こんにちは。くまぶしです。やっと元気になりました。

今日は、天気がよかったので、葉っぱを植えました。それから、かっぱにのびるをとってやりました。

かっぱの好物なのです。味噌をつけて食います。くまぶしはあまり好きじゃありません。

今日はこないだの続きですが、あわよくば「永遠回帰のくまぶし」というタイトルの意味まで説明できたらいいなと思います。

こないだの徳三さんの話では、死んでしまうと会えなくなる徳三さんと、死んでしまってからもくまぶしを悲しがらせたりする徳三さんと、二つの種類の徳三さんがいるという話でした。これが徳三における二つの存在様態です。

死んでしまうと会えなくなる徳三のほうを、自己同一的徳三ということにします。

難しい言い方だけど、言ってることは簡単だぶしよ。ようするに、徳三は他のものではないから徳三だということです。徳三=徳三で、かつ、徳三≠非徳三ということだぶし。

自己同一的徳三は、体に象徴される空間を占めていて、その徳三空間は、他の物の侵入を許さない、つまり、徳三の内部です。自己同一的存在というのは、このように外部に対して内部をもつことで成り立つぶし。

近代の人間論は、だいたいこういう自己同一的存在論にもとづいているぶし。徳三の権利というのは、徳三空間を侵害されない権利で、人殺しやレイプは、他の人の自己同一的空間に対する侵害だから悪いこととされるわけです。あと、財産という概念も、自己同一的存在が所有する財産で、彼自身である排他的空間の内部にあるから、他の人が手を出してはいけないわけです。

まあ、権利の話とかは、自己同一性の根本ではないので、ここではどうでもいいです。いま問題なのは、権利を持つとされる主体の方です。

体をもった存在の場合、一応、外側にある体が自己同一性を区切る境界になります。シンジ君がエヴァの中でなくしてしまったやつです。自我境界線でしたっけ? 自我が崩壊しないためには、ある程度硬い殻が必要なわけです。だから、徳三さんの体に象徴される区切りは、徳三としての自己同一性を保つために必要な、ATフィールドみたいなものだといえます。カオル君は「心の壁」といっていましたが、そういうものとして機能しないといけないわけです。

外に対して内側をつくって、そこに自己同一性を確保するわけです。日常的には、「存在する」という言葉は、そういう自己同一性をもったものを指して使います。こういう自己同一的存在は、モナド(独立した、それ以上に分割できない粒のこと)であると考えられます。

もっとも、自己同一性を区切るとはいっても、実際に生きている徳三さんは、息を吸ったり吐いたり、ご飯を食べたりうんちをしたり、少しですが話をしたりもするわけですから、完全に閉じているわけではありません。また、徳三さんの孫のたかしくんは、明らかに徳三さんの自己同一性の内側(つまり彼の一部)ですから、徳三さんの体が徳三さんの自己同一性の境界だというのは、一応の目安にすぎません。

ライプニッツさんは、モナド的存在論一本やりで押し通したみたいですが、普通の人は、なかなかそういうわけにはいきません。それで、モナド的存在論を公式見解として、非モナド的存在様態は、プライベートな領域だけに閉じ込めておくわけです。

人前でうんちをすることは、恥ずかしいことです。これは、モナド的に閉じているべき存在の穴があからさまになるからです。同様に、食べることも基本的には恥ずかしいことです。ほかにもいろいろあります。ようするに、主体においてコントロールされない出来事は、主体にとって弱みになります。過度な愛情とか、感情の発露とかもそうです。

この恥ずかしさを利用して、親しさを演出することができます。男の人はつれしょんするし、女の人も便所でおしゃべりします。一緒に御飯を食べることは、仲良しのしるしです。趣味のグループも、ちょっと犯罪組織と似ています。マニアというのは、ギリシャ語では「憑かれること」という意味です。デーモンが憑いて、それであやつられているわけです。そういう状態は、モナドにとっては弱みなわけです。それで、この弱みを媒介にして、他の存在と融合するのがコミュニケーション(交流)です。

コミュニケーションというのは、自分と相手のATフィールドを切り裂かないと成り立ちません。だから、わりと暴力的です。ちなみに、モナド論では、モナドには窓がないので、コミュニケーションは不可能だとされています。(自分たちだけの力では。)

ちょっと話がずれたような気がします。ごめんなさいぶし。

とにかく、くま宗教学では、モナド的存在論とは別に、もう一つの存在論があります。名前がないと不便なので、とりあえずくまぶしは、クエポニ存在論とよんでいます。理由はそのうち話します。

自己同一的存在論では、存在するものとは、不可侵の空間を持つ主体と定義できますが、これに対して、クエポニ存在論では、働きかける力を基準にして、存在と非存在を定義します。

死んでしまった徳三さんの人格の場合は、クエポニ存在論の例です。死んでしまった徳三さんがくまぶしをさびしがらせるというのは、比喩的な表現ではありません。死んでしまった徳三さんは、モナド的存在としてはもはや存在していませんが、今でもくまぶしに働きかけるという意味では存在しているわけです。

モナド的存在論とクエポニ存在論とでは、主体についてのとらえ方が違います。モナド的存在論では、主体がまず先に措提(「ある」ものとすること)されて、その主体が、なんらかのアクションをするという順番で考えられますが、クエポニ存在論では、まずはじめに力の体験があって、その力の発信源として、後から主体の存在が認識(発見・創造)されるわけです。

死んでしまってもういないと思っていた徳三さんが、実はくまぶしを悲しがらせるという行為において、「いる」と認識される(発見される、あるいは創造される)わけです。

そういうわけで、クエポニ存在論は、上で述べたような意味でのコミュニケーションに特化した存在論です。前に、くまぶしと関係ないどっかのおじいさんが死んでも、くまぶしは悲しくならないといいましたが、これは、クエポニ存在論的見地からすると、そのおじいさんはそもそも存在していなかったからだといえます。このようにいうと、なんだか自己中心的みたいな感じがしますが、そうではありません。自己中心的というときの自己というのは、モナド的自己(初めからある自己)だからです。

クエポニ存在論では、死んでしまった徳三さんが、くまぶしの悲しみにおいて存在するようになるわけですが、それと同時に、くまぶしもまた、その悲しみにおいて、はじめて存在するようになるのです。悲しまないくまぶしは、モナド的存在論においては存在していましたが、クエポニ存在論的には存在していなかったというわけです。(ここ、たいへん重要。)

神さまがいるというのは、クエポニ存在論的にいるということです。モナド存在論的に神さまがいるというのは、くまぶしは疑わしいことだと思っています。それどころか、神さまに対して失礼なことだと思います。

また、長くなってしまいました。ごめんなさい。もう一回で、とりあえず終われると思います。永遠回帰のことは次回に話します。おもしろくないかもしれませんが、もう一回だけがまんしてね。くま。ぶし。
Apr. 30, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

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