Tag: くま宗教学

55.お盆の構造とアルカイックな宗教

こんにちは。くまぶしです。
今日から三日間、山のステーキ屋で仕事です。昨日はせっかくの休みだったのに、学会の準備があったので、結局のところお休みがなくなってしまいました。たいへん不満なくまぶしです。

今日はお盆なので、お盆の話をします。くまぶしの近所には、立派な門がついてる農家がたくさんあるのですが、門の所にぼんぼんが吊ってあってきれいです。

お盆という言葉は、盂蘭盆会(うらぼんえ)から来ていて、これはサンスクリットで逆さづりという意味だそうです。ホテルに置いてある仏教説話集とかで読んだことがある方も多いと思いますが、お釈迦様の弟子の目連さんのお母さんが、餓鬼道で逆さづりになって苦しんでた話ですね。それで、目連さんがお釈迦さまに頼んで、施餓鬼の方法を教えてもらって、お母さんは極楽に行けましたというお話です。

施餓鬼会というのは、安吾(雨期にする坊さんたちの強化合宿)の最後の日に、集まっているお坊さんたちに施し物をすると、餓鬼道に落ちてるお母さんにも、おすそ分けの施しがあげられて救われるよという行事です。うがった見方をすると、坊さんたちがお布施をたかっているかのようですが、目連さんはお釈迦様の弟子の中で、神通第一の人だったから、実際に神通力でお母さんが救われるところを見たそうです。だからたぶん本当なんでしょう。くま。

目連さんの話は、盂蘭盆経というお経に書いてある話だそうですが、盂蘭盆経は中国で書かれたお経です。こういうのを、ちょっと言葉が悪いですが、偽経といいます。悪くない言葉でいうと、中国撰述経といいます。まあ、どっちでもいいのですが、いわゆるもともとの仏教じゃない要素がたくさん入っているといわれてます。たとえば、さっきのお話で、地獄で苦しむとか、極楽に行くとかいうのは、本来的な要素ではないといわれてます。ブッダの説だと、輪廻していることが苦で、輪廻しなくなることが成仏なので、極楽に天人として転生しても、別に救われたことにはなりません。ただ、ブッダの仏教は、ちょっとインテリの宗教なので、普通の人は、本気でブッダがいう意味での成仏をしたいとは思わないことが多いです。

話がそれましたが、お盆というのは、そういうわけで、中国仏教の施餓鬼会なわけです。けれど、日本にもともとなかったかというと、そうともいえません。一般には、もともとあった先祖供養のお祭と、中国から聞いた盂蘭盆会が習合したものだとされています。

日本にもともとあった行事というのは、推測ですが、年に二回、春のはじめと秋のはじめに、ご先祖様がやってきて、お祭りをするというものだったと思われています。盆と正月が一緒に来たようだというような言い回しが今でもありますが、昔は正月が二回あって、それが今の盆と正月になったという説もあります。盆暮れというと、実家から離れている人が地元に帰るときなわけですが、これは、ご先祖が帰ってくるのと同じわけですね。

仏教行事としての盂蘭盆会(施餓鬼会)の場合には、地獄なり餓鬼道なりで苦しんでるだろうご先祖を、供養することで救ってやろうとするわけで、別に、ご先祖様がこの世に帰ってきたりするわけではありません。そういう意味では、今のお盆は、本質的には、仏教行事であるというよりは土着のお祭に近いといえそうです。

日本のお盆では、お盆の最初の日に、地獄の釜の蓋が開いて、それでご先祖たちが出てきて、きうりの馬に乗っておうちに帰ってくるわけです。それで、子孫の顔を見て、ご馳走を食べて、一緒に盆踊りをして、最後になすびの牛に乗って帰っていくわけです。来るときは馬なので早いですし、帰りは牛なので名残を惜しんでゆっくり帰ります。一説には、牛だとお土産を運べるから便利だといいます。

さて、このように、お盆というのは、ひとことで言うと、ご先祖がやってきて、一緒に遊んで、それから帰っていくのをお見送りするというお祭りです。このようにいうと、前にお話したアイヌのクマの神さまと同じ構造だということがわかりますね。クマの神さまは、カムイコタンからクマの毛皮を着てこの世にやってきて、帰るときに毛皮と肉を置き土産に置いていくわけです。人間がクマを狩ることには、クマの神さまがカムイコタンに帰るのを手伝うという意味があります。また、やっぱり前にお話ししたタタリのお祭というのも、基本的には同じことだと思います。タタリの神さまは、突然やってくる神さまなので、びっくりしますが、神さまがいるのだ(たたり)ということがわかった時点で、おもてなしをして、それからさようならをするわけです。

つまり、やってくるものがいて、それをおもてなしして、最後にさようならをするというのが、お祭の基本的な構造なわけです。もっとも、こういうお祭は、いわゆる「高級な」宗教ではあまりやりません。「高級な」宗教というのは、例えばブッダの仏教とか、ジーザスの福音とかで、わりあいインテリの宗教のことです。

くま宗教学では、お盆のような簡単なお祭も、もちろん宗教なのですが、いわゆる「高級な」宗教と区別するために、アルカイックな宗教とよんでいます。アルカイックというのは、古代的ということですが、アルケーっぽいという意味でもあります。根本的という意味ですね。それで、一般の考えとは逆なんですが、簡単なお祭をするようなアルカイックな宗教の方を基本的な(エレメンタルな)宗教であると考え、それに対して、いわゆる「高級な」宗教は、特殊な宗教だと考えているわけです。

アルカイックな宗教をもたない人間はいないのに対して、特殊な宗教をもたない人間は結構います。日本人はだいたいそうかもしれません。そういうわけで、くま宗教学では、特殊な宗教ももちろん研究しますが、中心に研究するのはアルカイックな宗教です。特殊な宗教は、アルカイックな宗教から派生したものとして理解しています。ふつうの考えでは、ちゃんとした宗教と、宗教以前の宗教というように、逆に考えていることが多いので、くまぶしはちょっと不満です。

アルカイックな宗教というのは、前にいったことがあると思いますが、人間の基本的な条件であると思います。お盆の場合でいえば、やってきたものをおもてなしするというのは、基本的なことです。もっとも、もてなし方にはいろいろあって、そのやり方は文化によって違うでしょうが、おもてなしすることが基本的なことだというのはいいと思います。おもてなしをしたら、いいことをしてくれるだろうから、おもてなしをするということもあるかとは思いますが、それがすべてというわけでもないと思います。また、ちゃんとおもてなしをしないと、タタリの神さまみたいに、あばれることがあるかもしれませんが、だからといって、暴れられるのがいやだからお祭をするという言い方が正しいわけではないと思います。訪ねてくる人がいたら、とりあえずおもてなしをするということに、理由は必要ないと思います。

理由が必要ないということは、それが、基本的なことだからということだと思います。つまり、ご飯を食べたり、寝たり、遊んだりすることは、人間の基本的な行動です。「眠いから寝るのだ」というのは、一応の理由ですが、実際のところ、眠いから寝るのではなく、人間は寝るようにできているといった方が正しいと思います。同じように、やってくるものをもてなす(祭る)というのも、理由はさまざまつけることができるでしょうが、すべて後付けの理由にすぎないと思います。つまり、その理由ゆえにお祭をするのではなく、人間は、本質的にお祭をするようにできているわけです。

もっとも、私はお祭なんかしないという人は結構いるでしょうが、ここでいっているお祭というのは、文化的に規定されたお祭だけをさしているのではなくて、例えばご飯を食べたり、言葉を話したりするのも、くまぶしの考えではお祭の一種です。

ご飯を食べるというのは、やってくるものを体の中に入れることです。味がするのがお祭りです。うんちをするのは、食べたものとさようならをすることです。

何かを話すというのは、何かを発信することで、話を聞くというのは何かを受信することです。その意味でも十分お祭りですが、それだけではなく、そもそも、言語体系に依存して生きるということは、人間にとって基本的なことです。これは、文化的に形成された世界(世界解釈)の存在を前提にして、はじめて個々人がありうるということです。言葉なんて信じないと思ったとしても、そのように言葉で考える以外にないわけなので、結局のところ、言葉を信じないということは不可能なわけです。それで、言葉を使うということは、一種の文化的に決められたお祭を実践するということだといえると思います。

文化的に「無宗教」という宗教をもつことは可能ですが、言葉を信じないことが不可能であるように、本当に無宗教であることは不可能です。一般に「無宗教」というのは、くま宗教学でいう特殊な宗教をもっていないという意味だと思います。

要するに、くまぶしがアルカイックな宗教というのは、人間の定義であるわけですが、実をいうと、人間の基本的な条件を、アルカイックな宗教とよんでいるだけのことです。そういうわけで、宗教という言葉を使うのがいやな人は、別の言葉を使ってくれてもいいと思います。

ちょっとおおげさな話になってしまいましたぶし。本当は、盆踊りのこととか話そうかとおもってたのですが、アルカイックな宗教の話になってしまいましたね。

それではまた。おやすみなさいぶし。
aug. 14, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

50.御霊会の話

こんばんは。暑い日が続きますね。みなさんげんきですか。くまぶしはちょっとばててます。こないだたたりの話を書いてから、またさぼってました。さぼり癖がついたみたいです。えへ。さぼってなにしていたかというと、まず、宮部みゆきの楽園を読みました。それから、蒲生邸事件も読みました。それから、バイオハザード4を2回クリアしました。それから、鋼の錬金術師のアニメを全部見ました。
とはいえ、さぼってばかりいたわけではありません。ちょっと込み入ったことを書こうと思ったので、なかなかうまく書けなかったわけでもあるのだくま。けれど、いいかげん書かなきゃとおもったので、あんまりまとまってないですが、書いてみます。今日はこないだのつづきで、御霊会の話です。

御霊会というのは、今の祇園祭の祖先みたいなお祭りです。平安時代に京都ではやりました。民間信仰からでてきたものですが、有名なのは日本三代実録という歴史の本に書いてある貞観五年五月二十日の神泉苑御霊会です。神泉苑というのは、京都にあるお庭です。神泉苑御霊会は、朝廷が主催したものですが、一般の人の見学も許されていたので、官民合同開催に近かったんじゃないかと思います。あまり詳しい話をしてもつまらないだろうと思うので、簡単に書きます。史料が手元にないので、けっこう適当です。疑わしいと思った人は、自分で調べてみてください。

御霊会というのは、具体的には、御霊(ごりょう)という神さまみたいなものに対するお祭です。御霊というのは、疫病をはやらせて人を殺すこわい霊です。一般的には、事件とかで死んだ偉い人が御霊になって祟りをするのだと説明されています。そうした説明の根拠は、神泉苑御霊会についての三代実録の記事です。神泉苑の御霊会で祭られたのは、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人観察使、橘逸勢、文屋宮田麻呂だと三代実録には書いてあります。三代実録では、これらの人たちは、「事件に連座して誅せられた人たちで、冤魂がたたりをなした」と説明されてます。

もっとも、このように御霊の正体を決定しようとするのは、朝廷の態度です。民間信仰としての御霊会では、御霊はもっと漠然とした「神さまみたいなもの」と考えられていたみたいです。例えば、道祖神みたいな男女一対の木像が、岐(ふなど)の神とか御霊と呼ばれた(本朝世紀天慶元年)とあります。ふなどの神というのは、境の神さまで、塞の神(さえのかみ)のことです。道祖神には、いわゆる「神格」みたいな個性はないのが普通です。また、ちょっと時代がさがるのですが、船岡山の御霊会は、御霊のお神輿を担いで町中を練り歩いてから、お神輿を海にむかって流すという、今でも農村でやってる虫送りと似たような形式をとっています。船岡山の御霊会では、虫送りの虫みたいに、なにかよくわからないものを御霊としてお祭りしているようです。つまり、民間信仰としての御霊会においては、「御霊」という名前があるだけで十分だったのだろうと思います。

御霊会は、疫病がはやったときに、みんなであつまって、競馬をしたり騎射をしたり相撲をとったり歌ったり踊ったりするお祭りです。もっとも、神泉苑の御霊会は、朝廷が主催したものなので、当時の朝廷の疫病対策である読経(金光明経と般若心経)がメインみたいです。もちろん、御霊会である以上は、競馬とか相撲とか歌舞は欠かせなかったみたいで、神泉園の御霊会でも、ちょっと上品にですが、ちゃんとやっています。(貴族の子弟が雅楽をやったりしたと書いてあります。)

さて、こうしたいわゆる「お祭」的要素は、一般には、御霊の心を慰めて、疫病をばらまくのをやめてもらうためにするのだと解釈されています。つまり、御霊会をやっていた人たちは、疫病が怖くて、そうした疫病を起こす御霊に、そういうことはやめておくれやすとお願いするために御霊会をしたと理解されているわけです。

これは、まあ、理解しやすい説明ではあるし、実際、三代実録にはそのように書いてあるわけですから、間違いではないのでしょうが、くまぶしはちょっと、こうした解釈をそのまま受け入れることに違和感を感じます。

たとえば、それなら御霊会をやっていた人たちは、本当はお祭なんかしたくなかったけれど、しょうがないからしていただけなのか?と意地悪に反問してみます。くまぶしは、注射されるのが嫌いですが、病気になったときにはしょうがないのでお医者に行って注射をしてもらいます。これは、いやいやするわけです。御霊会もそういういやいやするお祭だったのでしょうか。もしくは、人がたくさん死んだりして、本当は歌舞音曲にうつつを抜かしている場合じゃないはずなのに、神さまの心を慰めるために、楽しいふりをしてお祭していただけなのか?と問うてみます。たとえば、やくざさんがお店にやってきて、場所代を払えといって騒ぎます。他のお客さんに迷惑なので、しょうがないのでお金を包んで、よろしくお願いしますといいます。ぶーたれてたらまずいので、顔で笑って心で泣きます。御霊も、やくざさんみたいに、いやがらせをするだけのものだったのでしょうか。

くまぶしも、もちろん、「疫病をはやらせないでくれとたのむ気持ち」がなかった、と主張したいわけではありません。そりゃ疫病はない方がいいに決まってますし、やなことなので、疫病をばらまいている人がいるのなら、そんなことはやめてくれとたのむのは普通のことだろうと思います。

ただ、一般に、御霊信仰の話がされるときには、「昔の人は疫病に対して無力だったから、ただ怯えているしかなかった。それで、自分たちではどうしようもなかったから、神頼みをして疫病がなくなるようにお祈りしていたのだ」というような前提にたって話をすることが多いように思われます。くまぶしは、たしか歴史の本だったと思うのですが、「たたりにおびえていた人々」という見出しを見たことがあります。

それで、くまぶしが、そういう普通の見方に対して違和感を感じるのは、疫病が怖い怖いといっておびえている人間という人間論と、疫病が発生した時に、御霊会をするぞといってお祭り騒ぎをする人間という人間論とが、相容れないように感じるからです。それで、普通の見方の場合は、疫病がこわいとか、いやだという感じ方の方が理解しやすいから、前者の人間論だけを採用して、結果的に、御霊会を、いやなことを回避するための単なる方法のようなものにしてしまうのだと思います。

別のいい方をすると、今の人が御霊信仰について考えるときに問題なのは、「疫病こそがいちばん大事な問題だったはずだ」と考えてしまうところだと思います。これは、いいかえると、人間の生き死にが、人間にとって一番大事な問題だという、ヒューマニスティックな視点からしかものを見れないことだと思います。

一方、前回書いたように、くまぶしはたたりを、「神さまがはっきりとあらわれること」と理解しています。それで、昔の人にとっては、疫病が御霊のたたりだったとわかるということは、疫病を、人間にとっての意味、つまり、単に「人に害をなすもの」としてだけじゃなくて、それ自体が「神さまの出現だ」と理解できるようになることです。つまり、疫病についての見方が、人間中心の見方から、神さま(疫病)中心の見方に変わるということです。

このように、人間中心の視点から抜け出ることができるということは、変な言い方ですが、一種の救済といってもよいものだと思います。もちろん、人間中心から神さま中心になるといったところで、その後、彼にとって、自分の生き死にがどうでもいいことになってしまうわけではありません。つまり、人間的視点がなくなってしまうというわけではありません。
ただ、お祭りをしている間は、そういったみみっちい問題が、もはや重要じゃない世界に行くことができるというだけのことです。

長くなったので、今日はもうやめます。それではおやすみなさい。くま。
jul. 22, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

49.たたりの話

こんにちは。くまぶしです。今日はたたりの話をします。

みなさん、たたりというと、なんか怖いものとか、いやなものとか、思うと思いますが、くまぶしの考えはちょっと違うので、くま宗教学におけるたたりの意味というのをお話しようかと思います。

折口信夫によると、日本語のたたりという言葉は、「たつ」と「あり」が複合したものだそうです。後世風に言えば、「たてり」となります。「たつ」というのは、岩波古語辞典によると、「自然界の現象や静止している事物の、上方・前方に向かう動きが、はっきりと目に見える意。転じて、物が確実に位置を占めて存在する意」です。

八雲立つとか、霧立ちのぼるとか、風立ちぬとかいいますね。これは、はっきり見える(わかる)ことです。月立つというのは、月が見えるようになったということです。「月立てり見ゆ」とかいいます。

ちなみに、「つきたち」が音便して「ついたち」になります。もっとも、今の暦では朔(さく)のことを「ついたち」にして、これを新月としていますが、朔というのは月が見えないことです。ちょっとおかしいですが、昔は三日月のことを新月にしていたらしいので、もともとは、今まで見えなかった月が見えるようになる晩が「ついたち」というわけです。

あと、音をたてるとか、腹立ちとか、名とか噂が立つとか、思い立つとか、役に立つとか、戸をたてるとか、いろいろありますが、ようするに、出現するとか、めだつとか、はっきりわかるとか、そういうニュアンスです。イメージとしては、柱を立てるとか、木が立ってるとか、家を建てるとかいうように、垂直方向(縦)です。宗教学的には、中心のシンボリズムと関係が深いと思います。

一方、「あり」というのは、そのまんま、あるということです。それで、折口氏の説だと、神さまとかが、「はっきりとあらわれる」というのが、たたりの原義だということになります。詳しく知りたい人は、「「ほ」・「うら」から「ほがひ」へ」という文を見てください。全集の16巻にのってます。

さて、以上のように、神さまとかが「はっきりと出現する」ことがたたりだとすると、人が「たたり」と思うのは、それまでは「はっきりとある」とは知らなかった神さまとかが、「はっきりとある」とわかった時に、そう思うわけです。だから、「たたり」と思うときには、だいたいみんなびっくりします。それまで知らなかった神さまが知られるようになることだからです。

リアリティーとの関係でいうと、それまでリアルと思っていた世界の中に、突如として、それまでのリアリティーを帳消しにしてしまうような、リアルなもの(存在するもの)が現れる体験です。おおげさにいえば、そういう体験によって、それまでリアルと思っていた世界が、実はリアルではなかったとわかるわけです。そういう、おおげさなたたりは、例えば、古事記に書いてある大物主の祟りとか、菅原道真の祟りとかです。

もっとも、本当の体験というのは、構造的には、みなたたり的構造をもっていると思います。たとえば、桃がうまいこととかです。もちろん、桃がうまいことははじめから知っていることですが、「桃はうまいと知っていること」と、実際に桃を食べる(体験する)こととは違うことです。一期一会的に桃がうまいと体験されたら、それは桃におけるたたりといってよいと思います。イザナキの命は、桃に助けられた後に、「オホカムヅミ」という神さまの名前をつけました。一期一会的に桃がうまかった時は、桃は神さまになっているわけです。

ただ、普通の人はなかなか桃を神さまと思うことはありません。それで、ただの桃と思っているわけです。別にそれで悪いわけではないのですが、万事が万事その調子でいくと、そのうち大げさなたたりがあるわけです。だから、人によったら、たたりは、人間に対する罰だと思われることもあります。

けれどくまぶしは、たたりを罰としてだけ理解するのは一面的だと思います。どうしてかというと、人間が、自分の知的理解だけで世界を区切っていったときに、困るのはその人間自身だからです。桃の神さまは、自分がただの桃と思われても、別に怒ったりはしません。桃の神さまを桃の神さまとして理解できないとき、損をしているのは、桃の神さまではなくて、人間の方だと思います。だから、わかりやすい大げさなたたりというのは、神さまの側からしたら、人間に対する親切なのだと思います。キリスト教の原罪というのも、たぶんそうしたものなのでしょう。意地悪をされていると思うのは、ちょっとひがんだ見方だと思います。

ちょっと話が飛んでしまいましたが、今日はこれでやめます。次は、具体的なたたりの話を紹介したいと思います。くま。
jul. 9, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

48.桃

こんにちは。くまぶしです。 62895

今朝、桃を食べました。170486すごいうまくて目が覚めました。あんまりうまかったので、今日は桃の話を書きます。

桃は昔から、神秘的な力があるとされてきました。そのわけは、桃栗三年というように、桃がすぐ実をつけるからだとか、たくさん実をつける(兆)からだとか、形がおしりに似ているからだとか、いろいろといわれていますが、もっとも重要なことは、すごいうまくて元気になるということだと思います。いくら早くたくさん実がなるものだとしても、たいしておいしくないなら神秘的とはいえないわけです。おいしくて、かつ、たくさん実がなるから、神秘的なわけです。

中国だと、桃は陽のものだということで、鬼とか疫病を払う力があるといいます。日本でもそうした考えが伝来して、例えば年末の追儺(つゐな・おにやらひ)の時に、桃弓とか桃杖とかで鬼を追っ払ってたそうです。追儺というのは、今の節分の豆まきみたいな行事です。

確かに、桃を食べると元気になるので、陽のものだというのはいいのですが、だからといって、鬼が桃嫌いなのかどうかはわかりません。中国式の鬼は死んだ人の霊ですが、死んだ人だって桃はうまいと思うのじゃないかしらん。

桃が鬼っぽいものを追っ払う話で、有名なのは古事記のイザナキの話です。
イザナキが黄泉の国で、イザナミから追っかけられて逃げるときに、まず蔓(髪飾り)を投げたら山ブドウがなって、次に櫛を投げたらタケノコがはえて、イザナキは、イザナミの手下がそれを食べている隙に逃げたのですが、また追いつかれそうになったときに、ちょうど桃がなっていたので、実をもいで投げたら逃げていったので助かったという話です。

この話だと、追っかけている方の魔物軍の人たちは、山ブドウとかタケノコは食べているのに、桃を投げられると逃げだすわけです。このようにいわれると、どうも桃だけは嫌いであるらしいのですが、さてどうでしょう。

くまぶしは、実際のところは、魔物といえども桃嫌いということはないのじゃないかと思います。桃が陽のもので鬼が陰のものだというのは、人間に対して、正反対の作用をするということで、実際に鬼が桃を嫌いだというわけではないと思います。

桃が鬼を追い払うというのは、桃の力の一端ですが、桃の力はそれだけではありません。よくいわれるのは、長寿(不老不死)です。

長寿の桃というのは、西王母の桃が有名です。西王母というのは、中国の崑崙山の主人ですが、彼女の桃は蟠桃といって、六千年だか九千年だかに一度しか実をつけないのですが、そのかわり、食べると不老不死になります。(とはいえ、桃を食べるために何千年も待てるんなら、もう十分長寿なような気もしますが。)ちなみに、孫悟空は、この蟠桃園の管理人をしていたのですが、ちゃんと管理をせずに桃を全部食ってしまって、おかげですごい力を得るのですが、お釈迦様に叱られて、いろいろあった末に三蔵法師の弟子にさせられるわけです。

不老不死になるというのは、中国の場合は、仙人になるということです。つまり、ただ寿命が延びるというだけのことではなくて、スーパーナチュラルな力を得るから、結果として不老不死にもなるというわけです。それで、そのスーパーナチュラルな力というのは、鬼を追っ払う力と同じものです。結局、長寿といい、魔除けといっても、働き方が違う方向に現れただけで、根本的な力は同じものなのだと思います。

それで、その根本的な力とはなにかというと、最初にいったように、桃は神秘的にうまいということにつきると思います。
jul. 7, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

36.クエポニ存在とモナド存在の関係のイメージ(昨日のつづき)

昨日は、クエポニ存在のイメージを、いくつかの典型的な事例から提示してみました。理論的な説明より、ちょっとはわかりよかったらよかったんだけど。
今日は、昨日のつづきで、クエポニ存在とモナド存在の関係について話そうと思います。

クエポニ存在の反対は、モナド存在です。
クエポニはだれも使わない言葉ですが、モナドはわりと使われる言葉なので覚えておいて損はありません。もっとも「モナド存在」とかいう言い方はないでしょうけど。
モナド存在というのは、「存続する、永続する」存在です。一般には、お祭りしてるとか、お参りしているとか、そういう特別な状態(クエポニ状態)でない日常において、ふつうに「存在している」と思うときの存在です。仏像も、そうした視点から見ればただの像です。つまり、ずっと存続するもの(モナド存在)です。クエポニ存在としての「仏」を、「仏像」という固定した形で表現することは、だから、クエポニ存在をモナド存在として表現してしまう危険性を常にはらんでいます。キリスト教で神の像をつくってはいけないというのは、そうした危険性を避けるためです。仏像におけるこうしたジレンマは、芸術におけるジレンマと同じだと思います。

たとえば、岡本太郎は、芸術はバクハツだといいます。彼は、バクハツ(クエポニ)存在を表現しているわけですが、実際に作られるものは、モナド存在でもあるわけです。だからそれを、仏像をただの像とみなすことが可能なのと同じように、モナド存在としてのみ見ることも可能です。そういう見方が可能だということを知っているからこそ、太郎はくどいほど「バクハツだ」というわけです。しかし、言葉で説明してわかってもらおうというわけではないと思います。太郎は創造する人ですから、創造されたもの(モナド存在)で勝負しなければなりません。くまぶしは、太郎の絵はふつうに好きですが、彫刻の方が大好きです。太郎の彫刻は、椅子とかオブジェとかですが、「ほれ、さわってみたいだろ」といっていると感じます。前に、保育園に行ってる姪と一緒に、岡本太郎美術館に行ったことがあるのですが、姪もやっぱり、面白い形をした椅子とかをみると、目がらんらんと輝くのでした。それで、くまぶしに、「すわっていい?」と聞くのですが、悲しいことに太郎美術館では、だいたいの椅子に座ってはいけないことになっているのでした。これにはくまぶしもだいぶフラストレーションがたまりました。それで、座っていい椅子があるコーナーにいって、二人で思う存分座りました。

太郎は、だいぶ老人になってから、諏訪の御柱祭を見に行ったそうです。御柱祭では、山出しといって、山から切り出した大きな柱を、ごろんごろんと落とす祭りがあるのですが、太郎は、人々が落下する柱に乗っているのを見て、自分も乗りたい乗りたいといって周りの人を困らせたそうです。このとき太郎には、転げ落ちる柱が、クエポニ存在として、すごく生きているものとして、爆発しているものとして、つまり神さまとして見えたのだと思います。それで彼は、どうしてもその柱に乗りたいと感じたのでしょう。

つまり、太郎は、クエポニ存在としての柱を見ることによって、自分もクエポニ存在になってしまったわけです。昨日の話で、ナナワツィンが太陽になって、その太陽の光と熱がすべてのものに侵入するように、そこにあるクエポニ存在は、それを見ているモナド存在の自己同一性を破って侵入してくるものです。それで、侵入されたモナド存在は、「窓が開いた」状態になって、もはやモナド存在ではなく、クエポニ存在になってしまうのです。

既にしてクエポニ存在になってしまった太郎は、柱につぶされて死ぬかもしれないといった考えは思いつかないわけです。思いついたとしても、そういうことはどうでもいい問題になってしまっているわけです。なぜなら、転げ落ちる柱こそが「生きている」わけですから、その柱に乗らないなら、自分は「生きていない」ことになるからです。しかしながら、モナド存在としての彼は、老人ですし、柱から落ちたりしたらすぐ死んでしまうかもしれません。それで、太郎をモナド存在として見ている周りの人は、乗らないでくださいと頼むわけです。実際のところ、彼が柱に乗ったのか乗らなかったのかは忘れてしまいましたが、確か乗ったんじゃなかったかと思います。太郎美術館で、展示物に触らないでくださいというのは、太郎に柱に乗らないでくださいと頼んだ人たちに違いないと、くまぶしは思っています。

まとめます。くま解釈学で、クエポニ存在とかモナド存在とかいうのは、ある「もの」が、時と場合によって、クエポニ存在として体験されたり、モナド存在として体験されたりするという意味です。簡単にいえば、すべての「もの」は、二つのレベルにおいて「存在」しているわけです。(アイヌにとって、くまがくまであると同時にカムイであるように。)
本当の「もの」というのは、モナド存在であり、かつクエポニ存在である「もの」のことです。前に、ヒエロファニーという言葉の説明をしましたが、ヒエロファニーというのは、本当の「もの」に出会うことです。太郎のつくる「もの」が、モナドとしての「もの」でありつつ、それにもかかわらずバクハツを感じさせるなら、それはそのときヒエロファニーが起きているということで、太郎が本当の「もの」を創造したということだと思います。仏像だったら、モナドとしての像でありながら、人々を救おうとして歩き出すことがあるわけです。その時、仏像は仏になっているわけです。
may 28, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

35.クエポニのイメージ

こんにちはくまぶしです。

たんたんがいくつかまとめてコメントをくれました。他の人も、わからないところがいろいろあるだろうと思います。めんぼくないくま。くまぶしも、わかりやすく説明したいのですが、いっきにぐぐっとわかりやすく話すのは難しいです。

だから、ちょっとづつ説明しようと思います。クエポニ存在については、前には理論的に説明しましたが、今日は、クエポニのイメージについて話そうと思います。

まず、クエポニという言葉は、中央アメリカのメシーカ人が話していたナワトル語という言葉で、(花が)咲くとか、(星が)光るとか、そういう意味の動詞です。どうしてナワトル語なのかというと、別に他の言葉でもよいのですが、たこ博士にメキシコの太陽の起源神話の話を聞いて、たいへんおもしろいと思ったからです。(ちなみにクエポニというのは、専門用語ではありません。日本でクエポニという概念を使っているのは、たこ博士とくまぶしだけだからです。)

その話です。サアグンという人の記録したのを、たこ博士が訳しました。

 世界が闇の中にあったとき、太陽がなかったとき、ものが照らされてなかったとき、神々はテオティワカンと呼ばれる場所に集まり話し合った。「神々よ来たれ! さあ、誰がものを照らし熱する役目を引き受けるだろうか?」するとそこにいたテクシステカトルという神が「神々よ、私が引き受けよう」と言った。神々はもう一度、「他に誰かいるか」と言った。…誰も答えなかった。前に進み出るものはいなかった。みなが怖れて、しり込みした。
 …そこにいたナナワツィンという神に、神々は言った。「引き受けよ、ナナワツィン」。この神はこの命令を静かに受け入れた。「神々よ、ありがたく引き受けます。」 
 こうして二神は苦行を始めた。テクシステカトルとナナワツィンは四日間断食を行った。それから火が据えられた。それは炉で燃え盛った。テクシステカトルが用意したものは高価なものばかりだった。ケツァル鳥の羽、金の器、貴石や珊瑚の針、そしてとても良い御香。かたやナナワツィンのものは、水辺の葦草、葦草で作った器、サボテンの針。それらには彼の血が塗られていた。そして御香には自分のかさぶたを焚いた…。
 …それから神々はこの二神に衣装を着せた。テクシステカトルには、サギの丸い羽と綿布の上着を与えた。ナナワツィンには、紙でできた髪留め、肩掛け、下帯を与えた。
 それから神々は炉を囲んだ。…神々は炉の両側に二列になり、その中央にテクシステカトルとナナワツィンの二神を立たせた。彼らは炉に正対し、炎を見つめていた。神々はテクシステカトルに言った。「さあ、テクシステカトル、炎の中に飛び込め。」
 テクシステカトルは火に飛び込もうと進み出た。熱が肌に達した。それは耐え難い熱さだった。炎は炉で激しく燃えた。炎は立ち昇った。テクシステカトルは恐怖した。後ずさりした。…実に四回も、テクシステカトルは火に飛び込もうと試みた。だができなかった。
 そこで神々はナナワツィンに叫んだ。「さあ、ナナワツィンよ、飛び込め!」 ナナワツィンは、覚悟を決めた。気持ちを強くした。目をしっかり閉じた。怖れなかった。ぐずぐずしなかった。たじろがなかった。後ずさりしなかった。火に飛び込んだ。その体は、燃えた、咲いた、音を立てて燃えた。・・・

そして出てきた、現われた、太陽が。
それは真っ赤に揺れていた。
その顔を見ることはできなかった、それは眩しかった。
それは激しくものを照らしていた、熱と光を放っていた。
その熱と光は、あらゆるところに広がった。
その熱と光は、あらゆるところに入りこんだ。

この話自体は、有名な話なのですが、たこ博士は、ナナワツィンが火に飛び込んだ時に、「咲いた(クエポニした)」といわれているところに注目して、クエポニするという言葉は、普通には花などが「咲く」と訳されているけれども、もっと宗教的な意味のある言葉なのじゃないかという論文を書いたのです。それで、くまぶしたちに見せにきたので、くまぶしたちの解釈学に取り入れてみたわけです。
たこ博士の論文を、1パラグラフでまとめます。メシーカ人の言葉の使い方によると、花が咲くこと、星が光ること、太陽が燃えること、(ナナワツィンが)火に飛び込んで燃えること、戦士が華々しく戦うこと(戦って死ぬこと)、王さまが即位すること、子供が成人すること、以上のようなことが全部、クエポニという言葉で表現されます。そして、このクエポニという行為は、メシーカ人にとっては、理想的な行為、生のモデル、簡単にいえば、「すごくかっこいいこと」として考えられているわけです。

さて、ここからはくまぶしの解釈学になるのですが、以上のようなメシーカ人の理想は、世界の宗教の歴史という視点からみると、なにもメシーカ人だけに限ったことではありません。たとえば、日本でも、武士が腹切りします。腹を切ることは、いろいろな意味があるでしょうが、ひとことでいえば、腹だって切れるぞという勇気が問題なのだと思います。討ち死にすることも、華々しく散るといいます。花のイメージなのです。「咲く」ではなくて「散る」ところが日本的ですが。以上は、戦士的な宗教性といってもいいかもしれません。血がビューと吹き出したりするところが、花が咲くこと(散ること)に似ています。切腹の作法として、内臓をつかみだして投げるというのもあります。すごいいたそうですが、そういうことができる状態の人間は、神的なのです。別の言葉でいうと、「ものすごく生きている」のです。これは、燃えている太陽が「ものすごく生きている」と感じられるのと同じように、「ものすごく生きている」のです。太陽は、自分を激しく燃やしながら、「その光と熱を放って」います。そして、太陽が放つ光と熱は、「あらゆるところに」、つまり諸存在(モナド)の中に侵入してきます。つまり、モナドとしての諸存在は、太陽的存在(クエポニ存在)に侵入されることによって、窓が開く(自閉状態でなくなる)、つまり、「生きる」ことができるわけです。

ちょっと古いですが、ザ・イエローモンキーに「太陽が燃えている」という歌があります。この歌では、「愛」と「花」と「太陽が燃えていること」が同じこととして歌われています。さびのところで、

太陽が燃えている ギラギラと燃えている
二人が愛し合うために 他に何もいらないだろう

とあります。「愛し合うこと」というのは、「君のからだの中 僕のからだの中 太陽が燃えてる」ということで、この歌の場合は、これが「生きること」だといっていいでしょう。反対に、愛し合わない状態は、太陽的ではない、つまり「生きていない」わけです。

こうした「生きている」状態を存在することだとする態度は、哲学的にいうと、ライプニッツのモナドロジーに代表される存在論の否定です。つまり、腹を切ることというのは、自分はモナド(コギト)ではないということを証明することなのです。ライプニッツ的にいうと、モナド(自閉した自己=コギト)に無理やり窓を開けることです。

もっとも、戦士的な理想というのは、過激で乱暴です。イエモンの歌もわりあい乱暴です。けれど、クエポニ的存在を典型的に表現していると思います。

戦士的でないクエポニの例としては、例えば仏像がそうです。仏さまはだいたい蓮華座というのに座っています。つまり、ハスの花が咲いた上に座っているわけです。これはどういう意味かというと、くまぶしの解釈では、仏さまは、ハスの花が咲くように、この世にあらわれる(存在する)という意味になります。もうすこし詳しくいうと、仏さまというのは、「咲くもの」なのです。造花ではなくて、生きた花なのです。だから、仏さまにお花を供えるわけです。もっとも、今は造花で済ませてしまうことが多いですが。造花というのは、花の存在を固定化しようとするものです。つまり、花のモナド性(永続する存在)を強調すると造花になるわけです。同様に、灯明も、神社でも寺でも、今はろうそく型の電灯を使います。これもよくありません。どうしてかというと、ろうそくの炎は生きていますが、電灯の光は生きていないからです。炎はちろちろと動いている生き物です。バックドラフトでもそういっていました。ろうそくの炎は、ろうそくを食べながら生きている光なので、ろうそくが尽きたら死ぬわけです。ろうそく型の電灯も、造花も、ずっと死なない「存在」ですが、それは生きていないから死なないだけの話です。

さて、長くなったので強引にまとめます。まず、くまぶしのいうクエポニ存在というのは、簡単にいえば「生きている」と感じられるものです。特に、神さまとか仏さまというのは、太陽のように、普通のものよりも、「ものすごく生きている」と感じられるものです。こういうものを「聖なるもの」といいます。もっとも、神さまとか仏さまには、単純にクエポニ的であるというだけではない側面もありますが、それはまた別のときに話します。とにかく、お祭りのときとか、お参りしたときとかに、神さまとか仏さまとかが、「ものすごく生きているもの」としてあらわれたなら、それは神さまが、クエポニ存在として存在しているということです。
may 28, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

27.ヒエロファニーをひとことで説明すると

こんばんは。くまぶしです。

自慢ですが、今日は短いですよ。346
前に、ヒエロファニーという言葉をちょっと説明しましたが、これは神さまみたいなものがでてくることという意味です。これを今日は、別の言い方で説明してみようと思います。

普遍的なものが具体的なものとして現れること。

今日はこれでおしまいです。一言でいうのは大事です。だいたいくまぶしは、いつも長すぎです。反省はしてるんです。

ひとことぬしという神さまがいますが、いいこともひとこと、わるいこともひとことです。

それではごきげんよう。くま。
may 14, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

25.阿弥陀さんがやってくる話

こんばんは。よくコメントくれる「まりんご」が、ブログに、牛久にいる大仏さんに会いに行ったことを書いていました。

牛久の大仏さんは、阿弥陀さんですが、遠くから見ると山越阿弥陀に見えます。

山越阿弥陀というのは、来迎図の一種です。来迎図は、阿弥陀さんが家来を引き連れてお迎えにやってくるところを書いた絵ですが、ふつうは雲に乗ってやってきます。山越阿弥陀というのは、巨大な阿弥陀さんが、山の向こうから、歩いてこっちにやってくるところが、ふつうの来迎図とは違って、大迫力です。

20080511195514ひとつめ。京都の禅林寺というお寺にある山越阿弥陀図です。

昔の人は、山越阿弥陀図の手のところに紐をつけて、死にそうになったらその紐をもって死ぬと極楽にいけるぞというようなことをやっていたらしいです。

死にそうな人だったら、迎えに来てくれて感激ですけど、元気な人だったら、逃げ出すかもしれない迫力ですね。

t_kaiga_yamagoe2

ふたつめ。愛知の大樹寺山越阿弥陀図です。

こっちを向いているところが迫力ですね。もっとも、斜め向きのやつもあります。

斜めの方が、ふつうの来迎図に近いですが、正面の方が、迫力があってかっこいいです。

この迫力は、クエポニだと思います。やってくるというところが特にそうです。「救うぞ。どーん」という感じがします。大きいところも、ウルトラマンみたいで強そうです。

もっとも、牛久の大仏さんは、スタチューなので動きません。いつもは墓守りをしてらっしゃいます。

こっちから会いに行かなければならないわけです。けれど、成田の方から牛久に向かっていくと、ちょっと歩いているようにも見えるときがあります。歩いたら、すごいだろうなあ。くま。

山越阿弥陀の話は、折口信夫に、「山越しの阿弥陀像の画因」というのがあります。(リンクは青空文庫さんです。)興味のある人はどうぞ。

阿弥陀さんは、他の仏像よりも、働きかける力がダイレクトに表現されているのが多いと思います。

20111111見返り阿弥陀(永観堂)たとえば、みかえり阿弥陀とか。これは、ある坊さんが念仏していたら、阿弥陀さんが突然あるきだしたので、お坊さんがびっくりして立ちつくしていたら、振り返って、「おそい!」といってるところだそうです。急いで救いにいこうとしてるのに、坊さんがグズだったから怒ってるわけです。

なかなかすてきですね。くま。
may 11, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

19.くま宗教学の存在論③

こんにちは。くまぶしです。

今日は、前回述べた二つの存在論の関係について書きます。これは人間存在の定義でもあるので、人間論でもあるぶし。存在論の話は、一応これで終わりです。やったー。今日はついでに、永遠回帰の話もちょっとします。

くま宗教学では、人間を、クエポニ的であり、かつ、モナド的であるものとして理解します。クエポニ存在論と、モナド存在論という二つの存在様態間の循環として人間存在を定義するわけです。要は、ダブルスタンダードということだぶしね。

クエポニというのは、花が咲くという意味です。ナワトル語というメキシコの原住民の言葉です。花は咲くことによってはじめて存在するというこころです。

まず、クエポニ存在とモナド存在の関係について、簡単に書きます。

クエポニ存在というのは、力を発するもの、働きかけるものです。
クエポニ存在を体験するということは、力を受けること、働きかけられることです。クエポニ的存在様態は、いいかえると、コミュニケーション状態のことです。

たとえば、何かを食べるということは、コミュニケーションです。食べられるものは、まず初めは、食べる人とは別のものとして存在します。つまり、食べる人と食べられるものは互いにモナド的関係にあります。食べ物を見て、おいしそうと思ったり、食べたいと思うことは、コミュニケーションへの欲求(誘惑)です。これは、モナドによる、非モナド的状態(クエポニ状態)への欲求といえます。

食べものを口に入れるとき、食べる人のモナドに窓が開きます。モナドロジー的には、アブノーマルな状態のモナドになるわけです。窓が開いたモナドはモナドではないわけですから。インデペンデントじゃないということです。

それで、口に入れたものを噛みます。噛むことは、モナドとしての食べ物のモナド性(ATフィールド)を破ることです。すると味がします。というか、そうしないと味がしません。味はうまいです。味というのは、食べてみなければわからないものです。味を知るためには、食べ物のATフィールドを破らなければなりませんし、同時に、自分のATフィールドにも穴を開けなければ、食べることはできません。そういうわけで、食べることはコミュニケーションです。

もっとも、まだ食べ物が口の中にあるときは、食べ物と食べている人は別のものといえるかもしれません。吐き出すこともできるわけですから。けれど、食べ物を飲み込んでしまうと、普通は、食べ物と食べた人は別のものではなくなります。完全に消化したら、もう完全に一体です。これは言い換えると、食べた人のモナドが再び閉じたということです。(うんちをするときまた開きますが。)

コミュニケーションは、このように、モナドに穴を開けたり、モナドの殻を破壊しないと成り立ちません。そして、食べ物がそうであるように、食べてしまったものはなくなってしまいます。なくなってしまうというのは、もちろん、モナド的に存在しなくなるという意味です。

つまり、一言でいうと、知るためには相手と自分のモナドに窓を開けなければならない、しかし、穴をあけられたモナドは死ぬ。ということになります。←これ、なんかバタイユっぽい言い方ですね。

食べ物の例の場合は、食べられる方は大変ですけど、食べる人のモナドは、たいしたリスクを冒していません。しかしながら、常にそうだとは限りません。たとえば、神さまに会うということはリスキーです。神さまとのコミュニケーションでは、人間が食べ物の役割を担うこともあります。けれど、アイヌの場合のように、神さまが食べ物の役割をすることもよくあることです。というか、食べ物はふつう神さまでしたね。

ちょっと脱線しました。とにかく、クエポニ存在というのは、人間の場合に限っていえば、まずはじめにモナド的存在であることから出発して、モナドに穴があいている状態として定義づけられます。自己同一性を失わない限り(つまり死なない限り)は、この穴は開きっぱなしということはありません。そういうわけで、クエポニ存在というのは、持続することができません。持続するものは常にモナドです。人間的意味でのクエポニ存在とは、普通は、持続するモナドに時たま穴が開く運動として記述できます。

人間的クエポニ存在は、そのクエポニにおいてモナドとして死なない限り、必ずまたモナド的存在に戻ってきます。ごく簡単にいうと、これを永遠回帰といいます。

永遠回帰という仕組みは、モナド的存在論に重心をおいて考えると、ニヒルな感じになります。クエポニ(非モナド状態)といったって、結局モナドに戻ってくるんじゃないかというわけです。コミュニケーションといったって、コミュニケートした気になっているだけだというわけです。確かに、事後的に見たらそういうことになるのでしょう。
で、ニヒルな気分になって、醒めないために薬をやりつづけて、オーバードーズで死んじゃったりするわけですね。
(あるいは、それをいいことであるかのように思ってなのかしりませんけど、「モナドを活性化させるためにクエポニが必要なのだ」というような言い方をする人もいます。これはジラールとかですかね。無用の用みたいな言い方で回収しようとする態度。)

けれど、クエポニ存在の方に重心をおくと、そうでもありません。クエポニするには、モナドは必要だというだけのことです。クエポニが持続しなければならないと考えるのは、クエポニをモナド化しようとすることで、そういう考えは、非常にクエポニ的ではありません。

ニーチェというくまが、むかしこういいました。「踊るには、何かふまれるもの、踏みすてられるものがなくてはなるまい?」まったくそのとおりだと思います。(たぶんツァラトゥストラ)

最後に、クエポニ的存在論に重心を移して、永遠回帰を記述します。

クエポニ的存在論を中心に永遠回帰の運動を見てみると、クエポニ的存在とは、モナドの発生だといえると思います。どうしてかというと、死んでしまった徳三さんの場合のように、くまぶしを悲しませるという働きが、逆に、「徳三」という存在を創造するからです。この新しく生まれた徳三は、生きている時のモナド的徳三と比較してみればクエポニ存在でしょうが、しかしながら、「徳三」という名前をもっているという意味では、なんらかの自己同一性を依然として持っているわけです。

つまり、クエポニ→モナド→クエポニという循環は、クエポニによってモナドが創造され、そのモナドを足場にして、つまり穴を開ける対象として、次のクエポニが可能になるという仕組みだと思います。

さて、以上でくま宗教学における存在論と人間論について、だいたい説明しました。わかりにくかったと思いますが、しかたがないことだったと思います。どうしてかというと、具体的な例をださずに、理論的な説明しかしなかったからです。

けれど、今は一応、理論的な説明をしたので、これからはもうすこし、具体的な話をすることができると思います。

最後に、「永遠回帰のくまぶし」というタイトルについて話します。

「永遠回帰のくまぶし」というタイトルには、実践的意味と、理論的意味があります。つまり、事実としてくまぶしが永遠回帰することと、永遠回帰について理論的に説明することとです。

事実としてくまぶしが永遠回帰するというのは、くまぶしが心を動かされたことを書くという意味です。これは、くまぶしの生活の話とか、くまぶしが面白いと思った神話の話とか、神さまの話とか、くまぶしが書く絵のことです。書くことは、動かされた心を固定化すること、モナド化することです。そういうわけで、クエポニ状態からモナド状態への永遠回帰なわけです。これは、書いたくまぶしが、それを書いたくまとして、モナドに回帰するということでもあります。書くことは、主体であることからの脱出です。しかし同時に、書いたという事実から、それを書いたくまとして、再びくまぶしが定義されます。これが書くことにおける永遠回帰です。

一方、永遠回帰の理論的意味というのは、今まで書いたみたいに、永遠回帰について理論的に説明するということです。これは、くま宗教学の理論的側面です。うざいだろうから、これからは必要最低限にしたいと思います。けれど、くまぶしにとっては、こういう理論があると、いろいろ説明がしやすくなるのです。だからくまぶしの都合で、ときどきはやると思います。

たこ博士の具合がまた悪くなったらしいので、今から食べ物と飲み物を届けに行ってきますぶし。

それではごきげんよう。さようならくま。
may 1, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次

18.くま宗教学の存在論②

こんにちは。くまぶしです。やっと元気になりました。

今日は、天気がよかったので、葉っぱを植えました。それから、かっぱにのびるをとってやりました。

かっぱの好物なのです。味噌をつけて食います。くまぶしはあまり好きじゃありません。

今日はこないだの続きですが、あわよくば「永遠回帰のくまぶし」というタイトルの意味まで説明できたらいいなと思います。

こないだの徳三さんの話では、死んでしまうと会えなくなる徳三さんと、死んでしまってからもくまぶしを悲しがらせたりする徳三さんと、二つの種類の徳三さんがいるという話でした。これが徳三における二つの存在様態です。

死んでしまうと会えなくなる徳三のほうを、自己同一的徳三ということにします。

難しい言い方だけど、言ってることは簡単だぶしよ。ようするに、徳三は他のものではないから徳三だということです。徳三=徳三で、かつ、徳三≠非徳三ということだぶし。

自己同一的徳三は、体に象徴される空間を占めていて、その徳三空間は、他の物の侵入を許さない、つまり、徳三の内部です。自己同一的存在というのは、このように外部に対して内部をもつことで成り立つぶし。

近代の人間論は、だいたいこういう自己同一的存在論にもとづいているぶし。徳三の権利というのは、徳三空間を侵害されない権利で、人殺しやレイプは、他の人の自己同一的空間に対する侵害だから悪いこととされるわけです。あと、財産という概念も、自己同一的存在が所有する財産で、彼自身である排他的空間の内部にあるから、他の人が手を出してはいけないわけです。

まあ、権利の話とかは、自己同一性の根本ではないので、ここではどうでもいいです。いま問題なのは、権利を持つとされる主体の方です。

体をもった存在の場合、一応、外側にある体が自己同一性を区切る境界になります。シンジ君がエヴァの中でなくしてしまったやつです。自我境界線でしたっけ? 自我が崩壊しないためには、ある程度硬い殻が必要なわけです。だから、徳三さんの体に象徴される区切りは、徳三としての自己同一性を保つために必要な、ATフィールドみたいなものだといえます。カオル君は「心の壁」といっていましたが、そういうものとして機能しないといけないわけです。

外に対して内側をつくって、そこに自己同一性を確保するわけです。日常的には、「存在する」という言葉は、そういう自己同一性をもったものを指して使います。こういう自己同一的存在は、モナド(独立した、それ以上に分割できない粒のこと)であると考えられます。

もっとも、自己同一性を区切るとはいっても、実際に生きている徳三さんは、息を吸ったり吐いたり、ご飯を食べたりうんちをしたり、少しですが話をしたりもするわけですから、完全に閉じているわけではありません。また、徳三さんの孫のたかしくんは、明らかに徳三さんの自己同一性の内側(つまり彼の一部)ですから、徳三さんの体が徳三さんの自己同一性の境界だというのは、一応の目安にすぎません。

ライプニッツさんは、モナド的存在論一本やりで押し通したみたいですが、普通の人は、なかなかそういうわけにはいきません。それで、モナド的存在論を公式見解として、非モナド的存在様態は、プライベートな領域だけに閉じ込めておくわけです。

人前でうんちをすることは、恥ずかしいことです。これは、モナド的に閉じているべき存在の穴があからさまになるからです。同様に、食べることも基本的には恥ずかしいことです。ほかにもいろいろあります。ようするに、主体においてコントロールされない出来事は、主体にとって弱みになります。過度な愛情とか、感情の発露とかもそうです。

この恥ずかしさを利用して、親しさを演出することができます。男の人はつれしょんするし、女の人も便所でおしゃべりします。一緒に御飯を食べることは、仲良しのしるしです。趣味のグループも、ちょっと犯罪組織と似ています。マニアというのは、ギリシャ語では「憑かれること」という意味です。デーモンが憑いて、それであやつられているわけです。そういう状態は、モナドにとっては弱みなわけです。それで、この弱みを媒介にして、他の存在と融合するのがコミュニケーション(交流)です。

コミュニケーションというのは、自分と相手のATフィールドを切り裂かないと成り立ちません。だから、わりと暴力的です。ちなみに、モナド論では、モナドには窓がないので、コミュニケーションは不可能だとされています。

ちょっと話がずれたような気がします。ごめんなさいぶし。

とにかく、くま宗教学では、モナド的存在論とは別に、もう一つの存在論があります。名前がないと不便なので、とりあえずくまぶしは、クエポニ存在論とよんでいます。理由はそのうち話します。

自己同一的存在論では、存在するものとは、不可侵の空間を持つ主体と定義できますが、これに対して、クエポニ存在論では、働きかける力を基準にして、存在と非存在を定義します。

死んでしまった徳三さんの人格の場合は、クエポニ存在論の例です。死んでしまった徳三さんがくまぶしをさびしがらせるというのは、比喩的な表現ではありません。死んでしまった徳三さんは、モナド的存在としてはもはや存在していませんが、今でもくまぶしに働きかけるという意味では存在しているわけです。

モナド的存在論とクエポニ存在論とでは、主体についてのとらえ方が違います。モナド的存在論では、主体がまず先に措提(「ある」ものとすること)されて、その主体が、なんらかのアクションをするという順番で考えられますが、クエポニ存在論では、まずはじめに力の体験があって、その力の発信源として、後から主体の存在が認識(発見・創造)されるわけです。

死んでしまってもういないと思っていた徳三さんが、実はくまぶしを悲しがらせるという行為において、「いる」と認識される(発見される、あるいは創造される)わけです。

そういうわけで、クエポニ存在論は、上で述べたような意味でのコミュニケーションに特化した存在論です。前に、くまぶしと関係ないどっかのおじいさんが死んでも、くまぶしは悲しくならないといいましたが、これは、クエポニ存在論的見地からすると、そのおじいさんはそもそも存在していなかったからだといえます。このようにいうと、なんだか自己中心的みたいな感じがしますが、そうではありません。自己中心的というときの自己というのは、モナド的自己(初めからある自己)だからです。

クエポニ存在論では、死んでしまった徳三さんが、くまぶしの悲しみにおいて存在するようになるわけですが、それと同時に、くまぶしもまた、その悲しみにおいて、はじめて存在するようになるのです。悲しまないくまぶしは、モナド的存在論においては存在していましたが、クエポニ存在論的には存在していなかったというわけです。(ここ、たいへん重要。)

神さまがいるというのは、クエポニ存在論的にいるということです。モナド存在論的に神さまがいるというのは、くまぶしは疑わしいことだと思っています。それどころか、神さまに対して失礼なことだと思います。

また、長くなってしまいました。ごめんなさい。もう一回で、とりあえず終われると思います。永遠回帰のことは次回に話します。おもしろくないかもしれませんが、もう一回だけがまんしてね。くま。ぶし。
Apr. 30, 2008
永遠回帰のくまぶし2008目次