先月NHKのBSでやっていたらしい『恋人たちの予感』が、勝手に録画されていたので見ました。うちのDVDは気を利かせているつもりなのか、昔の映画などを勝手に録画するのです。メグ・ライアンとビリー・クリスタルで1989年公開、脚本はノーラ・エフロンで監督はロブ・ライナー。原題はWhen Harry Met Sally…なので、ちょっとこの邦題はいかがなものかと思います。公開時には見ていませんが、たぶん4~5年後にはテレビかビデオで見たと思います。で、その時どう思ったかは覚えてないんですが、久しぶりに見てみて、意外と面白かったので、面白かったところをちょっと書いてみようと思います。

ウィキペディアによると、男と女が本当の友人になれるのかという問題を、久しぶりに再会する男と女を通じて描いたロマンティック・コメディ。だそうで、これは英語版でも大体そんなようなことを言ってるので、映画の宣伝がそういってたんだろうと思いますが、テーマをひとことでまとめたものとしてはちょっとだめですね。でもまあ、ウィキペディアは出典がちゃんとしてないことを書いてはいけないので、映画の宣伝が言ったことをそのまま書くほうが無難なのでしょう。

ハリーの方は、サリーと最初に会った時、「男女間の友情はない」とか、わかったようなことを言ってましたけど、これは彼が若すぎて、「やりたい」以外のことが考えられなかったからか、あるいは、そういう風であること(常にready to goであること)を恰好よいことと思い込んでいたか、あるいは、そういうポーズをとるとある種の女にもてたからか、どうせそんなところでしょう。

その後、彼は27くらいで結婚しますが、サリーに理由を聞かれて、デートしたりなんだりといった恋愛が面倒になったからだというような説明をしていて、相変わらず露悪的な言い方ではありますが、「デートなどが面倒」というのは、実際のところ彼の本音に近いものがあったのだろうとは思います。

彼は数年後にこの妻(ヘレン)に出ていかれてしまうのですが、出ていかれた後、再びそれなりにいろんな女の人とデートしたりするようになるのですが、結局のところ出て行ったヘレンを忘れられず、ずっと引きずった状態になってしまいます。つまり、彼が言う「デートなどが面倒」というのは、「やること」がメインのワンナイトラブ的な関係ではなくて、もうちょっとまともにコミュニケーションしたいということだったんでしょう。言い方がいかにも悪いですが、おそらく彼にはワンナイトラブ的な関係以外の女性との関係を語る言葉がなかったんでしょう。これはジェンダー的なものなのか、あるいはロマンチックラブイデオロギーの一種なのか。

で、彼とヘレンとの間には、彼の側からすると、そういう「セックスがメインではない関係」が築けていたはずだったんですが、どうもヘレンにとってはそうではなかったようで、だから彼女は別の男のところに行ってしまったのでしょう。ヘレンがなんで出て行ったかは、彼女の視点から語られていないのでわからないのですが、ハリーが「楽をしようと思った」のに対して、大事にされていない感じがして不満だったというのは大変ありそうなことだと思います。

ハリーは、デートのときどこで食事したらいいのかとか、どこにエスコートしたらいいのかとか、メイクラブの後にいつまで腕枕をしていたらいいのかとか、いろいろ次にすべきことを考えて、ルーティーンに従って行動するのが面倒になったから結婚しようと思ったと言っているわけですが、そういったもろもろのことは、彼からしたら「やらせてもらうために必要な手順」に過ぎなかったのかもしれませんが、本来的には、むしろそれ自体がコミュニケーションなのであって、何らかの目的のために必要な手段ではありません。彼は、「デートや食事やピロートーク」と「セックス」の間に、「手段」と「目的」の関係を設定していますが、これは大変な間違いで、デートや食事やセックスやピロートークは、すべてそれこそがコミュニケーションなのであって、そういう諸行為と別に「純粋な関係」などというものはありえません。

つまり、27才のハリーは、それまでの彼がそうだったような、すべてがセックスという目的に還元される世界に嫌気がさして、セックス抜きでも成り立つ関係に憧れて結婚したようですが、その際に諸々の具体的なコミュニケーション(デートとか食事とかセックスとか)を超越した「本質的関係」を結婚関係に夢想しているような気がします。これはむしろ、彼が自分で言っていたように、本当にそれまでの彼の世界は、すべてが「セックス」を中心にできていたということによるのでしょう。とはいえ、それまでの彼にとって、デートはセックスの前段階に過ぎなかったとしても、コミュニケーションとしてのデートは、デートしたいからするべきものであるわけだから、仮定された目的(セックス)が外されたからといって、デートしなくてよくなるというわけのものではなく、むしろ、本来的なデート(単にデートしたいからするのだというデート)が取り戻されるべきだったのですが、彼はどうもそうは考えずに、セックス目的じゃないのだからデートとかもしなくていいと考えていたんだと思います。

また、セックス中心主義的な考え方の問題は、単にセックス以外のことをセックスのための手段と捉えるだけにとどまらず、目的であるセックスの方も、いうなれば目的として物神化されてしまっていて、つまり、やりたいからやるというよりは、単にやることがよいとされているからやってるだけになってしまう点です。行為に対して「手段と目的」という見方を持ち込むと、手段とされる行為も、目的とされる行為も、ともに行為としての本質を失ってしまうのだと思います。

ハリーは結婚することによってそういうセックス至上主義(セックスのフェティシズム)から抜け出そうとしたんでしょうけど、その際に、今度は結婚関係、あるいは妻というステータスをフェティッシュ化してしまったのだと思います。

ヘレンが出て行ったとき、彼女は彼に、「ちょっと距離を置こう」とか、「外で会おう」とか言っていたそうですので、出て行った時にはまだ、彼女には彼との関係修復を望む気持ちもあったのだろうと思います。つまり、もっと具体的にちゃんとコミュニケートしてほしいということです。それに対して彼は、「妻とデートするなんてありえない」とか言っていたので、「こりゃだめだ」と思われてしまっても致し方ないと思います。出て行った妻のことを男友達と話している時に、「自分のことを好きだとわかってる女と、なんで外でデートしなきゃいけないんだ」とか言っていましたので、ハリーにとってヘレンは、こちらが何もしなくても無条件に愛してくれる人ということになっているようですので、ヘレンとしても出て行かざるをえなかったんだろうと思います。

ハリーとヘレンの結婚生活が、ハリーにとっては「単なるセックスを越えた関係」であったのに対して、ヘレンにとっては「大事にされていない(コミュニケーション不足)」と感じられていたのだとすると、これはよくある話ですが、要するに彼らの夫婦関係は、ハリーに対するヘレンの献身によって維持されていたということになるでしょう。
ヘレンに去られたハリーは腑抜けになってしまうので、彼にとってヘレンが重要な存在だったというのは間違いないのですが、しかしながらこれは、自分をケアしてくれる人として重要だったというだけのことで、要するにマザコンに過ぎないと思います。ハリーにとっては、マッチョなセックス中心主義をやめた後に残るのは、幼児退行的な世界、相手が自分を一方的にケアしてくれる(愛してくれる)関係だったということでしょう。これはまあよくある話というか、マッチョイムズとマザコンの両立というのは基本ですね。

ハリーにとってのヘレンが「ママ」だったとすると、ヘレンが出て行ったことは「ママにすてられた」体験になるわけで、これは彼にとって結構なトラウマになってしまったようです(もちろん、もともと悪いのは彼の方ですが)。ですから、ヘレンに去られた後、彼はそれまでなかった喪失感を抱えるようになります。三十過ぎの大人が何を言ってるんだという気はしますが、今までなかったものは仕方ないので、おそばせながらやっと彼もまともになりつつあるということだろうと思います。

で、三度目にハリーとサリーが本屋で出会った時、ちょうどサリーもジョーに振られた直後だったので、お互いの「喪失感」について話し合うことで、二人は初めてコミュニケーションをとることができました。もっとも、サリーもあまり理解力がある方ではないので、ハリーの喪失感に対して、そんなの自業自得だろと突っ込みを入れることなく、むしろ少々かわいそう萌えしてるような気がします。(まあ、ハリーからしか話を聞いていないわけですが、それを言ったらわたしだってそうです。)

三度目に会った以降のハリーにとってのサリーはどういう存在だったのかということですが、まず、セックス至上主義的な女性との関係は、もともと彼自身が空しさを感じていたところでもあり、また、ヘレンに出て行かれた後の彼は不本意ながら(?)も複数の女性とのラブアフェアを実践していたのですが、そういう関係ではヘレンの出て行った穴は埋められないと感じていたようで、むしろサリーとの友人関係によってヘレンに去られた喪失感が癒されていたわけです。

ハリーは、サリーと話をすること(話をするという体験)、つまり、きちんとコミュニケートすることで、存在論的に充実することができたわけで、重要なのは実際に話をすることそれ自体だったわけですが、ハリーの悪い癖というか、そういう具体的な行為としての関係そのものではなく、サリーとの関係を「友人関係」として物神化してしまっているように思われます。実際には、電話することとか、一緒に出掛けることとか、何かについて話し合うこととか、そういう諸行為そのものによって関係は定義されるべきなのですが、「何でも言える異性の友人」とカテゴライズして、そういう特別な「友人関係」として物神化してしまいます。ヘレンとの夫婦関係を物神化したのと同じあやまちを冒しているわけですが、ただ、夫婦関係はその拠り所が結婚制度だったのに対して、友人関係はそれぞれの友情がもとになっているわけなので、夫婦関係の物神化よりはいくらかましといえるかもしれません。外的な拘束力が弱いので。ただ、実際の相手そのものをちゃんと見ていないという意味では、同じ間違いを犯していると言えるでしょう。

ハリーは積極的に「サリーとセックスしてはいけない」(そういう関係になってはいけない)と思っていたわけですが、これは実際にしたいとかしたくないとかいう問題ではなく、むしろ「友人関係」をキープさえしていれば、ヘレンのように去っていってしまうことはないだろうと思っていたからだと思います。まあ、よく言う「今の関係を壊すのが嫌だから告白しない」みたいなものといえばそうですけど。

どこで出てきたセリフだったかちょっと曖昧ですが、サリーがハリーに「わたしはあなたの慰め係じゃない」と言ったことがありましたけど、これについては自分もジョーが結婚すると聞いたときに泣きながらハリーに電話したじゃないかと思う人もいるかと思いますが、「慰め係」という誰かを求めているじゃなくて、「あなたに慰めてほしいんだ」ということなんだろうと思います。「慰め係」でも、「妻」でも、「セックスの相手」でも、相手そのものをちゃんと見ていなかったらだめで、誰かに代替可能な役割として見られるのはごめんだということだと思います。

さて、そういうわけで、前彼で独身主義者だったはずのジョーが結婚すると聞いて、サリーは泣きながらハリーに電話するわけですが、これはまあいい加減といえばだいぶいい加減な話で、どうしてかというと、実は彼女はジョーのことがもはやそれほど好きというわけではなくて、少なくともあの時点では彼女はたぶんジョーよりハリーのことが好きになっているわけで、「ジョーは結婚したくなかったわけじゃなくて、わたしと結婚したくなかっただけだったんだ」とかいって泣いていますけど、これは本質的にはジョーとはあまり関係なく(きっかけではありますが)、自分の本質的な寂しさをハリーに慰めてほしいと言っているわけで、どこまで彼女が自覚的だったかはわかりませんが、結果的に慰めに来たハリーとやってしまって、こんな顔になってしまうわけです。

ハリーの方は、成り行きでサリーと一線を越えてしまって呆然としているわけですが、これはたぶんヘレンに去られたトラウマゆえだと思います。つまり、彼がフェテッィシュ化していた「友人関係」を自ら壊すようなことをしてしまい、友人としてのサリーを失ってしまったと思って呆然としているわけです。(これはたぶん彼にとってセックスの意味がむしろかなり低いということによるのだと思います。セックス以上の関係だったはずなのに貶めてしまったという感じ。)

それに対してサリーは、「思いがけず」ハリーとそういうことになってしまって、むしろうっとりしてしまっています。この辺がサリーのダメなところで、泣きながら電話して呼んどいて「思いがけず」じゃねえだろうとは思いますが、彼女としては手管を使ったわけではないんでしょう。たぶん。とはいえ、サリーがハリーに対してちゃんと性的同意をとっているかというと、男女が逆だとしたら、夜に部屋まで来たからといって同意したことにはならないし、キスしたからといって同意したことにはならないのは明らかですから、だいぶ怪しいと言えると思います。ハリーはもともとセックス至上主義を刷り込まれている男なので、そういう状況(据え膳)になったら自動的にやってしまうということは非常にありうる話なので、サリーはそこに付け込んだと言えなくもないです。

一方、ハリーはサリーと「友達のまま」でいるのが一番望ましいと思っていて、これはサリーの気持ちを全然見ていない自己中なものではありますが、一度やってしまったことでそうした関係が失われるんじゃないかと思ったので「なかったこと」にしたら、サリーが怒ってしまって会ってくれなくなって、つまり、失わないためにやったことのせいでむしろ失うことになってしまいます。これはまあ、実際のサリーが何を思ってるかを全然見てないからそうなるわけで、そこのところは相変わらずの自己中ハリーですけど、サリーが怒って電話にでなくなったらさすがにやばいと気がついたようで、友達とか恋人とか妻とかいうカテゴリーではなくて、サリー自身と一緒にいたいのだとちゃんと言いに来たので、まあ許してやるかとなるわけです。

“I love that you get cold when it’s 71 degrees out. I love that it takes you an hour and a half to order a sandwich. I love that you get a little crinkle above your nose when you’re looking at me like I’m nuts. I love that after I spend the day with you, I can still smell your perfume on my clothes. And I love that you are the last person I want to talk to before I go to sleep at night. And it’s not because I’m lonely, and it’s not because it’s New Year’s Eve. I came here tonight because when you realize you want to spend the rest of your life with somebody, you want the rest of your life to start as soon as possible.”
「僕が愛しているのは、22℃で風邪をひいちゃう君、サンドウィッチの注文に1時間半もかかる君、僕を馬鹿だと思ってる時に鼻の上にしわを寄せている君、一日一緒にいた後に僕の服に移った君の香水の香り。夜寝る前に僕が最後に話したいのは君なんだ。僕が今日ここに来たのは、さびしいからじゃないし、大晦日だからでもない。残りの人生を誰かと一緒に過ごしたいと気づいたなら、その誰かとの人生をできるだけ早く始めたいって思うのは当たり前のことじゃないか?」

一部で大変人気のある最後のところのセリフです。なにやら言わされてる感がすごいしますけど、レストオブライフ「君と話をしていたい」と言っているので、彼女とコミュニケートすること自体が一番大事なんだということに、ようやく自覚的になったということなんでしょうから、最低限はクリアしているといってもいいでしょう。だいぶ甘いですけど。

最後に、有名なフェイクオーガズムのシーンですが、サリーの考えでは、基本的に男は、相手自身(相手が考えていることや感じていること)をちゃんと見ていないという批判なんでしょう。で、なんでフェイクをするかというと早く終わってほしいからで、相手をいい気にさせてさっさと終わってもらうというのは、あるシチュエーションでは楽なやり方なんでしょうけど、男に対しては甘やかしですし、自分に対しても、ちゃんと言う労力を惜しんでいるという意味で甘やかしだと言えなくもないです。

ハリーの前妻のヘレンは、たぶんフェイクオーガズム的にハリーと接していたのだけど、いつまでたってもハリーがフェイクに気付かないから、愛想をつかして出て行ったといえるかと思いますが、フェイクでやり過ごすというのは、相手が気づかないということをこちらも利用している(相手の鈍感さを消極的に肯定していた)という側面がありますので、気づかないことが不満なんだったら、ちゃんと不満だと口に出して言うのは大事なことだと思います。ただ、鈍感さというのは、一般に、口で言ったぐらいでは改まるものではないので、出て行くしかないということも、現実問題としてあると思います

もっとも、相手の鈍感さによってこちらが救われることもあるわけですし(鈍感さとはある意味では強さのことですから)、また、違う人間が一緒にいる意味としては、二種類の見方(感じ方)ができるようになるということがあると思いますので、要するに、全体的に見て、自分にとって好ましい鈍感さであるか、好ましくない鈍感さであるのかということの見極めと、好ましくない鈍感さであるなら、好ましい鈍感さに誘導していくことが大事なのだと思います。

わたしとしては、いい気にさせてコントロールするよりは、大事なところではこちらの方が偉いのだと思い知らせながら、大局的に見て、わたしにとって都合のよい鈍感さに誘導していくというのがいちばん良いかと思います。

ところで、この映画のビリー・クリスタルは佐藤慶に似ていると思う。

あと、サリーの友達のマリーがプリンセスレイヤだった。

わたしからは以上です。

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