昨日は、クエポニ存在のイメージを、いくつかの典型的な事例から提示してみました。理論的な説明より、ちょっとはわかりよかったらよかったんだけど。
今日は、昨日のつづきで、クエポニ存在とモナド存在の関係について話そうと思います。

クエポニ存在の反対は、モナド存在です。
クエポニはだれも使わない言葉ですが、モナドはわりと使われる言葉なので覚えておいて損はありません。もっとも「モナド存在」とかいう言い方はないでしょうけど。
モナド存在というのは、「存続する、永続する」存在です。一般には、お祭りしてるとか、お参りしているとか、そういう特別な状態(クエポニ状態)でない日常において、ふつうに「存在している」と思うときの存在です。仏像も、そうした視点から見ればただの像です。つまり、ずっと存続するもの(モナド存在)です。クエポニ存在としての「仏」を、「仏像」という固定した形で表現することは、だから、クエポニ存在をモナド存在として表現してしまう危険性を常にはらんでいます。キリスト教で神の像をつくってはいけないというのは、そうした危険性を避けるためです。仏像におけるこうしたジレンマは、芸術におけるジレンマと同じだと思います。

たとえば、岡本太郎は、芸術はバクハツだといいます。彼は、バクハツ(クエポニ)存在を表現しているわけですが、実際に作られるものは、モナド存在でもあるわけです。だからそれを、仏像をただの像とみなすことが可能なのと同じように、モナド存在としてのみ見ることも可能です。そういう見方が可能だということを知っているからこそ、太郎はくどいほど「バクハツだ」というわけです。しかし、言葉で説明してわかってもらおうというわけではないと思います。太郎は創造する人ですから、創造されたもの(モナド存在)で勝負しなければなりません。くまぶしは、太郎の絵はふつうに好きですが、彫刻の方が大好きです。太郎の彫刻は、椅子とかオブジェとかですが、「ほれ、さわってみたいだろ」といっていると感じます。前に、保育園に行ってる姪と一緒に、岡本太郎美術館に行ったことがあるのですが、姪もやっぱり、面白い形をした椅子とかをみると、目がらんらんと輝くのでした。それで、くまぶしに、「すわっていい?」と聞くのですが、悲しいことに太郎美術館では、だいたいの椅子に座ってはいけないことになっているのでした。これにはくまぶしもだいぶフラストレーションがたまりました。それで、座っていい椅子があるコーナーにいって、二人で思う存分座りました。

太郎は、だいぶ老人になってから、諏訪の御柱祭を見に行ったそうです。御柱祭では、山出しといって、山から切り出した大きな柱を、ごろんごろんと落とす祭りがあるのですが、太郎は、人々が落下する柱に乗っているのを見て、自分も乗りたい乗りたいといって周りの人を困らせたそうです。このとき太郎には、転げ落ちる柱が、クエポニ存在として、すごく生きているものとして、爆発しているものとして、つまり神さまとして見えたのだと思います。それで彼は、どうしてもその柱に乗りたいと感じたのでしょう。

つまり、太郎は、クエポニ存在としての柱を見ることによって、自分もクエポニ存在になってしまったわけです。昨日の話で、ナナワツィンが太陽になって、その太陽の光と熱がすべてのものに侵入するように、そこにあるクエポニ存在は、それを見ているモナド存在の自己同一性を破って侵入してくるものです。それで、侵入されたモナド存在は、「窓が開いた」状態になって、もはやモナド存在ではなく、クエポニ存在になってしまうのです。

既にしてクエポニ存在になってしまった太郎は、柱につぶされて死ぬかもしれないといった考えは思いつかないわけです。思いついたとしても、そういうことはどうでもいい問題になってしまっているわけです。なぜなら、転げ落ちる柱こそが「生きている」わけですから、その柱に乗らないなら、自分は「生きていない」ことになるからです。しかしながら、モナド存在としての彼は、老人ですし、柱から落ちたりしたらすぐ死んでしまうかもしれません。それで、太郎をモナド存在として見ている周りの人は、乗らないでくださいと頼むわけです。実際のところ、彼が柱に乗ったのか乗らなかったのかは忘れてしまいましたが、確か乗ったんじゃなかったかと思います。太郎美術館で、展示物に触らないでくださいというのは、太郎に柱に乗らないでくださいと頼んだ人たちに違いないと、くまぶしは思っています。

まとめます。くま解釈学で、クエポニ存在とかモナド存在とかいうのは、ある「もの」が、時と場合によって、クエポニ存在として体験されたり、モナド存在として体験されたりするという意味です。簡単にいえば、すべての「もの」は、二つのレベルにおいて「存在」しているわけです。(アイヌにとって、くまがくまであると同時にカムイであるように。)
本当の「もの」というのは、モナド存在であり、かつクエポニ存在である「もの」のことです。前に、ヒエロファニーという言葉の説明をしましたが、ヒエロファニーというのは、本当の「もの」に出会うことです。太郎のつくる「もの」が、モナドとしての「もの」でありつつ、それにもかかわらずバクハツを感じさせるなら、それはそのときヒエロファニーが起きているということで、太郎が本当の「もの」を創造したということだと思います。仏像だったら、モナドとしての像でありながら、人々を救おうとして歩き出すことがあるわけです。その時、仏像は仏になっているわけです。
may 28, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

2 comments on “36.クエポニ存在とモナド存在の関係のイメージ(昨日のつづき)”

  1. クエポニ、モナド、まだ、はっきりと理解できてないです。
    すっごく説明してくれてるのに申し訳ないです~。
    ('(ェ)’;)う~ん・・・。
    こういうのって数学みたいに、はっきり答えがでないかんじが、なかなか理解しにくいのかな。

    岡本太郎氏の「芸術は爆発だ」というのは、芸術とは1つ1つの作品が爆発なのだと。爆発したら、終わり。そして新しい爆発が起こり、そして終わり、そしてまた新しい爆発が起こり。。。の繰り返しなのだとスカパーで生前の本人が語っていましたよ。

    • おほ。太郎も永遠回帰だぶしね。

      太郎が、一つ一つの作品が爆発だというのは、作品を作ることが爆発の体験(クエポニ)で、その体験は作品が完成したらおしまいだという意味です。これはつくる人(太郎)の視点です。

      作品が完成するということは、一応、完全なものができたということで、つまり、一つのモナドとして完成したということです。だから、完成の瞬間は、爆発の頂点であり、同時に爆発の終了であり、また、新しい非-爆発(モナド)の始まりでもあります。

      神さまが現れることも、基本的には太郎がいうような永遠回帰的爆発です。ある爆発が、「神さま」というモナドとして出現することだからです。神さまの出現は、一回一回がそれぞれ爆発だということですね。くま。

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