こんにちは。寝違えて首が痛いくまぶしです。
今日は前々回のつづきです。あした書くといって、あさってになりました。まあいいでしょう。くま。
こないだの話では、いわゆる「現実」というのが、人間たちによって共有され、「使えるもの」である限りにおいて、価値を持つ(存在する)ものであるということをいいました。お金とかのことですね。今日のお話は、そういう「現実」が発生する仕組みのことです。お金の例が簡単なので、これも、取引のことを例にしてお話します。くま。
「使える」ということは、お金が実際に使えるというように、役に立つという意味ですから、こうした有用性というのも、一種の力(働きかける力)でないわけではありません。そういうわけで、お金持ちとか、政治家とかは、他の人に対して押し出しの強さみたいなものを感じさせることもあるでしょう。しかしながら、お金の働きかける力は、実体としてのお金、つまり、お札とか硬貨に内在しているわけではなく、通貨システムに由来するものです。
「現実」のこうした構造は、ふつうに説明すると、弁証法的なものだということになると思います。つまり、まず、みんなが「価値がある」と思うことがあって、「価値がある」とみんなが思っているから「使える」わけで、そして、「使える」わけだから「価値がある」とみんな思うというふうに、相互に作ったり作られたりする関係にあると説明されることが多いと思います。
簡単にいうと、みんながお金には価値がある(使える)と思っているから、価値があるわけです。そういう意味では、お金の価値の源泉は、人間たちの総体的な思い(考え)なわけです。だから、お金における「価値」とか、お金のような「現実」というのは、実は一次的なものではなくて、二次的なものだということができると思います。それで、問題になるのは、人間たちの思いはどこから出てくるかということです。
もちろん、ここで二次的なものだというのは、一次的な価値とか存在とくらべてのことです。それで、くまぶしが一次的な価値とか存在と想定しているのは、「もの」だったら、その「もの」自体が、人間に対して直接的に働きかけてくるような「もの」のことで、ようするにクエポニ存在のことです。たとえば、食べ物とかは、わかりやすくそうです。
樺太にいるくまぶしの仲間たちは、毎年秋になると、川に行って、のぼってきた鮭をくま食いします。しかも、鮭はどんどんのぼってくるので、はららごだけちゅうちゅうして捨てたりします。ぜいたくな秋の楽しみです。鮭はうまいですが、卵の方がもっとうまいわけです。
くまにとって、鮭は価値であり実在ですが、鮭の卵はもっと価値であり、もっと実在なわけです。それは、鮭の身よりも卵の方がうまいから好きだという意味です。くまたちは、別に、鮭の卵の方が鮭の身よりもうまいと、「信じている」のでも「思い込んでいる」のでもありません。事実としてうまいだけです。くまにとっては、うまいものは実在しているもので、実在はそれ自体が価値なだけです。
もっとも、人間は、くまは動物でばかだから、本能のままに生きているだけだというかもしれません。それはまあ、そうともいえるのですが、だからといって、人間が何かに対して、それ自体の価値(実在)を感じることと、それほどの違いがあるわけではないと思います。
お金にしても、そもそものはじめは、貝殻とか、素敵な石とか、お米とか、貴金属としての金(ゴールド)とか、そういうものが始まりだったわけです。そうしたものは、例えば、キラキラしてて素敵だとか、米だったらすごいうまいとか、それ自体としての価値があると感じられたからこそ、お金を使い始めた最初のころの人間は、それらを、他のそれ自体で価値があると感じられていたものと取り換える気になったのだと思います。
こうした感覚は、最近まで残っていて、例えば金本位制などというのは、紙幣が、それ自体で価値があると感じられるものではないので、「金」の代わりなんだから大丈夫なんだよという安心感が必要だったのだと思います。実際、ドルが安くなったときに、アメリカ人が欲しがるのは「金」なわけです。最近は原油も買われます。もちろん、投機目的の金とか原油いうのは、買った人がそれを自分の家に持ってくるわけではないですし、単に投機対象として魅力的だから買うだけのことではありますが、それでも、「もの」としての実質を持っているという点で、「政府の保証」しかない通貨よりも、なんとなく安心感が感じられるから、経済危機の時に買われるのだと思います。
要するに、くまぶしがいいたいのは、「何かの役に立つから便利」という価値の源泉は、鮭はうまいとか、米がうまいとか、映画がおもしろいとか、そういう、自分に対して働きかけてくるものの、それ自体の価値から発生したのだろうということです。
つまり、あるものを、すてきとか、おもしろいとか、かっこいいとか、そういう風に感じるということが根本にあって、これこそが価値の原初的体験なわけです。それで、そういう素敵なものは、みんなだいたい同じように素敵だと思うので、ほしいなあと思うわけです。それで、ちょうだいというわけですが、ただではくれません。それで、代わりになんか素敵なものをくれよといって、取引が始まるわけです。取引は、ある人とある人が、あるものとあるものの素敵さを比較する(判断する)ということから発生するのだと思います。
それで、いろんな人が、自分が素敵と思うものを、他の人が素敵と思うものとくらべて、別の素敵なものを手に入れます。すると、今まで知らなかった素敵なものを体験できるわけです。これは、ただのモデルで、歴史的な話ではありませんが、二次的な価値の発生する仕組みはたぶんこういう感じだと思います。
それで、こういう物々交換を繰り返しているうちに、人間の間に、これはみんなが素敵と思ういいものだというコンセンサスができてくるわけです。原初的な意味でのお金というのは、こういうコンセンサスによって成り立っていると考えられます。原初的なお金というのは、貝殻とか黒曜石とか宝石とかですが、これらは、小さくて持ち運びに便利で、わりあい誰にとっても魅力的なものだったからこそ、みんなが感じている一次的価値を測る尺度になりえたのだと思います。
まとめます。
多数決で決まっているかのように見える「現実」とか「価値」というものも、そもそもは、ひとりひとりの人間が、自分はこういうものを素敵と感じるよという体験を、他の人に話したり、取引を通じて吟味したりすることによって、みんなが、なるほどこりゃ素敵だと納得したものであると思います。だから、そういう「価値」とか「現実」というものは、一見、人間たちが自分たちで決定しているかのように見えますが、もとを正せば、人間にそのように感じさせるものの力が、自身の「価値」を決定したり、自身の「実在」を証明しているのだと思います。価値のコンセンサスというのは、教育的価値はあるでしょうが、それでも結局、教えられた人自身が、本当にそのものには「価値」がある、これは「実在」だと感じなかったなら、そもそも共有されなかっただろうと思います。
ちなみに、くま宗教学では、そういう力を感じる体験を、ヒエロファニー(聖なるものがあらわれること)といいます。体験される実在とか価値というのは、聖なるものなわけです。
jun. 17, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次