こんばんは。くまぶしです。

今日の「もっちり占い」は、存在運上昇で、「大存在の映画を見て興奮するでしょう」といってました。何のことやらわかりませんが、とりあえず今日も存在論の話をしとこうかと思います。ちなみに、さっき、蘇る金狼を見ました。「大存在」の映画だったかな?

前回のお話は、小説とか映画とかのいわゆるフィクションにおける「存在」と、いわゆる現実世界における「存在」とを、働きかけてくる存在であるクエポニ存在と、持続する存在であるモナド存在とに分けて考えてみるという話でした。今日はそのつづきです。

今日のくまぶしの主張は二つあります。一つは、いわゆる「現実」とされていることも、フィクショナルなものであるということです。もう一つは、いわゆる「現実」とされているフィクションと、いわゆる「フィクション」とされているフィクションとの違いについて考えることで、「現実」とされているフィクションを定義してみることです。

狭い意味でのフィクションは、小説とかマンガとか映画とかゲームですが、広い意味でフィクションという言葉を使うなら、人間によって意味があると感じられるものは全部フィクションだということもできます。たとえば、民主主義とか、人権とか、お金とかです。もっと簡単なものでもいいです。たとえば、コップとか車とか羊とかです。要するに、言葉でいうことができるものは、すべてフィクショナルなものだということです。どうしてかというと、コップという言葉は、コップという言葉が指し示すものの意味だからです。

今ちょっと買い物に行って、玉子を買ってきました。156円でした。玉子が1パック156円というのがフィクションだということは、みなさん別に文句はないと思います。仮にそのように値段をつけたということだからです。明日には違う値段になっているかもしれませんから。156円というのは、ある側面からみた玉子1パックの意味です。たとえば、アメリカで、玉子1パックを156円で売ろうとしても売れません。円を使っていないからです。だから、156円というのは、日本でしか通用しない意味です。同じように、玉子という言葉は、鶏が産んだ楕円形の白い物を、ある側面(食べる物としての側面)からみたときの意味です。これも日本語ですから、日本でしか通用しません。アメリカでは、エッグといわなければ通じません。

さて、以上のような広い意味でのフィクションは、ふつう「現実」だとされています。こうした広い意味でのフィクションと、こないだお話した狭い意味でのフィクションとは、どういう点で違うかというと、「現実」とされるフィクションは、それが働きかけてくるから「存在」するとされるわけではなくて、それが使えるから(共有されているから)「存在」するとされているところが違います。たとえば、アメリカで玉子が156円で売れないのは、アメリカでは円を使うというフィクションが共有されていないからです。代わりに、ドルを使うというフィクションが共有されているので、アメリカにおいては、ドルを使うというフィクションが「現実」であり、円を使うフィクションは、「現実」ではないわけです。

もっとも実際には、アメリカ人も、日本人が円を使っていることは知っています。つまり、日本においては、円を使うフィクションが「現実」として通用していることを知っているわけです。だから、アメリカ人が「円を使う」というフィクションを、単なるフィクションではなく、日本においては「現実」なのだと思ったなら、ドルと円を両替してくれるでしょう。インフレというのは、お金が「使えなく」なっていくことですから、フィクションとしてのお金の現実感が少なくなっていく現象だといえます。インフレになると、お金(紙幣)は「紙くず」になってしまいます。これは、「現実」とされていたフィクションが、ただのフィクションになってしまうということなわけです。

ところで、前の回にお話した、いわゆるフィクションでは、それが働きかけてくるから「存在する」と感じられるのだといいました。こうした狭い意味でのフィクションを、「現実」とされるフィクションと比べてみると、次のようにいえると思います。つまり、狭い意味のフィクションは、それ自体が目的であるのに対して、「現実」とされるフィクションは、それ自体が目的というよりは、それが私たちの役に立つかどうかで「存在」するかどうかが決まるものだといえると思います。あるお話が、リアルなものだと感じるのは、自分がそのお話を聞いたときに、わくわくしたりじーんとしたりするからなわけです。その作品の価値(クエポニ存在としての価値)は、その作品自体によって決まります。本とかDVDなど、ものとしての作品に値段を付けることはできますが、作品において語られている出来事はプライスレスです。つまり、高いからいい作品だとか、安いからつまらない作品だということにはなりません。人によっても違います。ある人にとってすごく働きかけてくるものが、誰にとってもおもしろいとはかぎらないわけです。

最後に、いわゆる「現実」とされているフィクションは、それが通用する限りにおいて、つまり私たちの役に立つ限りにおいて、意味を持つようなフィクションです。つまり「現実」は、通用性という点から判断されるべきものですから、たくさんの人に通じるフィクションの方が、少数の人にしか通じないフィクションよりも「価値」があるということになります。だからいわゆる「現実」は、基本的には多数決で決まるという性質があると思います。

今日はこれでやめますくま。おやすみなさいぶし。
jun. 11, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

2 comments on “41.使えるフィクションとしての「現実」”

  1. こんにちはー。
    くまぶしさんのお話は、とても面白い発想をするから好き。
    多数票に価値があるは、当たり前の事な筈なのに気が付かなかった。
    世間に馴染めても、それが正解とは限らないかもよ。
    ところで、たまに出てくる、たこ先生、ロバ先生やカッパさんはどうしてなのか、気になっていて、とりあえずかっぱさんを考えてみました。
    ●単におかっぱ頭=かっぱ
    ●頭のてっぺんが若干薄い
    ●胡瓜が好き
    ●肌が緑色
    この中に正解はありますか。

    >まりんごさん、こんちわー。
    コメントしないけど、ブログ見てるよ!

    • こんにちは。くまぶしです。

      「価値」とか「現実」とかいうふうに、カッコに入っているものは、一応、「一般にそういわれているところの」、という意味です。念のため。

      ちょっと忙しいのでさぼってますが、実はこの話には、あと一回つづきがあるのだ。くま。

      明日にでも書こうかと思っています。

      かっぱのことは、今日の記事に書きます。くま。

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