こんばんは。くまぶしです。今日は、こないだの話の解釈をします。

童子は、爐ばたを叩きながら、「羨ましや、カムイなれば、水を汲まず」といいます。つまり、カムイというのは働かないわけです。これはたぶん、わりと本質的なことだと思います。

童子は最終的に、「月の中の人」になってしまいました。要するに働かなくてよくなったわけです。お話では、「神罰」といわれていますが、願いがかなったともいえます。

アイヌ(人間)は、死んだらカムイコタンにいきます。つまりカムイになります。童子は少しせっかちだったと思います。 (正確には、カムイコタンに行くわけではなくて、死者の国に行くようですけど、この世から見てあの世という意味では、死者の国では、だいたいカムイっぽい存在様態をとっているのだろうと思います。)

童子はカムイの本質を「働かないこと」として理解しました。これは間違いではないですが、やっぱり偏見でもあります。どうしてかというと、カムイの本質は、カムイらしさにあるわけで、「働かない」というのは結果的にそうだというだけのことだからです。

一方、「働くこと」というのは、アイヌらしさとはいえるかもしれませんが、これも一面的理解です。どうしてかというと、アイヌもやっぱり死んだらカムイコタンに行くわけですから、その本質は、アイヌ/カムイなわけです。つまり、アイヌ的ものの見方では、アイヌとかくまとか鹿とかカムイといったカテゴリーは、それぞれ単独では考えられないもので、常に、くま/カムイとか、鹿/カムイとか、アイヌ/カムイという二つの存在様態が一致したものなわけです。

この二つはどうやら分けられないようです。つまり、くま/カムイはいるが、純粋なカムイそれ自身みたいなのはいないみたいです。だから、心身二元論的に、くまという肉体とカムイという魂があるわけではないと思います。

二つの存在様態というと難しいですが、これは要するに、一つのことに二つの意味、つまり、くま的意味とカムイ的意味や、鹿的意味とカムイ的意味や、アイヌ的意味とカムイ的意味があるということです。

基本的なこととして、まず、アイヌの世界とカムイの世界があります。もっとも、アイヌの世界といっても、アイヌも死んだらカムイコタンに行くわけだから、とりあえずこの世というくらいの意味です。つまり、カムイコタンからアイヌコタンへやってきて、そこでの生が終わるとまたカムイコタンへ帰ってゆくという仕組みは、アイヌもカムイも一緒です。とりあえずの視点(自己同一性)をどちらの世界に置くかが違うわけです。

さて、アイヌがカムイに対してお祭りをすると、おそなえのお酒やご馳走が、カムイコタンにいるカムイの元へとどきます。カムイのお家の窓から、酒の入った杯やらお膳に乗ったご馳走とかが飛んで入ってくるらしいです。カムイは大喜びです。どうしてかというと、カムイたちは働かないから生産手段を持っていないので、アイヌからの食物供給がないと、わびしい暮らしをしなければならないからです。

まあ、飢え死にしたりはしないみたいですが。はらへったぐうめしよこせぐうくまぐう。となります。

アイヌによくお祭りされているカムイは、物持ちになるので、それで近所のカムイをよんで宴会ができます。楽しい宴会です。それで、よくお祭りをしてくれるアイヌには好感をもって、ちょっと遊びに行こうかなと思うわけです。

そのとき、くま/カムイだったらくまの、鹿/カムイだったら鹿の体を身にまとって、人間の世界に遊びに行きます。動物の体というのは、カムイがこの世に現れるために必要な衣装みたいなものと考えられています。ただ、この体は、この世での体なので、カムイコタンに帰るときには、その体のままでは帰れません。星の王子様とおんなじだぶしね。カムイコタンは、天空か山の上か、よくわからないのですがとにかく高い所にあるようなので、重すぎて帰れないのだと思います。

それで、くま/カムイは、この世での姿としてのくまの体を、アイヌに置いていってくれるわけです。アイヌが狩りでくまをとらえたら、それはカムイコタンへ帰るくま/カムイが、置き土産としてくまの体をくれたということです。それで、アイヌは、くまを狩ったら、きちんとくま/カムイを送る祭りをしないといけないし、また、イオマンテもしないといけないわけです。(無礼に送り返すと大暴れします。)

さて、童子が考えている「仕事」というのは、アイヌ/カムイ存在における、二つの意味のうちの、アイヌ的意味の方です。

たとえば、「狩り」はアイヌ的意味のレベルでは仕事です。つまり、人間的意味のレベルに限っていえば、狩りを成功させるには、動物の習性をきちんと理解し、狩りの道具の使用に習熟して、仲間と連携しながらうまくやらなかったら獲物が取れるわけがありません。だから、くまの動物行動学的知識であるとか、狩り場の知識であるとか、狩りの方法論であるとか、そういった「科学的」知識についていえば、ふつうの現代人よりずっと正確な知識を持っていたはずです。

それにもかかわらず、狩りにはまた、カムイ的意味のレベルもあるわけです。つまり、狩りとは、カムイコタンに帰るくま/カムイから、くまの体を置き土産にもらうことだという意味です。 当然ながら、贈り物をもらうことは仕事ではないし、お礼をすることも仕事ではありません。つまりカムイ的意味においては、狩りは仕事ではないのです。この意味のレベルがある限り、アイヌはカムイだといえます。

一般に、例えば、昔の人が豊作を祈ってお祭りをしたことについて、今の人は、「彼らは科学的じゃなかったから神頼みをしたのだろう」と、なんとなく思うみたいですが、農作物をつくることに関して、農家の人は別にして、今のふつうの人が、昔の人より「科学的知識」を持っているかどうかははなはだ疑問です。昔の人だって、別に、神さまに頼みさえすれば米ができると考えていたわけじゃありません。きちんとした農作業をしなかったら、できるはずがないのは当然です。この場合も、人間的意味と、カムイ的意味の二つがあって、祭りをすることは、このカムイ的意味にかかわる問題なのです。

ちなみに、こないだ紹介したエリアーデの「聖と俗」では、この二つの意味のことを、聖と俗といっているわけです。もちろん、カムイ的意味が聖です。

それでは、カムイ的意味とは何かというと、基本的には、アイヌの場合には、「楽しく宴会すること」ですむと思います。ごしゅうせいの倫理とかいってもいいかもしれませんが、ちょっと大げさだぶしね。あと、倫理という言葉には、くまぶしはあまりいいイメージをもってません。偏見かもしれませんが。まあ、くまのいうことですから。

長くなったので、宴会についてはそのうち書きます。いっぱい書いて疲れたぶし。ご苦労様でした。くま。
Apr. 22, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

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