頭で」理解する方が、「体で」理解するのより高級だという偏見に基づいているようなので、まあモダンな人間論としては普通ですけど、わたしとしてはちょっと文句があるところです。)

書いてから気づいたんですが、内容的には、

ルックマンの『見えない宗教』を10分で読んでから考えたこと

もののけ姫に出てくる神さまっぽいものについて

この辺とほとんど同じことを言ってて、わたし的には新しいことはあんまりなかったです。エターナルリターンですねw

●意味を問われなければならない言葉と、それ自体が意味である言葉

まず、何かを見た人がそれを面白いと思ったとして、けれどもその「面白さを説明できない」というのは、説明する言葉やスタンス(視点)を知らない(学んでいない)ということではあるでしょうが、だからといって面白さを感じていないということではないと思います。例えば子供は「すごく面白い」と思ったとしても、それを伝える言葉は大人よりももっていないわけですが、だからといって子供の方が面白さの感受性が低いということはないでしょう。リアリティに対する感受性については、むしろ子供の方が強いのではないかと思うことも多いです。

もっとも、批評的でなく理解している人(享受している人)が、自分の感じている面白さを明晰に把握しているか?と問うならば、もちろん明晰には把握していないわけですけど、「明晰に把握していなければ本当にわかったことにはならない」という考えは、そもそも明晰に理解することをもって本当の理解であるとみなす一つの物の見方で、みんながみんなそう思っているわけではありません。(ここで日本語の「知る」と「分かる」の違いなんかの話をしてもいいんですけど、今回はやめておきます。)

言葉での把握というのは、まずとりあえずは概念による把握ということですが、物事を明晰に把握するというのは、概念的に把握する際の特徴です。(とりあえず、詩的言葉についてはちょっと置いておきます。詩的言葉の場合は、もちろん、単に概念的であるだけでなく、存在的に把握するものです。)つまり、存在を、「その意味(概念)」において理解する(意味に置き換えて理解する)ということで、この場合、合理的で明晰なのは意味(概念・言葉)の方で、存在をそのような概念に還元して理解しているだけだともいえます。だから、明晰な理解といっても、実際のところ、存在がそれ自体で明晰であるのではなく、存在が置き換えられた概念が明晰なだけではないのかということもできると思います。まあ、人間の場合、概念が現実を作るわけで、だから、概念で把握された現実は明晰なものになるわけで、たぶん逆ではない、つまり、「明晰な現実」があって「明晰な概念」が導かれるのではなくて、「現実」というのはそもそも明晰な概念で構成されるから明晰になるだけなんじゃないかということです。で、明晰な概念がどこから来るか?と問うてみると、これはやっぱりいささか神秘的な感じにならざるをえない、つまり、「ア・プリオリに」とはいいませんけど、「啓示」みたいなかんじで閃くというか、与えられる、というのが実感に即しているような気がします。

学問などの場合は、もちろん、理解といえば概念的理解を指すので、ある種の人は、言葉での把握こそが唯一の理解と思いがちですが、別に概念的把握だけが唯一の把握方法だなんてことはありません。※1

●神話の言葉や詩的言葉におけるリアリティの体験

例えば、お祭りにおける神話の場合、神話は実際に唱えられる(語られる・演じられる・アクトされる・プレイされる)ことが重要だというレベルがあります。この場合、神話はそれ自体がこの世の成り立ち等を開示するものであって、つまり、神話こそがこの世界の意味だといえます。そのようなものとして神話を「理解する」というのは、別に神話について「熱く語ったりする」(←これは最初のブログの人が言ってた言葉ですが)ことではなく、イニシエーションなどを経たうえで、単に神話が語られるのを聞く、あるいは見る、要するに「体験する」ことだけです。むしろ、規定された場所・時以外で神話について語ることはタブーとして禁じられます。このようなタイプの神話の受容は、批評的でない理解の仕方だといえます。

神話のこのような受容の仕方は、いわゆる「生きた神話」と呼ばれる場合の受容の仕方ですけど、それに対して、時代が下って、神話が文字で記述されたり、体系化されたりするようになる(記述された日本神話やギリシャ神話などです)と、往々にして神話の「意味」が問われるようになってきます。なんでそうなるかというと、単純に、本体(神話)だけを享受することができなくなって、意味として理解するしかなくなってしまったからだと思います。

「批評」が必要とされるようになってくるのは、本体がそれだけでは理解(享受)されなくなり、本体に対して何らかの解釈をしないと了解できなくなっているからでしょう。(どうしてそうなるかというと、基本的には、人間の集団が多様化して、彼らにとっての「現実」が多様化したからでしょう。神話が提示するような具体的な「存在」では、もはやそうした「多様な現実」の「意味」足りえなくなったということだと思います。で、存在的な具体的「意味」ではなく、抽象的で普遍的な「意味」が要請されるようになるのでしょう。もちろん、要請されるといっても人間が勝手にそういう考えを創りだすわけではなく、啓示的な形態をとる(意味が開示される)わけですけど。)

神話は、まず第一に言語表現ですから、そもそもが「変換されたもの(第一義的には音に、さらには意味に)」ではあるのですが、儀礼において語られる(演じられる)神話の場合、詩的言葉と同じように、その本質は、概念的分析にではなく、存在の提示というか、むしろ存在の創造(言われたものが人間の意識において言われたように存在するようになること)にあるというべきだと思います。
「ある新しい考えがどこかから来た」という場合、それが本当に新しい考えであるなら、あるものをあるものと認識することは単なる当てはめではなくて(なぜならそういう考えは今までなかったのだから)、「あるもの」は「そのようなもの」として新しく生まれたのだというべきだと思います。意味が生まれるのと存在が生まれるのが同時なのであって、「存在」の「意味」と分裂してしまうのは後の話です。ヒエロファニーにおける「聖なるもの」と「俗なるもの」の分裂と同じことだと思います。

ですから、神話や詩をそのものとして理解する(体験する・享受する)ということは、言語によってある「もの」が存在するようになる(クリエイション)のを見る(体験する)ということ、ある「もの」がそういう「もの(=名前)」として初めて存在するようになる(人間にとって、何かが存在するといえるのは、何かの名前の開示と同時である)という体験ですから、言語こそが存在の意味であり、かつ、存在そのものなのであって、その意味では、存在が問いだとしたら、神話こそが答えということになります。(あるいは、神話によってはじめて問いが可能になり、答えも可能になるというべきか。)つまり、神話が開示されるということは、それまでわからなかったことが「わかった」となる体験であるということです。(だからそれ以上の「説明」は必要ない。)

●「意味としての神話」から、「神話の意味」へ

これに対して、「神話の意味」が問われるようになる(批評的理解が要請されるようになる)ということは、神話がもはやそうした「世界の意味の開示」としては了解されなくなった、少なくとも、それだけで十分な「世界の意味の開示」とは了解されなくなった、ということを前提にしていると思います。で、今度は神話の意味を問うことが「世界の意味」を知ることになってくるわけですけど、「生きられた神話」との違いは、解釈されなければならない神話は、創造的な言葉としては理解(体験)されていないという点です。(まったくされていないということはないのでしょうけど。少なくとも、意味としては信じられたとしても、存在としては信じられなくなりつつあるとはいえると思います。宣長と秋成の論争なんかはこのような立場の対立なんだろうと思います。)

で、創造的な次元(概念をrealizationする働き)が見えなくなってくると、「神話」と「神話の意味」を並べた場合、重要なのはむしろ「神話の意味」であって、神話はそれを伝えるためのメディアに過ぎないとか、より明晰な「神話の意味」が理解されたのなら、不明瞭な神話そのものはなくても別に構わないとかいう考えになってくるように思われます。で、儀礼や神話より、「教義」とか「教え」とかの方が重要だとか、むしろ宗教の本質はそういう概念的に把握可能なところにあるというような考えが出てきたりします。

概念的言葉による把握は明晰で、そのせいだと思うんですが、永続性があるように思われます。つまり、「存在」のレベルでは、あるものがそこにないときリアルではないわけですけど、「意味(概念)」というのは、存在と違って、ある意味、「常にあるもの」と言えなくもない。これはヒエロファニーと象徴(シンボル)の関係とパラレルだと思います。
で、意味(概念)や象徴のように、常に「ある」ものの体験と、そうではないもの(存在)の体験とを比べると得失があるわけですけど、前者の利点は、「より明晰に把握できる」こと、欠点は、「リアリティが減ること」といえる(常にあるとはいっても、本当に今そこにある存在と比べれば、やはりリアリティは少なくなる)かと思います。

欠点について少し説明すると、リアリティの体験というのは、それがもっとも強く体験されるのは、何かが新しく生まれる(出現する・到来する・創造される)時なので、意味(概念)のように「常にあるもの」の場合、一度そうした意味が発見されてしまうと、なかなかそれが「再び到来する」という体験になりにくいということがあるのだと思います。ですから概念的意味の体験の場合、例えば「もっと深い意味」のように、概念的に「新しい意味」が必要で、ある解釈を前提にした「より深い解釈」などが必要とされるのだと思います。

ひとことで言うと、「世界の意味」がコスモゴニックな次元(クリエイティブな次元)を失ったから、「意味の新しさ」によるクリエイティビティに頼らざるを得なくなった、ということでしょう。コスモゴニーというのは世界創造神話のことですが、「生きている神話」の場合は、「世界の意味」としての神話が、「世界」と「世界の意味=存在」を共にリアルにしているわけですけど、「生きている神話」のやり方の場合、「意味としての神話」は、「常に存在するもの」ではありません。つまり、「生きている神話」のリアライゼーションする力は、儀礼であるとか口誦であるとか演技であるとかに依存していて、「実際にそれが語られている場所でその時にだけ」、「世界の意味=存在」を開示しうるものなので、それが語られる儀礼が終わるとともに、「世界の意味=存在」をリアルにする働きも終了するわけです。で、重要な点は、ヒエロファニーとしての儀礼はその都度終了するものであるからこそ、次回の儀礼において再びヒエロファニーが可能になるのだという点です。(到来の体験の可能性。)逆説的な言い方になってしまいますが、これこそが永遠回帰(エターナルリターン)の必然性だと思います。

これに対して、神話の意味を問う立場の場合、本質的なのは神話(=存在)ではなく、神話の意味(≠存在)になっていますから、ある意味では最初から「存在ではなく存在の本質が重要なのだ」という立場であり、具体的な存在ではないから普遍的で本質的なんでしょうけど、その分、「ずっと存在している」というと何のこっちゃとなりますけど、ヒエロファニーの場合におけるように「あったりなかったり」するようなものとしてではなく、一度到来(発見・思い付き・創造)したものは、忘れてしまうとかいう場合でなければ、そのものとしては再び到来することはありません。なぜなら「ずっとある」ものなのだから。(実際には、そうした概念や意味や言葉を、実際に口にするとか、頭の中で考えるとか、読むとか、聞くとか、何らかの形で具体的に存在させることは常になされているでしょうから、その意味では、「概念的意味」といっても、「普遍的に偏在している」というようなものではなく、少なくとも人間に把握できるものとしての「概念的意味」は、人間によって体験的に了解されるその都度「存在する」ようになるものだと思うのですが、えてして一般には「普遍的なもの」、あたかも石のように「恒久的に存在しているもの」と考えられるようになるということはいえると思います。)

「概念的意味」の、一見したところ偏在しているかのような様相は、象徴がヒエロファニーを延長し、人間が聖なるものの側に常にいることを可能にするのと似ている働きだと思います。象徴の場合も、ヒエロファニーを延長すると同時に、ヒエロファニーにおける「聖と俗との断絶」という出来事(体験)を覆い隠してもいて、そのせいで象徴は、容易に「堕落」しやすいのだと思います。お守りになった象徴は、ヒエロファニーの全体ではなく、その力の一部――しかも、人間にとって都合の良い部分だけ――をもたらすものと考えられるようになるというように。

●「神話の意味」における「存在としての意味の体験」

さて、長くなったのでそろそろまとめたいと思います。
「頭を使った」理解の仕方というのは、存在よりも「意味」こそが実在(リアル)だとする考えだといえますが、そうはいっても、そうした「意味」がリアルになる体験というのがやっぱりあるんだろうと思います。つまり、そうした「意味」が最初にその人に到来したときの体験です。(これは体験ですから、もちろん、単に頭だけを使ったものではありません。その意味で、到来の瞬間には「意味=存在」なのだと思います。その体験が終わった後には「意味≠存在」になってしまう(必ずそうなる)にしても。)ただ、そうした「意味」は、概念的に明晰なので、一度獲得されると、あたかもそれ以後は失われないかのような様相を呈します。これは、「世界の意味」を常に明晰に把握できるという意味ではよいことですが、世界の意味のリアリティを体験するという意味では、最初の一回だけが際立っていて、それに匹敵する「体験」がなかなか得られないという欠点にもなります。

(ディックの「アルベマス」だか「ヴァリス」だかに、ラリッてる時に見えたピンクのドアの話があったと思いますが、あんなような感じ。ドアが見えた時は、その先に素晴らしい世界があるということがわかって、うっとりしてしまって、ずっとドアを眺めていて、ドアをくぐるのを忘れていたのだけど、そうしている間にドアは見えなくなり、しかも、もう二度とドアは現れないのだということがはっきりと分かってしまったという話です。わりと悲劇的。)

そのようなわけで、「頭を使った」理解の場合、最初の一回の体験に匹敵する体験を得るために、別の対象に概念を適用するとか、議論を深めるとか、発展させるとか、そういう方向に進んでいかなければならないのだと思います。また、最初の一回に文字通り匹敵する体験(いうなれば「コスモゴニックな」体験)のためには、今までの「意味」を無効にしてしまうような、全く新しい「意味」の到来が要請されたりもするわけです。(宗教改革とか、新宗教の誕生なんかはそういうものですね。新しい神さまの誕生とかです。)

こうした「頭を使った」理解は、体験だけの理解と比べて、確かに「明晰」であるし、明晰であることによって、より詳細にその「意味」を「体験」することが可能であるのかもしれません。しかしながら、明晰に「把握できる」ということと、普遍的で抽象的であるという性質によって(これはいわゆる「もの」とはちょっとレベルが違う「もの」だということで、一見したところ「聖なるもの」に近い性質を持っている)、象徴がそうであるのと同じように、あたかも「聖なるもの」がずっと常に到来しているかのように誤解されやすい。(実際そのように主張する職業宗教者もあらわれるわけですし。アシタカがいうシシ神は死なない説もそう。)

こうした「誤解」は、「聖なるもの」のダイナミズムを否定するもので、ひるがえって人間自身のダイナミズムを殺し、最終的には人間の生を枯渇させてしまうわけですけど、そういうときにはえてして「新しい意味」が到来し、その「体験」によって、人間と世界は再び「存在」するようになる、というような循環があるのだろうと思います。(ニーチェやバタイユなんかだと、上記のような「知的理解が生を枯渇させる」という「知識」こそが、「新しい意味」になって、むしろ逆に生き生きとさせるというような感じだと思います。)

で、最初にあげたブログの人が前提にしているような考え、つまり、「頭で把握する意味」は、「体で体験する意味」より偉いのだというような考えは、上で述べた循環の中で考えると、次々と新しい題材を解釈し続けるとか、考えを発展させていく過程にあり続ける限りは、「体験」から離れないわけだからそれでもいいんですけど、対照的に、ただ体験するだけの体験を貶めたりするのはよくないと思います。
とはいえ、上の循環でいうと、生の枯渇がおきるまでスタティックにならないと、新しい「体験」はやってこないともいえるわけで、よくないといっても、結果的にはよくないわけではないのかもしれないなとも思います。これは少々ニヒルな見方でしょうか。

※1
概念は、結局のところ、既にある世界(意味世界)のなかで、既に定義されたようにしか物事を把握できないので、クリエイティブなものではないと思います。もちろん、概念が、単なる概念以上のものとして体験されることはありうるでしょうが、その場合その概念は単なる概念以上のものになっている(ヒエロファニー)というべきだと思います。
概念は、たぶんそのような宗教体験として創造されたものなのでしょう。創造という働きは、設計図に基づいて何かを作るというような働き(制作)とは違って、創造以前に被造物が存在するわけはありませんから、あらかじめ何が生まれるのかがわからないものが生まれる、という働きでなければなりません。
ですから概念も、その発生においては、決してあらかじめ存在する意味世界の内部でこれこれの意味を持つものというようなものではなく、逆に、概念が発生することによってそのような意味世界が創造されたというべきなのでしょう。しかしながら、一度その創造がおわってしまったなら、世界はあたかもあらかじめ存在するものであるかのように見なされ、概念はそうした世界のなかで、これこれの意味を持つものになってしまうのだと思います。

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