こんにちはくまぶしです。

たんたんがいくつかまとめてコメントをくれました。他の人も、わからないところがいろいろあるだろうと思います。めんぼくないくま。くまぶしも、わかりやすく説明したいのですが、いっきにぐぐっとわかりやすく話すのは難しいです。

だから、ちょっとづつ説明しようと思います。クエポニ存在については、前には理論的に説明しましたが、今日は、クエポニのイメージについて話そうと思います。

まず、クエポニという言葉は、中央アメリカのメシーカ人が話していたナワトル語という言葉で、(花が)咲くとか、(星が)光るとか、そういう意味の動詞です。どうしてナワトル語なのかというと、別に他の言葉でもよいのですが、たこ博士にメキシコの太陽の起源神話の話を聞いて、たいへんおもしろいと思ったからです。(ちなみにクエポニというのは、専門用語ではありません。日本でクエポニという概念を使っているのは、たこ博士とくまぶしだけだからです。)

その話です。サアグンという人の記録したのを、たこ博士が訳しました。

 世界が闇の中にあったとき、太陽がなかったとき、ものが照らされてなかったとき、神々はテオティワカンと呼ばれる場所に集まり話し合った。「神々よ来たれ! さあ、誰がものを照らし熱する役目を引き受けるだろうか?」するとそこにいたテクシステカトルという神が「神々よ、私が引き受けよう」と言った。神々はもう一度、「他に誰かいるか」と言った。…誰も答えなかった。前に進み出るものはいなかった。みなが怖れて、しり込みした。
 …そこにいたナナワツィンという神に、神々は言った。「引き受けよ、ナナワツィン」。この神はこの命令を静かに受け入れた。「神々よ、ありがたく引き受けます。」 
 こうして二神は苦行を始めた。テクシステカトルとナナワツィンは四日間断食を行った。それから火が据えられた。それは炉で燃え盛った。テクシステカトルが用意したものは高価なものばかりだった。ケツァル鳥の羽、金の器、貴石や珊瑚の針、そしてとても良い御香。かたやナナワツィンのものは、水辺の葦草、葦草で作った器、サボテンの針。それらには彼の血が塗られていた。そして御香には自分のかさぶたを焚いた…。
 …それから神々はこの二神に衣装を着せた。テクシステカトルには、サギの丸い羽と綿布の上着を与えた。ナナワツィンには、紙でできた髪留め、肩掛け、下帯を与えた。
 それから神々は炉を囲んだ。…神々は炉の両側に二列になり、その中央にテクシステカトルとナナワツィンの二神を立たせた。彼らは炉に正対し、炎を見つめていた。神々はテクシステカトルに言った。「さあ、テクシステカトル、炎の中に飛び込め。」
 テクシステカトルは火に飛び込もうと進み出た。熱が肌に達した。それは耐え難い熱さだった。炎は炉で激しく燃えた。炎は立ち昇った。テクシステカトルは恐怖した。後ずさりした。…実に四回も、テクシステカトルは火に飛び込もうと試みた。だができなかった。
 そこで神々はナナワツィンに叫んだ。「さあ、ナナワツィンよ、飛び込め!」 ナナワツィンは、覚悟を決めた。気持ちを強くした。目をしっかり閉じた。怖れなかった。ぐずぐずしなかった。たじろがなかった。後ずさりしなかった。火に飛び込んだ。その体は、燃えた、咲いた、音を立てて燃えた。・・・

そして出てきた、現われた、太陽が。
それは真っ赤に揺れていた。
その顔を見ることはできなかった、それは眩しかった。
それは激しくものを照らしていた、熱と光を放っていた。
その熱と光は、あらゆるところに広がった。
その熱と光は、あらゆるところに入りこんだ。

この話自体は、有名な話なのですが、たこ博士は、ナナワツィンが火に飛び込んだ時に、「咲いた(クエポニした)」といわれているところに注目して、クエポニするという言葉は、普通には花などが「咲く」と訳されているけれども、もっと宗教的な意味のある言葉なのじゃないかという論文を書いたのです。それで、くまぶしたちに見せにきたので、くまぶしたちの解釈学に取り入れてみたわけです。
たこ博士の論文を、1パラグラフでまとめます。メシーカ人の言葉の使い方によると、花が咲くこと、星が光ること、太陽が燃えること、(ナナワツィンが)火に飛び込んで燃えること、戦士が華々しく戦うこと(戦って死ぬこと)、王さまが即位すること、子供が成人すること、以上のようなことが全部、クエポニという言葉で表現されます。そして、このクエポニという行為は、メシーカ人にとっては、理想的な行為、生のモデル、簡単にいえば、「すごくかっこいいこと」として考えられているわけです。

さて、ここからはくまぶしの解釈学になるのですが、以上のようなメシーカ人の理想は、世界の宗教の歴史という視点からみると、なにもメシーカ人だけに限ったことではありません。たとえば、日本でも、武士が腹切りします。腹を切ることは、いろいろな意味があるでしょうが、ひとことでいえば、腹だって切れるぞという勇気が問題なのだと思います。討ち死にすることも、華々しく散るといいます。花のイメージなのです。「咲く」ではなくて「散る」ところが日本的ですが。以上は、戦士的な宗教性といってもいいかもしれません。血がビューと吹き出したりするところが、花が咲くこと(散ること)に似ています。切腹の作法として、内臓をつかみだして投げるというのもあります。すごいいたそうですが、そういうことができる状態の人間は、神的なのです。別の言葉でいうと、「ものすごく生きている」のです。これは、燃えている太陽が「ものすごく生きている」と感じられるのと同じように、「ものすごく生きている」のです。太陽は、自分を激しく燃やしながら、「その光と熱を放って」います。そして、太陽が放つ光と熱は、「あらゆるところに」、つまり諸存在(モナド)の中に侵入してきます。つまり、モナドとしての諸存在は、太陽的存在(クエポニ存在)に侵入されることによって、窓が開く(自閉状態でなくなる)、つまり、「生きる」ことができるわけです。

ちょっと古いですが、ザ・イエローモンキーに「太陽が燃えている」という歌があります。この歌では、「愛」と「花」と「太陽が燃えていること」が同じこととして歌われています。さびのところで、

太陽が燃えている ギラギラと燃えている
二人が愛し合うために 他に何もいらないだろう

とあります。「愛し合うこと」というのは、「君のからだの中 僕のからだの中 太陽が燃えてる」ということで、この歌の場合は、これが「生きること」だといっていいでしょう。反対に、愛し合わない状態は、太陽的ではない、つまり「生きていない」わけです。

こうした「生きている」状態を存在することだとする態度は、哲学的にいうと、ライプニッツのモナドロジーに代表される存在論の否定です。つまり、腹を切ることというのは、自分はモナド(コギト)ではないということを証明することなのです。ライプニッツ的にいうと、モナド(自閉した自己=コギト)に無理やり窓を開けることです。

もっとも、戦士的な理想というのは、過激で乱暴です。イエモンの歌もわりあい乱暴です。けれど、クエポニ的存在を典型的に表現していると思います。

戦士的でないクエポニの例としては、例えば仏像がそうです。仏さまはだいたい蓮華座というのに座っています。つまり、ハスの花が咲いた上に座っているわけです。これはどういう意味かというと、くまぶしの解釈では、仏さまは、ハスの花が咲くように、この世にあらわれる(存在する)という意味になります。もうすこし詳しくいうと、仏さまというのは、「咲くもの」なのです。造花ではなくて、生きた花なのです。だから、仏さまにお花を供えるわけです。もっとも、今は造花で済ませてしまうことが多いですが。造花というのは、花の存在を固定化しようとするものです。つまり、花のモナド性(永続する存在)を強調すると造花になるわけです。同様に、灯明も、神社でも寺でも、今はろうそく型の電灯を使います。これもよくありません。どうしてかというと、ろうそくの炎は生きていますが、電灯の光は生きていないからです。炎はちろちろと動いている生き物です。バックドラフトでもそういっていました。ろうそくの炎は、ろうそくを食べながら生きている光なので、ろうそくが尽きたら死ぬわけです。ろうそく型の電灯も、造花も、ずっと死なない「存在」ですが、それは生きていないから死なないだけの話です。

さて、長くなったので強引にまとめます。まず、くまぶしのいうクエポニ存在というのは、簡単にいえば「生きている」と感じられるものです。特に、神さまとか仏さまというのは、太陽のように、普通のものよりも、「ものすごく生きている」と感じられるものです。こういうものを「聖なるもの」といいます。もっとも、神さまとか仏さまには、単純にクエポニ的であるというだけではない側面もありますが、それはまた別のときに話します。とにかく、お祭りのときとか、お参りしたときとかに、神さまとか仏さまとかが、「ものすごく生きているもの」としてあらわれたなら、それは神さまが、クエポニ存在として存在しているということです。
may 28, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

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