縫殿です。軍師官兵衛みた。(実はわりとみてるw)
大友家再興の夢をかけて、(西軍がどれだけ本気で大友さんに期待してたかはわかりませんが)、いよいよ石垣原の合戦、井上九郎右衛門の見せ場です。
もっとも、合戦シーンはかなりいただけなかった。
とはいえ、いつもは合戦シーン自体がなく、陣屋でだべってるっていうか怒鳴ってるところだけ、ひどい時だと会話かナレーションで済まされちゃうわけだから、あるだけましってことかな。
大友家は、文禄役で小西行長を見捨てて撤退したのを怒られて改易、義統は謹慎してたんですが、秀吉が死んでから、いちおう豊臣家(秀頼)に仕えるという形になって、たぶんいくらかの捨扶持をもらって大阪にいました。
で、関が原のとき、勝ったら旧領復活させてやっから、いっちょがんばってこいといわれて、豊後に上陸して、立石というところに陣して旧臣を呼び集めて、杵築城(木付城)というお城を攻撃しました。
杵築城は細川忠興の飛び地領でしたが、大友勢は9月10日に攻撃をしかけて失敗、と、如水が救援(後巻き)に来るというので、城攻めをいったんやめて立石まで後退して、9月13日に石垣原で野戦になったというわけですね。
で、ドラマではなんか、釣り野伏みたいなことを黒田が仕掛けたのかなんなのか、よくわかんないんだけど、細い道の両側にモコミチたちが潜んでるところに、大友勢がわーって走ってきて、しまった待ち伏せされた!って、バタバタやられてたんだけど、いくらなんでも見えるでしょそれ?って感じでした。てか、ばらばら走ってくんなよ。
まあテレビなので画面が狭いからしょうがないのかね?
あと、ドラマでは、「かかれー」とかいって、すぐに「わーっ」って走り出すんですが、あれもやめてほしい。クローズとかのケンカシーンみたいであるよ。
まず鉄砲・弓の撃ちあいで、その後に攻めかかる時は、陣太鼓にあわせて長槍組がそろって進んでいって(走っちゃダメ)、バシバシたたき合うというのが普通です。
足軽の長槍は、突くのではなくて上から殴る。で、脳震盪を起こさせるんですね。
これは馬上の武士でも同じことで、完全武装した人というのは、たいていの事では怪我しません。
近くから鉄砲でも撃たれたらさすがに怪我しますが。
だから、殴って倒すとか、組みついて倒すとかじゃないと、討ち取ったりはできないもんですね。
常山紀談「黒田大友石垣原合戦の事」によると、まず、黒田勢の先陣は、久野治右衛門という若者でした。で、若者だったので、曾我部五左衛門という人が付けられてたんですが、久野君は敵陣を見るやいなや、
「かかれー!」
と下知してしまいます。これは確かにドラマみたいですねw(ちゃんとした黒田軍は長政が連れて上方にいっちゃってたので、兵も指揮官も人がいなかったんでしょう。井上・栗山・母里あたりはいましたけど、ぶっちゃけ残ってたのは老人と若者だけだったと思われます。)
曾我部さんはあわてて、
「今しばし待たれよ、はやらば勝利候まじ。おり立ちて馬に息つがせ、一同にわりごつかはせ、後に味方のつづかん時衝きかかり一戦すべし」
といいました。わりごというのは弁当のことね。
久野君の家来の荒巻軍兵衛という者も、
「五左衛門が詞尤もなり。馬にあて倒し蹴ちらすと申は敵によるべし。けふの敵は国替の時よくしりたる者にて皆物しなり。近年落ぶれて此の乱を死すべき時節と思ひ定め、槍を膝の上におきしづまりゐたる所へ、一騎二騎ばらばらとかけ合せんにいかで勝べきや。」云々
訳(五左衛門の言うとおりでさあ!馬でぶつかって蹴散らすってのは、どんな敵にも通用するってわけじゃないんですぜ。今日の敵は、あたしゃ国替えのときに会ってるんでよく知ってんですが、みんなひとかどの物師(老練な戦上手)でさあ。で、そいつらが落ちぶれて、この乱に乗じて死に花を咲かせようって待ち構えてんだ、そんなとこへ、ばらばらと突っ込んでったんじゃ勝ちっこありゃあしませんぜ!)なぜか江戸っ子風。
要するに、ソロ凸ダメ!って言って止めたんですが、平田某という者が、「敵は杵築城を攻めてたんだから疲れてるじょ、すすめ、すすめー」と言ったら、荒巻が怒って、「てめ、平田のくせに何を言うか、前にお前、戦場で俺に殺されそうになった時、かわいそうだからって助けてやったのを忘れたか」と言って、なぜか自分が馬に乗って敵陣に突っ込んでいってしまいます。
この辺の気の短さはいかにも戦国の人っぽいですね。
荒巻は突っ込んだら負けるとわかってたから久野君をとめてたのに、同僚(後輩)の平田某が久野君に同調する意見を言ったら、あたかもそれが間違ってることを示そうとするかのように、怒って自分から突っ込んで行ってしまうわけです。(もっとも、荒巻やら平田やらは、旧大友系の家臣(陪臣)っぽいので、大友勢と戦うことに複雑な気持ちがあったのかもしれませんね。)
で、荒巻に続いて二十騎ばかりが突っ込んでいって、三陣に展開して布陣していた大友勢の一陣を押し込みます。それを見た久野君は、恐れ知らずの若者なので、一文字に乗り込んでって戦いましたが、大友勢に囲まれて討ち取られてしまいました。
曾我部さんは、久野君がやられたところへ突っ込んでいって一緒にやられてしまいました。
平田は久野君がやられたのを見て引き返しましたw
荒巻は、敵に包囲されそうになったので、まわりにいた者を集めて、討ち取った首を捨てさせ、自分が殿(しんがり)をして退却しました。(彼は久野君が死んだことをしらなかったようです。)
で、黒田の先陣が負けたところに、ようやく第二陣の井上九郎右衛門が到着します。
井上は小山に登って敵の様子を見て、馬から降りて徒歩立ちで戦うようにいい、
「敵かかるとも相がかりすべからず。待ち軍(いくさ)して突き崩したりとも足を乱して追べからず」
と命令して、「しづしづとおしかかる」。
で、石垣原の真ん中には、高さ3m、長さ600mくらいの石垣(土居)があったらしいんですが、井上君は、この石垣を取ればこっちが有利だと思って、石垣を取りに行きます。と、向こうも同じことを考えていたらしく、石垣を乗り越えようとしていたので、これを突き崩して撃退します。で、井上君は、味方の兵が逃げる敵を追おうとするのを、「槍を横たえ押しとどめ」ました。
それを見た敵の大将の吉弘加兵衛は、
「こうなったらもう負けだ。敵が勝ちに乗じて足並みを乱して追っかけてきたところを撃退しようと思ってたのに。もうこうなったら討ち死にしよう。」
といって、二千人ほどでしづしづと攻めかかってきました。
井上君はこれを見て少しも騒がず、折敷いて相掛りもせず、敵がすぐそばに来るまで待って、攻めかかってきてから応戦しました。
大友勢がたまらず100mほど撤退しても追撃せずに待ってます。で、また大友勢が攻めかけてきたとき、敵の大将の吉弘加兵衛に、井上が、
「いざ参りあはん、と詞をかくれば、吉弘打笑ひ渡し合せしが、草摺のはづれを十文字の槍につかせて、深手なれば少ししさりけるを、小栗治右衛門が従者弓を持ちたるが真中を射つらぬく。吉弘心猛しといへども、終に叶はで首をば小栗取てけり。」
とあります。(しさるというのは、漢字をあてると「退る」です。)
ただ、吉弘戦死については諸説あるらしいです。
一説。吉弘は井上と馬上で一騎打ちをして、馬から突き落とされたが、脇差を抜いて井上に投げつけた。脇差は井上の右の腿に刺さったが、その間に小栗が吉弘に組みついて首を取った。
一説。吉弘と井上は、吉弘がかつて黒田家の食客になっていたころ友人だったので、この日戦場で会った井上に、「珍しや、一槍参らん」といって突きあった。井上は吉弘の胸を2回突いたが、鎧が堅かったので貫けなかった。井上は、吉弘の顔を狙って突いたが、その時十文字槍の横手が兜の緒を切って、兜が傾いて視界が遮られた隙に、吉弘の鎧の左脇の隙間から青い装束が見えているのを見つけてそこを刺して吉弘を打ち取った。
ドラマでは井上と吉弘が仲良かったという話でまとめてましたが、ちょっとやりすぎで、井上は吉弘を殺したくないのに、吉弘は「味噌汁うまかったデス!」とか言って自分で死んだっていう話になってました。たしかに、「恩のある井上に手柄を与えるためにわざと討たれた」という話はないわけではないのですけどね。
で、吉弘が井上の家で世話になってたというのはほんとらしいので、味噌汁云々も典拠があるのかな?と思って調べてみた(ネットでねw)んですが、よくわからず。まあ、井上家は播磨から来たから、九州とは味噌が違うだろうから、そのへんのアイディアで創作してみた話かな。
さて、井上君の手柄話は以上です。
で、ようするに、石垣原の合戦は、緒戦では黒田勢が大友勢に攻めかかって負け。
その後、井上率いる黒田の第二陣は、もともとあった野戦陣地っぽい石垣を取った。で、たぶん寄せ集めの兵で練度が低かったがゆえに、そこを守って出ていかなかった。
大友勢は、石垣を楯にした黒田勢を何回も攻撃したけど、結局抜けずにあきらめたということのようですね。で、石垣原で負けて、頼みの吉弘君も死んでしまったので、義統は頭をまるめて如水に降参します。
その後、義統はまたもや常陸に配流になります。「また」というのは、秀吉時代に佐竹あづかりになってたからなんですが、関ケ原後、佐竹は秋田に転封、入れ替わりに来た秋田実季の宍戸藩あづかりになったってことなんでしょう。で、義統の死後、息子が高家として旗本になりますが、この人の子が早世して大友家は断絶。のちに義統の孫のひとり(早世した人の従兄弟)が大友家再興(千石)を果たして明治まで続くみたいです。よかったね!
で、吉弘君の話には後日談があって、実はこっちの方の話がわたしの専門だったので、上の話も覚えてたわけなんですが、おもしろい話なので紹介します。
まず、討ち取られた吉弘君は、その後たたり神になって、付近に疫病をはやらせたりします。(あと、首になってからしゃべったって話もありますw)
そこで、ゆかりの人が彼の塚を作って供養したんですが、付近の農民の間で、おこり(マラリヤ)になった際に、この塚にお米をお供えすると治るよというので評判になって、みんなお米をお供えにくるようになりました。
で、吉弘君の二男が細川家に仕えてたんですが、ある時お父さんの塚を見に来たら、お米がたくさんお供えしてあって、その米を食べに鳥がたくさんやってきてて、塚が鳥の糞だらけだったんですね。で、みっともないと思ったので、お父さんの霊に、
「これからは、米を持ってきても治してやらずに、武具を持ってきたときにだけ治してやるようにしてください。お願いします。」
とお祈りしました。
そしたらそれ以後、この塚に米をお供えしてもだめになって、代わりに、木刀を作ってお供えするとご利益があるようになったということです。
以上です。おもしろいでしょ♪