わたしが死刑制度を廃止した方が良いと思う理由は単純なもので、要するに、国家に対して個人を殺す権限を与えるべきではないと考えているからです。(現状の死刑制度は、国家に対して、条件付きで誰かを殺す権限を与えているものです。)
国家に対して個人を殺す権限を与えないというのは、言い換えると、主権者であるわれわれは、われわれ自身の力を、誰かを殺すためには使わないと決意するということです。(もちろん、正当防衛的・緊急避難的に犯人を射殺するというような場合は除きます。)

ひとことで言うと以上ですが、それだけだとちょっとそっけないので、もう少し詳しく説明してみようと思います。というのも、わたしとしては、非常にシンプルな話なので、少なくとも死刑制度反対の方は、皆さん同じように考えているものと思っていたのですが、ちょっとネットで調べてみたところ、あまりそういう議論をされている方がいなかったので、いささか不思議に思っているのですが、とにかくネット上ではあまり述べられていないタイプの意見であるようなので、少々詳しく述べておかなければならないように感じた次第です。Wikipediaの死刑制度反対の論拠でいえば、「社会契約説」と「人権」における反対論ということになりますが、内容を読むと、どうもちょっとニュアンスが違うんですよね。

ちょっと真面目に考えたので、である調で書いてみようと思います。

死刑は人権問題として問題である

憲法上、国家は国民の人権を守らなければならない。というのは、国民の人権を守るという条件で、国民は国家に権力を委任しているからである。
人権は普遍的な権利なので、犯罪者にも当然人権はある。生まれによってであれ、考えによってであれ、その人のなした行為によってであれ、ある特定の人について人権を認めないという考えは差別的である。それゆえ、犯罪者といえども、正当防衛的・緊急避難的場合以外に殺してよいということにはならない。

殺人犯による殺人は、被害者に対する人権侵害であるが、捕まった加害者が「生きていること」が、誰かの人権を侵害しているわけではない。(誰かの人権を侵害したからといって、加害者の人権がなくなるわけではない。そもそも人権はなくなったりはしないから。)というわけで、加害者を拘束しておくことには緊急避難的効果があるといえるかもしれない(出したらまた殺すかもしれないから)が、彼を殺してしまうことには緊急避難的な意味はない。閉じ込めることで社会から隔離してしまえば、もう誰かを殺すことはできないからである。というわけで、殺人犯といえども、彼を殺すことは明らかにやりすぎである。

ところで、私人による私人に対する人権侵害(殺害とか)は、もちろん人権侵害でないわけではないが、直接的には人権問題として問題になっているのではなく、単に違法行為として問題になっているのである。

私人が私人を殺すというのは、個人の恣意による殺人である。つまり、カッとなって殺したとか、金を奪うために殺したとか、ただなんとなく殺したとか、差別から殺したとか、死刑になりたいから殺したとか、理由は何であれ、すべて個人の恣意的な理由による殺人である。殺人それ自体は悪いこと(違法行為)であるが、それが人権侵害として問題にならないのは、そもそも恣意による殺人は、法によって「悪いこと」であると最初から決まっている行為であって、どんな意味においても正当性がない「違法行為」だからである。それゆえ、私人が誰かを殺すことは、人権問題というよりは単なる違法行為であり、犯罪において被害者個人の人権は侵害されてしまうが、一般的な人権(普遍的権利としての人権)が侵害されているわけではない。

(注)正確にいうと、私人が誰かを殺す場合、その行為自体は人権全体に対する挑戦でないわけではないので、広い意味での人権侵害であるといえなくもない。しかしながら、「殺人」という行為は、既にあらかじめ刑法によって「犯罪行為」であると定められているから、既にあらかじめ人権全体は保護されている(刑法によって保護されている)のである。というわけで、私人による殺人は、刑法で裁くべき問題である以上、人権問題として問題になるのではなく、違法行為として問題になるだけなのである。(個人による殺人が人権侵害であることはすでに法によって決定済みの事項だということ。)
殺人が人権問題になるのは、例えば007が殺しのライセンスを持っていたとすると、007による「殺人」から人権一般が保護されていないことになるので、007による殺害は人権問題になるということである。で、007による殺人は私人による殺人ではなくてMI6による殺人なので、結局のところ、007といえども個人的に人権侵害をすることはできず、国家による人権侵害が問題になるということである。(注おわり)

私人による殺人が単なる違法行為であるのに対して、国家による殺人は、常に人権問題である。つまり、国家による死刑は、ある種の人に対しては人権を認めなくてもよいという前提に立っているわけだから、私人によるアクシデンタルな殺害とは違って、一般的な意味で人権を侵害している(侵害してもいいのだということになっている)ということになる。(ある条件下では人権を無効化できるという前提に立っているわけだから、問題になっているのは、国家は条件付きで個人の人権を無効化できるかどうかという人権問題なのである。)(懲役刑等については、社会から隔離することに意味があるのだと見るならば、他の人の人権を保護するために必要な措置であるということになるので、人権問題にはならないと思う。それに対して、懲罰として拘束するのだという見方をとる場合は、死刑ほどではないにせよ、人権侵害であるとみなさざるをえないと思う。)

死刑というのは法律による殺人である。私人による恣意的な殺人はアクシデンタルなものだが、法律による殺人は必然的な殺人である。つまり、「殺すべきであるから殺す」、「正しいこととして殺す」というものであり、死刑になる人については、「殺されてしかるべき人であるから殺す」というスタンスである。(むしろそうでないなら法治国家でなくなってしまうので、それはそれでヤバすぎることである。というわけで、わたしとしては、被害者感情であるとか、犯罪者に対する一般人の感情といったような恣意によって、有罪・無罪や量刑が影響されるというのは、法治の放棄になりかねないのでやめていただきたいと思う。)

最近、杉田水脈氏が、LGBTには生産性がない云々という発言をして問題になっているが、あの発言が問題なのは、ある基準(この場合は生産性)によって、国が保護すべき国民を選別すべきだという考えに基づいているからであり、普遍的な人権を否定しているからである。

死刑制度というのは、ある条件にあてはまる人に対しては、国家が法の名のもとにおいてその人権を侵害するという制度である。制度である以上、その人権侵害はアクシデンタルなものではなく、ある条件下においては、常に必ず人権を制限しなければならないというものである。つまり、日本における人権は、死刑制度があることによって、完全に普遍的な権利ではなく、制限された権利(条件づけられた権利・法を犯さない限りにおいて殺さることはないという権利)になってしまっているということである。

というわけで、わたしが死刑制度に反対であるのは、人権(国家からの自由・自由権)には条件を付けるべきではないと考えるからである。死刑制度反対というと、一見したところ犯罪者の人権を守ろうとしているかのようであるが、わたしが守らなければならないと考えているのは犯罪者の人権ではなく、普遍的な人権である。普遍的な人権を守るためには、犯罪者の人権も守らざるをえないというだけのことで、犯罪者の人権を守りたいわけではない。(もっとも推定無罪の問題とか、被疑者の人権は現状において大幅に侵害されていると思いますけれど、それはまた別の話。)

死刑制度と核保有

さて、わたしの死刑反対の理由は以上ですが、現在の法律では、実際のところは、なかなか死刑になることはないわけで、一般人にはあまり関係ない話であるといえば関係ない話です。わたし自身、死刑になりそうなことをする予定はありませんし、まあ、人生何が起こるかわからないので絶対安全とは言い切れませんけど、たぶん死刑になるようなことはないだろうなと、たかをくくって暮らしているわけです。みなさんそうだと思いますけど。

ですが、死刑というのは、象徴的な意味をもっているわけで、要するに、日本という国は、死刑制度を存置していることによって、「いざとなったら殺すよ」というメッセージを常に発しているとみなすこともできるわけです。先日のオウム死刑囚の執行の際には、なぜか事前に執行準備開始とかがニュースになったりして、死刑執行を国民に対してアピールしているようでもあり、これは要するに、「国に逆らったら殺すことができるんだよ」というメッセージを発しているように思われて恐ろしいです。

近代国家は主権在民ですから、基本的に、国家がすることは国民がすることです。「国に逆らったら殺す」というメッセージは、国家に自己同一できる人にとっては、「悪いやつを殺す」という勧善懲悪的な意味になるのかもしれず、それによって自己の権力が増大したような感じがして気持ちがいいことなのかもしれませんが、どうもそんなふうに単純に国家権力を信じることができるというのはナイーブすぎるように思います。水戸黄門とか暴れん坊将軍とかの世界じゃあるまいし。

それはさておき、国民に対して「いざとなったら殺すよ」というアピールをし続けている国というのは、対外的にいえば核を保有してる国と同じことで、つまり、「最終的にはやっちゃうよ」ということを、隠す必要も感じていないというか、むしろそれを積極的にアピールして恫喝しようとしているのだと思います。人間でいえばちょっとガラのよろしくない人で、あまりお付き合いしたくないタイプになりますよね。

核保有の場合は、対外的に、うちを攻撃したらタダでは済まさんよとアピールしているわけですが、死刑制度の場合は、そうした恫喝を国内向けにやっているのだと、わたしなどは思うのですが、アンケートをとると、どうも日本人の8割は死刑制度に賛成ということになっているらしいので、どうもみなさん、あまり脅されているという感じは受けていないようですね。自分は排除する側だから安心ということでしょうか。

とはいえ、本当にいつまでも排除する側でいられるものかどうか、例えば、昨年成立した対テロ共謀罪について、政府は、一般市民が嫌疑をかけられるようなことはないから安心してくださいと説明していましたが、要するに、嫌疑をかけられるような奴は一般市民ではなくてテロリストだから、定義上、一般市民が嫌疑をかけられることはないといっているだけのことで、単なるトートロジーにすぎないと思います。わたしは全然安心できません。

現在の法律では、一応、殺人をしなければ死刑にはならないということになっていますが、これについても、いつまでもそうだとは限りません。というのも、原理的に、国家権力の判断によって個人を殺すことが可能であるという体制になっているわけですから、その判断の内容を変更すれば、死刑の範囲を広げることは可能だからです。ニュルンベルク法だって、合法的に定められた法律だったわけですし。

というわけで、わたしとしては、正当防衛的・緊急避難的以外のどんな場合であっても、国家(つまり総体としてのわれわれ自身)に、個人を殺す権限を与えるべきではない、言い換えると、われわれ自身の力を、個人を殺すことに使うのは自粛すべきであると思っています。もちろんそう決めていたとしても、やるときにはやってしまうものだし、そういう制限がいざとなった時にどれほどの効果が期待できるかは分からないことですが。

しかしながら、そういう心構えがあるのとないのとではだいぶ違うと思うし、なにより、殺すかどうかは主権者であるわたしたち自身の意志なのです。わたしたちが、自身を誤謬性のある存在であると自覚できているなら、自分たちの基準によって誰かを殺すという決定をくだすのは危険すぎることだとわかると思うのですが。

死刑制度に賛成という方の中には、天に代わって悪を裁きたい、とか、裁くべきだ、という方がけっこうたくさんいるみたいですけど、問題になるのは、そんなことがはたしてわたしたちにできるのでしょうか?ということです。あんまり思い上がったことは考えない方がいいと思います。天罰は天に任せて、人間は、自分たちが間違いを犯さないようにすることを一番に考えるべきだと思います。(個人のレベルでいえば、間違いをおかすことは悪いことではないですが、集団として力をふるう際には、絶対に間違いを犯さないように、常に気を付けていなければならないと思います。)

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