こんにちは。GW終わっちゃってかなしい。

さて、早くも明日は陣張り日なので、前回の結果を書きます。
対毛利防衛だったんだけど。
kekka
こんな感じ。

報告書はこんな。
houkoku

初日の午前中ちょっとやって、夜に所領のべた陣を壊しして、二日目はお城に詰めてたんだけどノックもなしでした。
ま、GWだしね。

わたしは合戦二日目からGWだったので、二日目は遊びに行きました。わりと近所にある岩間の愛宕神社と、片野城というお城です。

まず愛宕神社ですが、茨城の岩間というところにあります。で、ここは昔から天狗で有名で、岩間十三天狗というのがいます。
ちなみに、このあたりには天狗が多くて、筑波山に三十六天狗、加波山には四十八天狗がいます。

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駐車場からみた岩間山のてっぺん。

岩間山は徳一大師の開山と言われてますが、徳一大師は藤原仲麻呂(恵美押勝)の子で、仲麻呂の乱の後に、他の兄弟はだいたい殺されたんですが、彼は殺されずに東大寺に入れられて出家しました。
最澄とかの同時代人で、論争したりもしてますが、若くして東国に下ってたくさんお寺を作った偉い人です。

このあたりだと、筑波山、西光院、笠間稲荷とかが徳一大師開山です。
で、昔みたなんかの本で、筑波法印(筑波山にいる大天狗)は徳一だという話があったんですが、ネットで調べてみてもそういう話はでてこないですね。

それはさておき、愛宕宮というのは、当然ながら神仏分離以前は愛宕権現をお祭りしてました。神仏習合なので、神さまとも仏さまともいいがたいのですが、仏教的には勝軍地蔵、神社的にはイザナミとカグツチということになってます。で、勝軍地蔵なので武士に人気がありました。垂迹がイザナミなのはちょっと不思議ですが、修験的には最初は女の神さまだったのかもしれません。調べてないのでなんともいえませんが。

naoe 兼次くんの兜の愛は、愛宕権現とか愛染明王とかいわれますが、愛宕権現がふつうかなと思います。
愛染明王ってちょっとマニアックだし。
saizou 他には、笹の才蔵こと可児才蔵が愛宕権現を崇敬していて、愛宕さんのご縁日に死ぬのだと言って、予言通り、完全武装で床机に座って死んだらしいです。

「翁草」
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後半部分に出てきます。
少壮より愛宕を信仰し、我は愛宕大権現の縁日に死んと常々申せしが、果して六月廿四日に身を清め、物具し長刀を持ち、床机に腰を懸ながら、息絶けり、人々奇異の思ひをなす、遺言にて広島の矢賀と云所、坂の脇に葬す、石塔の銘、尾州羽束郡住人可児才蔵吉長と書す、往来の人心有るは墓の前にて下馬すと云々、才蔵家老に竹内久右衛門と云覚の者有り、何にても才蔵知行半分わけなり、長久手合戦に才蔵は関白秀次公罷在、秀次公敗軍に付、秀吉公才蔵を御叱り被成、夫より日陰者に成て居るを福島正則七百石にて抱る、才蔵即三百五十石分けて、当家老久右衛門に遣はすとなり、

司馬遼太郎の「俺は権現」は、この愛宕信仰の話と久右衛門と知行を半分こにする話をくっつけて、久右衛門が愛宕山の山伏で、それまで臆病者だった才蔵をマインドコントロールして大活躍させて、最終的には自分の子を才蔵の養子に入れて後を継がせようとするとかなんとかいう話だったかな?なんか、愛宕権現の生まれ変わりだから無敵だけど、子供を作ったらだめって信じさせるんじゃなかったかしらん。

脱線しました。脱線ついでに、上の翁草ですが、才蔵の話の前にみんな大好き岡左内の話がありましたのでリンク貼っときます。デジタルライブラリー便利ですよね。岡野左内が事 もっとも、岡じゃなくて岡野になってますが。

さて、話をもどして岩間十三天狗ですが、もともとは十二天狗でした。
筑波山のふもとに長楽寺という真言僧がいて、いつも空に向かって大日の真言を唱えてたんですが、ある日釈迦如来が空から迎えにやって来たのでついていったところ、実は岩間山の天狗がお釈迦様に化けてたのでした。で、天狗たちは長楽寺を仲間に引き入れて手下にしようとしてたんですが、長楽寺は剛強な人だったので、逆に天狗たちをやっつけてしまって首領になったということです。

天狗には、人から天狗になるタイプと、動物とか鳥から天狗になるタイプがあるんですが、人以外のものからなる天狗は、言葉を話したり神通力を使ったりはできるんですが、やっぱりもともとの頭がかなり悪いので、人間出身の天狗にはかなわないということのようです。
ちなみに、鳥から天狗になる場合は手足が生え、動物から天狗になる際には、羽が生えるそうです。

以上の話は、平田篤胤の仙境異聞にある話です。この本は、神隠しにあった寅吉という子供が、岩間十三天狗の一人杉山そうせう(僧正)という天狗の弟子になっていたんですが、あるとき戻ってきたというので、篤胤がいろいろ問答をして、それを記録したものです。

仙境異聞をちょっと引用します。
岩間山のこと、彼方の事知れる人々、彼是に探りたるに、細川長門守殿領分にて、岩間村のうち、小名を泉村といふ所にある山にて、十八九町ばかり上る山上に愛宕宮あり。宮の後ろの少し高く平らなる地に、本宮とて小宮あり。唐銅の六角なる宮にて、上の方は円しといふ。其の宮のまはりに、十三天狗の宮とて、石宮十三あり。此はいと旧くは五天狗の宮なりしが、後に十二天狗となりて宮十二ありしを、

細川長門守というのは、谷田部藩主細川興徳(七代目)のことです。
初代が細川興元で、幽斎の二男、忠興の弟です。

で、唐銅の六角なる宮ですが、↓これです。
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もっとも、この六角堂は篤胤のころのものではないようです。場所は同じですが。
「上の方は円し」とありますが、今のは鳥が乗ってますねw
後ろにある小さい石祠が十三天狗の宮です。十三天狗といっても、それぞれの名前とかはわからないようです。
十三天狗の祠は、真ん中のが少し大きかったので、もしかしたらそれが長楽寺のお宮かもしれません。

頂上の展望台から。
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参道の途中に、これより女人禁制。
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 問ふて云はく、山人天狗などの境に女人はなきか。
寅吉云はく、余の山は知らず、岩間山、筑波山などは、女人禁断の山なる故に決して女なし。女の汚れにふれたる人の登山するをば、怪我をさせ、突き落としもするなり。
 問ふて云はく、然やうの事は師みづからするか、其の方などもするか。
寅吉云はく、師のみづから手を下すことも有れど、多くは属き従ふ者ども師命をうけて、遠くより足を挙げて蹴る状をなし、また手を伸ばし突き落す状をすれば、倒れもし落ちもするなり。

サイコキネシスですね。最近は女の人が登っても、蹴ったりするのはやめたようです。

 問ふて云はく、彼の境に男色の事はなきか。
寅吉云はく、他山の事は知らず、我が山などには然やうの事は決して無きなり。
 (此の事は、予みづから問ふことを得ずて、門人守屋稲雄に命じて、寅吉がうち解けたる程に密かに問はしめたるなり。然るは世に天狗に誘はれたりと云ふもの、多くは童子なるは、もし僧どもの化したる天狗等が、在世の悪性なほ止まずて其の用に伴ふには非じかと、日頃疑ひ思へればなり。)

篤胤先生なかなかデリカシーがありますね。寅吉少年にトラウマがあったら悪いと思ってこっそり聞いたようです。
あと、先生はホモフォビアのようですね。
ともあれ、岩間の天狗は男色ではないようで。
もっとも、岩間十三天狗のうちわけは、もと人間が四人(死人と生きた人)で、あとの九人は鷲・鳶・獣から変化したもの。で、人型をしているのは首領の長楽寺だけということなので、そもそも男色とかの問題ではないのかもしれません。

さて、愛宕神社に参拝してから、片野城にいきました。

片野城は岩間から車で20分くらいのところにあります。
八田将監築城といわれてますが、この人がだれだかわかりません。要するに小田氏の一族ですね。
(小田氏の初代が八田知家といって、この人は公式には藤原道兼の曾孫藤原宗円(宇都宮始祖)の孫です。ですから宇都宮氏と同族で藤原氏なんですが、源氏だという説もあります。八田知家は頼朝の隠し子だという説ですね。八田というのは、いまの下館のあたりだそうです。氏治の庶長子の友治が八田左近と名乗っていた事もあります。)

で、片野城は、小田氏にとって、石岡の大掾氏なんかに対する防御拠点だったのですが、いつの間にか佐竹氏のものになっていたらしく、永禄九年(1566)ごろ佐竹氏の客将になった太田資正に与えられました。

oda小田氏治は、永禄五年(1562)に上杉方から北条方に乗り換え、永禄七年(1564)から謙信になんども小田城を落とされてます。謙信がいなくなると奪還するのですが、翌年また謙信に落とされるというようなことが何度かありました。この間、佐竹氏は上杉方(反北条)だったので、謙信の小田城攻撃に乗じて片野城が佐竹さんのお城になり、それを太田資正に与えたということのようです。

永禄十一年(1568年)、氏治は謙信に降伏して、小田城帰還を認められますが、永禄十二年には越相同盟が成っていますので、小田城はひきつづき、こんどは佐竹さんメインで攻撃されます。なんか、謙信への降伏のタイミングが悪すぎて悲しくなります。
佐竹さんは、もともと反北条だから上杉方になっていたので、上杉と北条が同盟したら上杉方であるメリットがなくなるわけですね。というわけで、氏治君は上杉に降伏しても、引き続き佐竹から攻撃されるわけですね。

で、その際の小田城攻撃の拠点になっていたのが、太田資正改め三楽斎の片野城、資正の息子梶原政景の柿岡城です。

oota太田資正は、太田道灌の四世孫です。ですからもともと扇谷上杉氏の家来でしたが、主家が川越夜戦で滅亡。資正の兄の資顕が当主(岩槻城主)だったんですが、この人はわりと早いうちに北条氏の家来になってしまいます。主家滅亡後、兄の資顕が急死した際に、資正は岩槻城を急襲して強引に家督を相続しますが、すぐに北条に攻められて降伏します。
けれど、どうも北条が嫌いだったようで、上杉謙信が関東に進出してくると、すぐに上杉方になって北条氏と敵対します。

で、里見氏と一緒に反北条だったんですが、永禄七年(1564)に国府台合戦で負けて上総に逃げます。その後、一度は岩槻城を奪還しますが、ちょっとお城を留守にした隙に、親北条だった長男氏資(妻は北条氏康女)に裏切られて岩槻城を乗っ取られてしまいます。

翌年、成田氏長・横瀬成繁らに応援を頼んで岩槻城奪還を図りますが失敗、二男の梶原政景らとともに宇都宮氏、その後佐竹氏を頼りました。というわけで、永禄八年か九年あたりに佐竹氏配下になって片野城に入ったということのようです。

kajiwaraその後、越相同盟の交渉の際に、資正の処遇が問題になりました。謙信は、資正が岩槻城に復帰する代わりに、佐竹と手を切って常陸の所領(片野城・柿岡城)を放棄するよう命じてきますが、資正は、岩槻城だけじゃなくて松山城も返せ、常陸の所領も安堵しろとごねて、結局、資正は岩槻には帰らず、常陸にとどまりました。

永禄十二年冬、小田氏治は頽勢を挽回すべく、片野城・柿岡城攻撃を企て、三千~四千の兵を率いて筑波山麓の手這坂に布陣します。
太田・梶原の手勢は六百だか八百だかで、真壁氏幹(梶原政景の岳父)の加勢をもらっても圧倒的に不利だったんですが、籠城策をとらずに手這坂まで進出して迎撃しました。
その際、太田方は鉄砲三丁だか三十丁だかを撃ったそうで、これが茨城県における合戦での鉄砲使用の最初だということです。
で、鉄砲のせいだけではないでしょうが、結局氏治君は大敗、さらに留守の小田城を梶原君がひそかに出した別働隊に落とされてしまいました。

makabeこれ以後も小田君は小田城奪還のためにがんばるんですが、佐竹氏が秀吉の小田原征伐に参陣したさい、手薄になった小田城を攻撃してしまいます。で、秀吉から敵対行為をしたなと言われて(あたりまえですが)、小田家は取り潰しになりました。

その後、氏治は結城秀康のところに客分(300石)で厄介になっていたそうですが、慶長六年(1602)に越前で死にました。

一方の太田資正ですが、彼は北条征伐後の天正十九年(1591)に片野城で死にました。
梶原政景は関ケ原後の佐竹氏転封に伴って秋田に行きますが、後に致仕して結城秀康に2000石で仕えました。
ちなみに、それ以前に彼の弟の太田資武が結城秀康に招かれて仕えているので、その関係かもしれません。

というわけで、小田くんが長生きしてたら越前で再会できて面白かったんだけどねという話でした。

さて、前置きが長くなりましたが片野城です。
まずは縄張り図です。(『図説茨城の城郭』より)
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郭Ⅴから見たのですが、ⅤとⅣはお寺のお墓、Ⅲは天神さま、Ⅱは畑、Ⅰは竹林になっていました。Ⅵ~Ⅸは見られませんでした。

もはや藪が激しい季節になってきたのに、サンダルで行ってしまったので、ざっくりとしか見られませんでした。

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三楽斎のお墓です。

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郭ⅣとⅤの間の堀切。ごみが捨てられてます。

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郭Ⅱの南側土塁(内側から)
郭Ⅱは全体が畑になっています。

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なにがなにやらわかりませんが、郭ⅡとⅠの間の堀切です。けっこう深いです。

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郭Ⅰの北側土塁。結構な高さがあります。ただし、虎口には工夫がないです。

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郭Ⅰの西側開口部。虎口なのか土塁が崩れただけなのかよくわかりません。

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西側開口部から下を見ると帯曲輪のようになっています。

郭Ⅰから堀底におりて、帯曲輪のようなところをぐるっとまわりたかったんですが、サンダルで行くのはちょっと無理っぽかったのであきらめました。

縄張り図でみると、ⅦとⅨのつなぎ目とかⅨの馬出しとかがおもしろそうなので、冬になったら行ってみたいです。

郭Ⅰの内部だけ見て、おうちに帰りました。

孟宗を買ったので、孟宗汁にして食べました。うまかったです。
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