こんにちは。美女と野獣と鉢かづき姫と鶴女房などについて、続きを書こうとは思ってたんですけど、なんかちょっと別のこととかしてて、ほったらかしになっていました。そのうち書こうとは思っています。

今日はそれとはちょっと別の話で、とあるブログ記事を見かけまして、こちらの「あるトランス女性が見た北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』」という記事なんですけど、これを読んでちょっと考えたことがあったので、あんまりまとまってないですけど、感想を書いとこうと思います。

※7/16追記。さえぼう先生がアンサーブログ書かれてました。こちらです。※追記終わり。

解釈というのは、視点がほぼすべてなので、オリジナルな視点からなされればオリジナルな解釈になります。別にオリジナルな解釈をしたくて生きているわけではないといわれるかもしれませんが、わたしからすると、わたしの生きる意味は、わたしがどんな風に物事を解釈できるかと同義ですから、人間の中には、解釈することと生きることが同義な人がいて、また、オリジナルであることを何より大事に思っている人もいるんだなあと思っていただけば結構です。別に皆さんに対して、オリジナルでなければ生きる意味がないとか言っているわけではありません。(もっともわたしの世界では、人間だれしもオリジナルな存在なのだから、それぞれの人が行う解釈はみなオリジナルなものであるはずなのですけど。)ただ、外からはオリジナルに見えない場合でも、本人にとってはオリジナルということはあり、そうであるならわたしとしても文句のつけようがありませんので、オリジナルということそれ自体も、個々人が自分で決めることであり、ようするにわたしは、他の方の生き方に対して、文句をつけようという気はまったくありません。ただ、わたしがわたしの生き方について述べる際には、こういうのはダメだ、そういうことでは意味がない、ということはよくあります。これも単にわたしがそう思っているというだけですから、別に自分が否定されたとか思わずに、解釈違いだなとスルーしていただければ幸いです。皆さん、ご自分の生き方は、ぜひご自分で見つけられるよう頑張ってください。

※補足
ほかの人から見たらオリジナルでなくても、本人にとってはオリジナルだというのには、いろいろなバリエーションがあるでしょうけど、ごく簡単に言えば、意味におけるオリジナリティではなく、体験としてのオリジナリティというようなものを想定して言っています。そうなってくると、オリジナリティという言葉より、クリエイティビティといった方がよいかもしれませんけど。ある物語を実際に読む(体験する)とき、もう何度も読んで知っていた話だったとしても、読むことによってその都度体験されるもの(リアリティの体験)があります。これは読むことによってしか体験されないものですから、その体験自身はオリジナルなものです。sui generisなものというか。で、解釈というのは、そのオリジナルな体験を、文というか言葉で表現するということです。(補足ここまで)

さて、前置きはこれくらいにして、もとのブログ記事ですけど、いうなれば「トランス女性解釈学」のような視点からすると、さえぼう先生の解釈には納得できないということだと理解しました。

他人による解釈が納得できないということはよくあることですから、それ自体は大したことではありません。流派が違えば解釈は異なります。

たとえばわたしは宗教学というか、宗教現象の解釈学をやっていたのですけど、宗教学という学問は、何を対象とするのかという点においても、コンセンサスがとれていません。
主に対象とする「宗教」が、キリスト教とか仏教とかイスラム教とかいうような、昔でいえば「高等」な宗教なのか、それとも、もっと「習俗」みたいな宗教なのか、あるいは「新宗教」みたいなものなのか、あるいは現代日本人に標準的な「無宗教」を基準に宗教を考えるのか、というような違いによって、ある現象の意味付けはまったく変わります。宗教現象の中には、たとえば人身供儀とか、動物供儀とか、現代人のモラルでは解釈するのが難しいような事例も多々あります。そういうのを無理に解釈する必要はありませんが、とにかく、歴史上の宗教現象を解釈する際には、常に解釈者自身の「宗教」理解や「人間」理解や「世界」理解が問われることになります。

そういう意味では、この方が指摘している、さえぼう先生によるトランス女性を描いた映画についての解釈が、「シス女性」による解釈だというのは、事実そうなのでしょう。わたしは映画も見ていないし、さえぼう先生の本も見ていないので、なんとも言えませんが。

まあ、元の映画についての批評として、トランス女性を描いた映画を、「単なる女性を描いた映画」として解釈するというのは、ブログの方が指摘しているように、いろいろ抜けてるところが出てくる解釈視点だろうとは思います。しかしながら、あえてそのように見ることによって明らかになるものを語るためには、あえてそのように見ざるを得ないということもあるだろうと思います。(それが解釈における視点の設定ということなので。もとの作品から意味をくみとる際に、どんな解釈であれ、汲み取れない部分というのは当然出てきます。わたしがさえぼう先生の本にそこまで興味が持てなかったのは、あの本が「フェミニズム批評」で、しかも「入門」であるらしかったからで、わたしからすると、そもそもフェミニズム批評というのはだいぶ偏った見方のひとつで、偏っているがゆえに近代批判とか男性中心主義批判とか、そういう特定の文脈ではたいへん有効なものになりうるでしょうが、けして全体的な解釈学(というのは、わたしの場合は宗教現象をも解釈できる解釈学という意味ですが)になりうるものではないというか、現状なりえていないと思っているので、今までフェミニズム的なものの見方をよく知らなかった人にとっては、そういう本を読むのもいいことですが、わたしには別に必要ないかなと思って読んでいませんでした。)

作品の評価として、そういう見方が不公平であるとか、本質をついていないとか、そういう感想をもつことは正当なことなので、どんどん批判したらいいと思いますが、その際にもとづいているのは、あなたの立場(視点)からのあなたなりの解釈です。で、違う立場から解釈すれば、違う解釈になるのが当たり前なので、そもそも何のために批判するのかというと、元の解釈をした人の視点と、自分の視点との違いをはっきりさせるためです。他の人の解釈を批判的に参照することによって、自分の解釈の視点を明確にすることができます。で、そのうえで、自分なりの解釈をするわけですが、自分の解釈というのは、自分の視点を採用すると世界全体がどんな風に見えるか、を明らかにすることです。(そういうわけで、ある解釈視点を獲得したら、さえぼう先生が(たぶん)やっているように、いろいろな事例を同一の視点から解釈してみせるというのが、その視点を理解させるうえでも、その視点の射程を示すためにも、有効なことだと思います。ですからブログの方も、トランス女性と直接関係ある作品についてだけでなく、もっといろいろな作品について、同一の視点から同じように解釈することができるかどうかを試してみられたらよろしいかと思います。)

ブログ中での議論についていうと、「画家ではなく女性になりたい」というセリフに対して、誰かがそのように思うことについては、別に個々人の自由ですからいいも悪いもないんですけど、現代における表現として、そういうセリフが映画の中で語られるとどういう意味を持つかというのはまた別の問題です。で、ある種の視点からすると、現状世間一般で流通しているような「性別」に関する観念を強化するような方向性を持っていると解釈することは可能ですし、その点を批判するというのももちろん可能です。

先ほども言いましたように、映画も本も見てないんですけど、そのセリフだけを聞くとやっぱり、いやいや「女性」なんかになるよりむしろ「画家」になろうよ、と思ってしまいますね。通常、というのはシス女性に対しては、という意味なのかもしれませんが、誰かに対して、「あなたは教師というよりむしろ女ですよね」と言ったら、どんな意味でもダメなわけで、これは男性に対してもダメだし、それと同じように、トランス男性に対してでも、トランス女性に対してでも、言ってはいけない発言であると思います。トランス男性なり女性なりが、本人の気持ちとしてそう願うのは批判されるべきことではないですが、ひとつの表現としては批判されるべきものだということですね。(もちろん、映画の中の人は、画家になる(画家として認められる)のは自分には難しくないが、女になる(女として認められる)のは難しいという意味で言ってるんでしょうけど。それはそれとして。)

「会社員である前に母親です」とか、「母親である前に一人の女です」とか、そういう言い方がある種の意味を生じさせるのはそうですけど、そうは言ってもわりと微妙な表現かなと思います。少なくとも、自分で言うのはよいけれど、他の人から言われるのは絶対ダメというタイプの表現だと思います。「女である前に人間です」とかいうのだったら、あまり悪い意味はなさそうで、「人間」というのは、とりあえず人間なら全員が含まれているのであまり問題にはならないということなんでしょうが、「火星人」とか「金星人」とか「知能を持ったロボット」とかがいる世界で、「人間(地球人)」と言う場合だと、やっぱり問題が生じるかもしれません。これは「日本人」というのがあまりよくない場合があるのと同じです。

もっというと、「画家になる」というのも微妙な話で、やっぱり基本的には「画家」である以前に「個人」であってほしいわけで、「個人」という場合は、たとえば絵を描く人であるなら自分が絵を描くという意味ですでにして画家であるわけなので、わざわざ誰かに「画家」と認めてもらうとか、「画家」としてお金が稼げるとかいうこととは関係なく、「画家」であるかどうかは自分で決めるべき問題なわけです。

最近、「何も作品を書いたことがないけど作家になりたい」とか言ってる人をツイッターで見かけましたが、その人は多分ネタで言ってるんでしょうけど、作品を作る人が作家なわけで、なりたかったらなにか作れば作家になんか自動的になるのに、と、わたしだったら思いますが、たぶんその人は「作家」というのは誰かにそのように認めてもらわないとなれないものと思っているわけで、だから作品を作ることとは別に「作家になる」ということがありうると思ってるのかもしれませんが、「男になる」とか「女になる」とかいうのも、すでにそうであるという意味で男であったり女であったりする場合と、誰かに「男である」とか「女である」とか認められて初めて、男になったり女になったりするという場合があるのでしょう。で、実際には、まだ自意識がちゃんとないうちから外面的に「男である」とか「女である」とかいう扱いを受けて、シスジェンダーの場合はそれを内面化(完全にではないにしても、日常生活を送るうえで不便がない程度には)することで「男である」とか「女である」とかいう自意識を持つようになるのでしょうけど、そうは言っても根本的には、誰が何と言おうとわたしはわたしだというレベルがあるわけで、そういう意味では、誰が何と言おうと、「自分がそうである」ということは、既にして「そうである」と言って構わないわけで、だからこそトランスという生き方がありうるわけでしょう? てゆうか、そういう選択をしたからこそ、初めに外面的に押し付けられた性を拒否して、別の性に移行するのではないのですか? つまり誰かの性というのは、その人がどのようなものとして見られるかということによって決定するのではなく、その人自身が自分は何であるとしているかによってのみ決定するのではないのですか?

ブログの方は、さえぼう先生について、

北村先生は、こうしたことを想像さえしていないように思います。ただ自分たちにとって女性であることや女性らしさのステレオタイプがどういう意味を持つのかだけを考えている。ああした場面に古くささや奇妙さを感じるとき、それを感じさせるのはシスとしての色眼鏡なのです。むしろその違和感を手掛かりに、「なぜこのひとたちはこうなるのか?」と考えて、私たちの生き方に思いを馳せてほしかったところです。でもそこで北村先生はトランス女性の立場には向かわず、自分自身の観点から否定的に評価してしまう。

と批判していますが、「外から規定される性別」という意味では、シス女性をステレオタイプ的に「女性」であるとみなす抑圧は、いうなればトランス女性を「男性」とみなす抑圧とパラレルなのであって、トランス女性が「男性とみなされること」を拒否するのと、シス女性が「ステレオタイプ的な女性とみなされること(女性というものをステレオタイプ的にとらえること)」を拒否するのは、同じ意味を持っていると思います。

そうした押し付けに対する異議申し立てとして、トランス女性の場合は「男性」から「女性」への移行を自己決定するわけですが、ある種のシス女性は、外的に規定される「女性であること」の意味を問い直すということで自己決定しようとするわけです。みんながみんなするわけではありませんが。ステレオタイプを問いに付すというのは、自分の性に対する自己決定という意味であって、その意味では、トランス女性によるトランジションに相当する試みだろうと思います。

以上は、ブログに書かれていたことについて、せっかく書かれたわけなので、もうちょっと普遍的に使えるものにした方がいいんではないですかという意味での提案です。トランスという行為の意味を、あまり狭く規定してしまうと、トランスについてはトランスしてない人にはわからないということになってしまって、もちろんそういう解釈学を作りたいということなら、そうしてくださって構いませんが、わたしだったらせっかく解釈をするのなら、あらゆる問題に応用できる視点を提出できた方がよいだろうと思うのですけど、その辺は好みもありますので、ご自分の好きになさるのがいちばんです。

もとのブログの方に言いたいのは、あなたの解釈はあなたが創造したあなただけのものだし、あなたの作品理解の仕方はあなたそのもの(あなたの実存)に由来するのだから、あなたの理解以上のあなたらしい理解を、他の人が提示することなんかできるわけがない。それはあなたがやらなくてはならない仕事です。だからむしろ、あなたがほかの方の解釈を不満に思ったのなら、たとえば今回やられたように自分でブログを書くとかすると、あなたの解釈がよりはっきりしてくるわけで、それは自分について今までよりもっとよく知ることの契機になるわけで、そういうきっかけになりえたというのなら、さえぼう先生の本はそれだけで十分書かれる意味があったのだと思います。誰かが他の人に対して自分の解釈を提示するということの意味は、結局のところ、他の人に対して、わたしがわたしの解釈をこうやって形にしたみたいに、あなたもあなたの解釈を形にしてみたらどうですか、と呼びかけること以外にないと思うからです。

あんまりまとまっていないけど以上です。

こないだの続きの鉢かづき姫の解釈等はなるべく近いうちに書きます。ではまた。

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