こんばんは。くまぶしです。
今日は晩ごはんにカレーを食べながら、きむたくのドラマ見てました。選挙の話です。
番宣で、マドンナが、its’s cool.といってました。「寒っ!」っていう意味かな?と思いました。冗談です。すいません。
ドラマを見てて、ちょっと思いついたことがあったので書きます。感想とかじゃないです。
ドラマの話とはほとんど関係ないのですが、話の中できむたくが選挙演説して、
「世間には必要な悪があるんだと、子供たちに教えたくはありません」(適当です)
とかいっていました。きむたくは元小学校の先生という設定なので、子供たちに教える云々がでてくるわけです。それはいいのですが、くまぶしはこのセリフから、ちょっと考え事をしたのでそれを書きます。
ふつうに考えると、「必要な悪などというものはないのだ」とか、「あるという人がいるがそれは間違いだ」、もしくは、「あってはならないのだ」とか、そういう意味だろうと思うわけです。
しかしながら、教えたくないなら教えなきゃいいじゃんと思うこともできます。つまり、このセリフをポエティックな表現として理解せずに、文字通りの意味として理解することもできるということです。そうすると、きむたくは政治の演説をしてるはずなのに、なんで子供に悪について教える話をするんだろうか?と思うわけです。高校の国語のテストとかだと、×にされてしまう理解のしかたですが、ある視点からすると、ここで関係ない話をしてるのはきむたくの方だということになるわけです。
そもそも、「教えたくない」ということは、どういう意味なのかしらん? 「本当はあるのだが、僕は子供にはピュアでいてほしいから教えたくない」という意味かもしれません。あるいは、「あるという人はいるが、僕はないと思っているので、子供には、あるという人の意見は教えたくありません」という意味かもしれません。でもそれはちょっとヒステリーな感じがします。「あるという人もいるが、本当はないんだよ」とか、「あるという人もいるが、僕はないとおもうよ」と教えるべきです。このように考えると、だんだんむかついてくるわけです。
こういう風に考えるのは、揚げ足とりですが、「悪」とかそういう概念の話をするときには、ちゃんと定義してからじゃないと、意味がわからなくなることはよくあります。まあ、きむたくのセリフは、政治家になろうとしている人のいうことですから、政治家的専門用語としてはもう定義されているのかもしれません。たぶん、法律で「犯罪」とされているものが「悪」なのでしょう。けれどそれなら、「悪」とかいわずに、「犯罪」といったほうが正確ですから、そういってほしいです。それに、子供に教える云々はどう考えても不必要です。
もしくは、きむたくにとって、本当のところは「悪」はどうでもよくて、単にごめんなさいということをポエティックにいってみただけなのかもしれません。もしくは、子供が好きだということをポエティックにいってみたのかもしれません。
ポエティックな表現には、そのようにいう以外にいいようがないもの(ポエジー)がなくてはいけないと思います。そうした効果が出るように、ポエティックな表現を使うことには意味があります。ポエジーの表現ではない、ポエティックなつもりの表現は、単なる曖昧で無意味な言明でしかないことが多いです。
正確な表現をすべきときに、ポエティックな表現でなにかをいった気になるのはよくないです。ドラマでもニュースでも、そういうポエティックな表現がでてくると、ちょっとうんざりします。人を殺した少年の「心の闇」とかね。
ちょっと、むかついたくまぶしの愚痴でした。それではさようなら。これからカウボーイビバップみます。
may. 12, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次
ひろみもドラマちょっとみました。
キムタクやっぱかっこいいな~って(´ω`*)
内容より眺めてただけ(´ω`;)
ポエティック・・・?
ひろみはまだまだ勉強不足です。
くまは、キムタク黒すぎと思った。
さーひんするからぶしね。
むっ、難しいです
本文から、コメントまで拝見させて頂きました。
が、難しいです。何回です…、間違えました、難解です。
そしてこの番組の制作側もそこまで難しく考えていないと思います。
って、このドラマ見てないので想像ですが(適当発言)
多分、もう少し単純に、
別の言葉を使えば「浅墓」につくっているのでは?
きっと、ドラマなどには、
それぞれテーマとかがあって、
言葉(セリフ)はその支柱たるテーマの周りに
ぶら下がるようにして、テーマの外骨格を形成している…。
だからセリフその物に定義付けはあまりされておらず、
どちらかと言えば、テーマに沿っていれば、または、
テーマから外れなければ、
ぶっちゃけ言えば雰囲気さえあれば(合えば)的に
綴られているのではないかと。
特にこのドラマを考えると、
キムタクを好んで見る視聴者層や
月9を見る視聴者層の事を考えてドラマ制作を
しているハズなので、
余計にそんな感じではないかと。
あっ、あくまでも私の感覚と言うか考えなので。
朝っぱらから長文でスミマセンです。
ありがとー
こんにちは。ねこさん、どうも。
昼まで寝てたくまぶしです。
もちろんくまぶしも、ドラマが一般に、軽い気持ちでつくられてることはしってます。だから、くまぶしみたいに文句をつけるのは、くまぶしの方がわるいのだということはわかっているくまよ('(ェ) ‘)
そもそも、テレビのドラマは、みんな気楽にみたいわけですから、あんまり非常識なことをいったら、うざいと思ってみんな見ないと思います。求められているものを提供するというのは商売の基本だものね。
だから、ねこじさんのいうように、お手軽なテーマにそって、常識的に違和感のない言葉づかいをしてつくらないと、スポンサーがいいといわないわけです。
ただ、くまぶしはくまなので、人間の常識からすると、非常識な世界に住んでいるわけです。それで、常識的な人が非常識な話を聞くと傷つくように、常識的な話を聞くと、「傷つく」ことがあるのです。(もちろんくまぶしは、そんな言い方はしませんが。くまぶしにとって、傷はクエポニです。いいわるいでいったら、わりといいことです。)
たとえば、ある犯罪事件について、その事件が常識的にいって理解不可能な事件、つまり、金のためとか、痴情のもつれとか、そういう常識的解釈が通用しない事件だったとします。(そういう解釈が成り立つと思われる事件だって、本当のところはわかりはしません。)
それで、ニュースとかで、少年の「心の闇」がどうのこうのとかいって、大げさに驚いてみせます。すると、みんな不安になります。それで、「人の痛みがわからないやつだ」とかいって、攻撃するわけです。死刑にしろとかいう人もいます。(これはたとえ話です。)
くまぶしはリベラル(これはちょっと冗談です)なので、別に、誰がどう思おうとその人の自由だと思います。だから、そういう風に攻撃したかったら攻撃したらいいと思います。死刑にしたかったらすればいいと思います。
ただ、「人の痛みのわからないやつは死んでしまえ」みたいなのを、あたかもそれが「正しいことなのだ」と主張するようなのは、ちょっとやな気がします。
「人の痛みのわからないやつのことがわからないやつ」は、本当にわからないから、殺してしまえと思うわけです。そういうやつがいるだけで、不安なわけです。結局、おんなじじゃないのかと思うわけです。
そういうやつは嫌いだから殺してしまえというなら、素直でいいと思います。これは意見ではなくて、感情です。断固たる偏見です。でも、常識的には、そういうことをいうとまずいことになっているから、「人の痛みがわからないやつ」とかいういい加減な概念を使って、あたかもそれが意見であるかのようにいうところが憎いのです。
そういうのをみると、そんなものは意見じゃないということを、あばきたくなってしまうのですが、これはくまぶしの悪い癖です。なるたけやらないようにしています。第一、人のあげ足をとるのは趣味が悪いですし。
実際のところ、普通の人は、なにが正しいことかとかは気にしないで、好き嫌いだけで暮らしてると思います。断固たる偏見で十分満足しています。だったら、素直にそういえばいいのにと思います。
あんまり詳しく説明すると、ちょっと自分でもいやな気になりますね。
こんばんわ。
私も見ました。
政治に無関心な教師が総理大臣まで上り詰める物語って、月9ぽいですなぁ。
くまぶしさんは「世間には必要な悪がある」にpoeticに思ったのですね。
なるほど~。
考えたことがなかったけど、言われてみるとこういう表現ってけっこう使われていて受側も気づいていないですね。
こんばんは。すばやくコメントがついててびっくりしました。どうもありがとー。うれしいです。
くまぶしは、ポエティックなのが悪いというわけではぜんぜんありません。てゆうか、くまぶしのいうことの方が、過度にポエティックだと思う人のが多いだろうと思います。クエポニなんて、ポエティックな表現以外のなにものでもないわけです。
きむたくが定義をちゃんとしなくて悪いといったわりには、くまぶしは定義をちゃんとしていませんでした。長くなってうざいだろうと思ったからです。でも、ちょっと卑怯な感じがするので、ぶかっこうなままですが、一応書いてみます。
極論すれば、言葉は、みんなポエティックなものです。それというのも、言葉の意味は、辞書に書いてあるものではなくて、その言葉が話されたり書かれたり読まれたりしたときに、初めて発生するものだからです。
くまぶしの言葉についての考えは、クエポニ存在論にもとづいたクエポニ言語論と、とりあえずいえると思います。つまり、言葉は、それが使用されたときに、その働きかける力(意味を意味する力)によって、初めて定義されるという考え方です。
原理的にいうと、そういうことなので、別にどのように言葉を使っても、それで意味があると感じられるなら文句をつける必要はないわけです。
ただ、以上のような原則は、ふつうに生きている人が、ふつうに生きる場面においてはそうだということです。簡単にいうと、うれしい時にうれしいといい、おいしい時においしいという場合です。誰かと会話するということは、通常、会話するという出来事に身を任せることだと思います。たとえばあいさつです。あいさつは、すること自体に意味があります。することによって意味が生まれるのです。それ以外にはほとんど無意味です。自分の内部に持っている意味を開陳するというよりは、話している人と人との間に意味が生まれるというイメージです。(ポエティックな表現ですいません。)
それに対して、意識的な言語使用、例えば、意見を述べるとか、主張をするとか、論文を書くとか、演説をするとか、そういった場面では、モナド存在論にもとづいた言語使用が一応求められると思います。どうしてかというと、そういったものは、「わたしの主張」だからです。(長くなるので説明できないですが、わたしの主張とわたしの感動は全然別のものです。前者はモナド、後者はクエポニにもとづいているからです。発信と受信の違いといいますか。)
意識的な言語使用がめざすことも、結局のところ、クエポニ(コミュニケーション)です。しかしながら、それは、ある「考え」を媒介にしたコミュニケーションなわけです。
「星の王子さまにおける「知ること」」の記事で書いたように、クエポニが起こるためには、そこを突破されたら危険だという自己同一性の限界を明確にしておかなければ、本当に突破することはできません。
順をおって記述すると、まず、自分の本当の意見なり主張なりを明確にすることが必要です。これは、自分を「そのような意見をもった存在」として、一旦定義してしまうということです。自分の存在を、「そのような意見をもっている主体」として、無理やりモナド化(限定)するわけです。
意見を主張するということは、その意見を槍みたいにして、別のだれかに突き刺すことです。これは、わりと暴力的です。リスクもあります。
暴力的なのは、他の人のモナドを破ろうとするからです。リスクがあるのは、自分の自己同一性そのものを相手にゆだねてしまう(明け渡してしまう、さらしてしまう)からです。禅の坊さんが、「はらわたまでさらけだしてしまったわい」と言う状態です。
ちょっと言い方をかえます。意見を明確にするということは、本来単なるモナド存在ではなない自分を、無理やりモナド存在へと限定することです。何のためにそんなことをするかというと、自分と、他の人のモナドの殻を破るためです。
モナドへと還元できない自分の全体を、全体のまま相手に渡すということは、とっても身近な人に対してなら可能でしょうが、たとえば今こうして書いているように、文章だけでしか伝える手段がない場合は無理です。だから、相手とコミュニケーションしようと思ったら、考えなら考えにおいて、主張なら主張において、文章なら文章において、詩なら詩において、自分を無理やりにでも表現しなければならないわけです。きちんと表現せずに、わかってくれというのはちょっとまずいと思います。
このような自己限定としての表現が成功すると、逆説的ですが、自分にとっては、それが新しい自分の創造(クエポニ)となります。自分が今まで知らなかった意見なり主張なりを持つことになるわけです。これは創造的な体験です。
中くらいの成功だと、自分が言いたかったことは、こういうことだったんだと、気づきます。創造性はちょっと少ないですが、ちょっといいきぶんです。自分の全体を、すこしはっきり知ることができるようになったからです。
失敗だったら、自分はその程度のやつだったと認めるしかありませんが、それでも何も言おうとしなかったときよりは、自分について知ることができます。だから、もっと素敵な意見を言えるように努力することができます。
以上は、自分の側の話です。もうひとつ、その意見なり作品なりは、他の人にむけて発信されたわけですから、それが受信されるかどうかも問題ではあります。
ただし、相手に届くか届かないかというのは、自分の意見が賛成されるか否定されるかということとは関係ありません。重要なことは、相手のモナドを破って内部に到達するかしないかです。とはいえ、対面して話している場合なら、相手の内部に届くかどうかは、話している二人にとって共通の問題ですが、意見や作品を媒介にしている場合は、とりあえずモナドとしての自分にはかかわりのない
話になると思います。
言葉だけを媒介にしたコミュニケーションの場合、モナドとしての自分にできることは、自己自身であるような言葉を生み出すことだけです。相手のモナドを破ろうとするのは、モナドとしてのわたしではなくて、わたしの分身である言葉です。だから、それが成功するかどうかは、モナドとしてのわたしの関心事ではなくて、言葉の関心事であり、かつ、言葉を受け取る側の関心事です。解釈学で、「作者の死」といわれるやつです。
結局、くまぶしの考えでは、意見なり作品なりという媒介物は、それを言う方にとっては、発信した時点で終わりなんだと思います。モナドとしてのわたしにとって重要なのは、それが届くかどうかではなく、発信しえたかどうかです。だから、なんらかの形で、誰かが読むかもしれないという可能性があれば、それでいいのだと思います。あとは、発信された言葉自身と、それを受け取るかもしれない誰かの問題です。
すごーく長いですが、せっかく書いたので、一応のせときます。もっとも、ブログというのは、ここまで厳密な言語表現ではない側面もあると思います。ちょっと会話的なところもありますね。
上に書いた長いやつは、ポエティックな表現と意識的な表現の違いについての定義です。
読み返してみて、最初にお返事で書こうと思ったことを書いてないのに気づきました。失敗ぶし。
いい加減にしろと思われるでしょうから、簡単に書きます。
「世間には必要な悪がある」という発言は、きむたくのお父さん(議員)がいった言葉を、きむたくが解釈したものですが、きむたくはお父さんの言葉をそう解釈した上で、「世間には必要な悪なんてないんだ」というわけです。
この二つの立場は、噛み合っているのかもしれないし、噛み合っていないのかもしれません。
きむたくのお父さんは、「政治には金が必要だ」といったわけで、文脈からしてこの金というのは「不正献金」のことだろうとは想像がつきます。しかし、お父さんが「不正献金」を「悪」であるといっているかどうかはわかりませんし、そもそも「悪」が必要とか不必要というのも変な話のような気がしますし(くまぶしは、神義論があまりすきじゃないのです)、要するに、「悪」とは何かがまったく問われないままに、「悪」がどうだこうだという話になってしまうわけです。
だから、本文でポエティックといったのは、実は、本当にポエティックだと思っているというよりは、あいまいだということを揶揄していったわけなのです。
もちろん、くまぶしも、こういう話し方は、常識的なんだろうとは思います。だから、ふつうの人がそういう風に話していても、別になんとも思いません。常識というのは、共通理解のことで、それを共有する人たち全体を包むモナドの殻なわけです。あいさつみたいなもので、それ自体に意味があるというよりは、それを使うことに意味があるものだからです。
けれど、きむたくの態度は、常識の側について、彼の解釈(つまり常識的解釈)によれば「悪」であるとされるお父さんを弾劾するというものだったので、くまぶしはちょっと、なんだこのやろうと思ったわけです。つまり、自分は集団的ATフィールドによって守られている場所から、その外部にいると解釈されるお父さん(その解釈も、自分でしたのではなく、他の人がした解釈をうのみにしただけです)を、一方的に攻撃しているところに腹が立ったのです。
で、なんのために彼がそんなことをしたかというと、自分がお父さんと一緒にされるのがやだと思ったからです。外にいると思われないためには、外にいる他の人を攻撃するのが一番だというわけです。
しかも、よく考えていないから、自分の行動がそういう意味を持つということに、気づかずにやっているわけです。
それで、あべかんに、正直にあやまってえらいねと思われたりするわけです。
まあ、実は政治家としてはすごい才能なのかもしれません。トレンドフォローだぶしね。
くまぶしは、逆張りがだいすきなので、トレンドフォロワーに対しては、どうしてもひねた見方になってしまうのです。
また長くなりました。ひかないでね。たんたんさんが書き込みをしてくれたのをみて、ちょっと考えてたらねられなくなったので、だらだら書いてしまいました。
ちょっと眠いので、理屈っぽくなってます。まあ、コメント欄だからいいかな。くま。
それじゃ、おやすみなさいぶし。