こんにちは。たいへんお久しぶりです。
こないだの金曜日に、テレビでエマ・ワトソンの『美女と野獣』をやってて、ちょっとだけ見ましたが、あまりに子供向けだったので、ちょっとしか見られませんでした。


こちらは、半年ほど前にテレビで2014の実写(仏)の『美女と野獣』を見たときの感想ですが、最近御伽草子の鉢かづきを読んで、似てるところと違うところが気になったので、今日はちょっとそれについて書いてみようかと思います。長くなるので、今日はまず、『美女と野獣』についてです。

『美女と野獣』で、美女が野獣を「野獣であるがゆえに」愛したのだとすると、最後に王子になってしまったらがっかりだと思うんですが、美女は野獣が王子になっても、別にがっかりする風でもなく、むしろ王子になってよかったねというニュアンスだったようなので、彼女は彼を、「野獣であるがゆえに」愛したわけではないということなのでしょう。

一体、野獣というのは、外見の話なのか、性格の話なのか、性格が野獣というのはちょっと怖いですけど、見方によっては魅力にならないわけでもない。つまり、いわゆる「男性的」魅力ってことでしょう。あるいは飼いならされていないってことか。

それに対して、外見がビーストっていうのは、どうもあんまりほめる要素にはならないようで、一般的な女子からはイヤだと思われてしまうような容姿ってことなんでしょう。わたしの場合は、The beastと聞くとボブ・サップを思い出してしまうわけですが、彼は生肉を齧ったりしてビーストっぽさを演出していましたけど、アメフト時代はOGだったことからわかるように、決して根っからのビーストだったわけではありません。ナチュラルボーンビーストならDLになるでしょう(偏見です。アメフト知らない人はスルーしてください)。

エマ・ワトソンの『美女と野獣』の場合は、「野獣が本当に愛されたら野獣じゃなくなる」ということになっていたようなので、これはなかなかジレンマですよね。野獣を野獣として愛してくれる人が現れたなら、野獣から王子に戻ることができるわけですけど、そうなると野獣として愛してくれた人(ケモナー)には不満だろうと思います。

それか、顔が野獣でも構わない、けど本当のことを言うとイヤだと思ってる、っていう人に愛されたらいいってことでしょうか? それとも、顔は野獣でも王子でもどうでもいい、野獣自身が、野獣の顔であるのを嫌がってるのなら王子にでもなんでもなれば?って人に愛されたらいいってことですかね?

◆ここらから本論◆

前置きはこれぐらいにして、本論に入ります。実際のところは、「王子」というのは、顔がどうこういう問題ではなくて、いわゆる少女漫画的な「白馬に乗った王子様」的なものなのだろうと思います。つまり、主役はあくまでもベルであって、彼がベルをお姫様にしてくれるなら、顔はどうであろうとも本質的に「王子」である、で、本質が王子であるなら顔も王子になるというのはお伽噺の常套ですから、最終的に、身も心も完全な王子になるということなのでしょう。

そう考えると、「野獣」というのは、単に顔が野獣とか性格が野獣だとかいう以前に、ベルをお姫様にしてくれない奴という意味で、その意味では、たいていの男は野獣ですよね。
たとえ野獣がベルをすごく好きだったとしても、ベルがいやなようなやりかたで好きなんだとすると、それは野獣の愛し方であって王子の愛し方ではないわけで、ストーカーには好かれれば好かれるほど気持ち悪いってのと同じことです。

つまり、「誰かが野獣を愛したら」という縛りは、実は、「お前が誰かの王子になれたら」ということで、「愛される」という受動的なことだけを問題にしているわけではなくて、「愛されうる男(つまり王子)になれ」という能動的な課題だったということですね。

さてそれでは、具体的にはどうなると彼は「愛されうる王子」になるのかですが、話の中でベルが野獣を「本当に」好きになるポイントは、野獣が死にそうになった時or死んだ時です。多少の異同はありますが、昔話系だと、ベルが一旦里帰りをさせてくれと言って実家に帰り、約束を忘れるとか、父親が病気になるとか、意地悪をされるとか、なんらかの事情で野獣のもとに帰れなくなり、約束の期日が過ぎてから野獣のもとへ帰ると、野獣が死にそうになっていたり、死んでしまっていたりして、それに対してベルが泣くと、野獣が王子になってよみがえる、という筋になっています。

つまり、野獣の野獣としての本質が、コミュニカティブでない「自分の欲求」というか「志向性」、つまり、彼自身の「主体性」にあるなら、死というのは、月並みですけど、そうした欲求とか指向性の起点である主体性の消滅ということで、まあ、死んでしまえば確かに、「もはや野獣ではない」ことの端的な証明にはなりますね。ただ、それだけでは「彼女の王子」になったかどうかはわからないので、できれば「ベルゆえに死ぬ」という要素があった方がよいかと思います。つまり、クラシカルなバージョンのように、ベルが野獣との約束を破る方がいいですね。(エマ・ワトソンの野獣は、ベルゆえにというわけではなく、単に卑怯な悪者に撃たれて死ぬだけなのでいまいちだと思いました。)(ただ、「ベルゆえに死ぬ」的なことをベルの方から意識的に要求するのは、ちょっとならいいですけど、あんまりそういう試し行動ばっかりするのはよくないですね。モラハラになるし。)

ところで、さっきツイッターで流れてきたツイートが、まさにコミュニカティブでない「野獣」的態度のサンプルとしてうってつけだったのでご紹介します。


この方、女の子と高級店で食事して、会計前にホテルを打診するんだそうです。で、ダメそうだったら「スマートに」自分の分だけ払って帰っちゃうのだそうですが、そのことを「損切り」と言っています。損切りなら食事代くらい出してあげればいいのにと思いましたが、どうやら損切りって、自分の食事代のことを言っているみたいです。せこいww(「スマートに」はかなり笑えますね。おもしろい。)

で、こういう態度はもちろん「王子」ではないわけですから、「野獣」ですね。自分の欲求にとらわれているというか、要するにコミュニカティブではない。コミュニケーションをしようという気が全然ない。いくらなんでも、もうちょっと口説けよと思いますね。
エロゲじゃないんだから、最初から「やれるか・やれないか」が決まってるわけじゃありませんし、「あそこで食事したからやれる」とか、「デートにいくら使ったらやれる」とか、そんなフラグが立つわけではありません。

で、上の方に対してのお姉さん方のコメント。だいぶ優しい方々。


ですよねー。
要するに、ちゃんとコミュニケーションをとろうとする人とじゃなきゃ、何もする気にはならんということで、そんなのは当たり前のことですね。「ワンチャンすら潰しにいく下手くそ」って、その通りだと思います。

さて、上の方は「やりたい」という欲求における野獣でしたけど、性的欲求以外でも、例えば『あしたのジョー』なんかは、出てくる人がそろいもそろって野獣ばかりという話(マンモスは除く)なのですが、ただ、ジョーは自分から女子に寄ってったりしないというか、むしろ「おれに近づくんじゃねえ、シャーッ」っていうタイプなので、要するに単なる野生動物みたいなもので、燃え尽きるまで野獣のままで別に構わないんですが、女子を口説きたいとかいうんだったら、ちょっとホセやらカーロスやら力石より、こっちを向いてくれないと、普通は付き合いたくはないですよね(のりちゃんはちゃんと損切り出来て偉かったです。)。白木の御嬢さんは、自分こそはと思ってたんでしょうけど見事に玉砕しました。要するに、ジョーみたいな野獣は、どうしようもない野獣なので、関わり合いにならないのが吉ということですね。(そういえば、刃牙のお母さんはかなりの野獣好きでしたねえ。)

というわけで、『美女と野獣』に話を戻しますが、野獣として死んで、王子として生き返るということですけど、簡単にいうと、自分勝手でいないで、ちょっとはコミュニカティブになれ、というだけのことです。しかしながら、『あしたのジョー』とか『F』とか『哭きの竜』とか、その辺の話をみるとわかるように、そのようにいうことは、ジェンダー規範が強い男子にとっては「死ぬこと」に等しいものであるようです。それはそうなんだけど、愛されたかったら、ぜひとも王子になってもらわないと困る、というのが『美女と野獣』の立場であると思います。(一人で死ぬなら、もちろん、勝手にどうぞとしか言いようがないですが。)

美女が野獣を愛するといっても、実は野獣の野獣性を愛するということではなく、野獣を王子に変えて、その王子を愛するというのが正しいのだと思います。話の筋としては、ベルが野獣を愛したから王子になった、と説明されていますが、これは物語の常套手段で、ベルはむしろ野獣が王子になったからこそ彼を愛しえたのであり、野獣はその本質が王子になったから、ベルに愛されもするし、また、外見も王子に戻ったのだ、というのが正確なところだろうと思います。

さて、このように考えると、『美女と野獣』というタイトルですけど、美女は即時的に美女であるけど、野獣は美女によって、野獣であるか王子であるかが決定される、という意味のようで、なんだか不公平なような気もしますが、話としては、王子に愛されないと本当の美女にはなりえない(物語的にベルが「幸せに」ならない)ということでしょうから、ベル自身は、野獣から王子へというような一目でわかる変化はしていませんけど、「野獣&ベル」のベルから、「王子&ベル」のベルへと変化しているともいえるわけで、簡単にいうと、愛し愛される相手がいないベルからいるベルへ、不幸せなベルから幸せなベルへと変化したということですね。(愛し愛されて生きるのさ。)

このようにいうと、何やらベルが「愛され待ち」な態度であるかのようですけど、野獣においてと同様、ベルにおいても、もちろん、愛されるということは単に受動的なことではありません。能動と受動ではなく、互いにコミュニカティブになるというところがポイントです。で、それを妨げているのは野獣の野獣性で、男が「野獣」のままであったら、ベルは彼を愛しようがないわけで、ぜひとも男の方もコミュニカティブになってくれなければ困るというだけのことです。彼女自身がコミュニカティブであるのは当然のこととして。ですから、「王子になってもらわないと困る」というと、なんだかひどく要求だけしていて受動的な態度であるかのようですが、実際には全然そんなことなくて、こちらと同様に相手にもコミュニカティブであることを要求しているだけで、野獣である男には、そんなことすら大変難しいというのが問題なだけなのだと思います。(つまり悪いのはベルではなくて野獣ってこと。)

で、まあ、『美女と野獣』においては、野獣がベルを愛することによって王子になり、王子になったからベルに愛されもし、また、ベルも最初は野獣に好かれてるだけで嫌だったんだけど、最終的には王子に好かれるようになってハッピーなわけで、ベルと野獣改め王子は、win-winな関係にあるわけです。よかったですね。(つづく)

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