江口某先生のブログで、ジュディス・バトラーについてのマーサ・ヌスバウムによる批判の日本語訳(だいぶ昔のもの)が紹介されていて、読んでみたらまあまあ面白かったので、今日はそれについて思ったことを書きます。片寄った視点からの勝手な意見です。

フェミニズムにそんなに興味があるわけではないのですが、『ジェンダートラブル』は一応読んだことがあって、最初に読んだときには、いろいろ文句を言いたい気持ちでいっぱいだったんですけど、ヌスバウムのバトラー批判を読むと、こんどはバトラーの方にだいぶ親近感を感じてしまって、これは自分でも少々意外でした。ヌスバウムと比較してみると、バトラーもそんなに悪くないじゃんと思えてしまうというだけのことですけど。

わたしはもともとポストモダン的なものはあまり好きではなく、その理由は、「近代批判」としてだったら言いたいことはわからなくはないけれど、資料的な偏りがありすぎていまいち使えないからで、バトラーに対してもそんな感じの感想でした。わたしは宗教学をやっていましたので、「使える」というのは、例えば神話とか昔のお祭りとかを解釈する場合に、使える視点であるかどうかという話です。ポストモダン的な人間論は、近代人を資料としているものばかりなので、わたしからすると、どうも狭い話であまり面白いものではないということです。(近代人を解釈するためには使えるんでしょうけど、ということです。まあ、ポストモダンという名前なので、それだけで十分だといえばそうなんでしょう。だからわたしの文句の付け方は、正当なものではないのだろうと思います。あ、でも、自分で自分のことをポストモダンといっている人ってあんまりいないか。)

ヌスバウムによるバトラー批判は、ある分野の学問的立場からの批判としては、妥当なものなのだろうとは思います。
とはいえ、そもそもバトラーは、ヌスバウムが属しているのと同じ「アカデミックな」ところで話をしているかどうか、つまり、バトラーの文脈からいうと、そうした「アカデミックな立場」からものを見るということそのものが問題なのですから、彼女に対して「アカデミックではない」と批判することは、たとえそれが当たっている批判だったとしても、批判になっていないのではないかと思います。

簡単に言うと、バトラーが目指していることとヌスバウムが目指していることは、水と油のように正反対なものなので、片方が「いい」と思っていることはもう片方にとっては「悪い」ことで、逆もまたしかりなので、片方が自分の基準から相手を「悪い」といっても、もう片方にとっては「いや、それっていいことじゃん」となるだけのような気がします。※1

一般的なバトラー理解ではないと思いますが、わたしの考えでは、バトラーの根本的な主張は、
「意味」はパフォーマティヴに「体験されるもの」であって、「実体」ではない。そうした「意味」を「実体」であると主張する態度は間違いであるし、抑圧的構造はそうした間違いに由来する。
ということになると思います。※2

『ジェンダートラブル』の最後の方から引用。
ジェンダーは真実でもなければ、偽物でもない。また本物でもなければ、見せかけでもない。起源でもなければ、派生物でもない。だがそのような属性の確かな担い手とみなされているジェンダーは、完全に、根本的に不確かなものとみなしうるのである。(『ジェンダートラブル』p.248)

この部分、英語で見てみたい気もしますが、面倒なので翻訳を信頼するとして、バトラーは「ジェンダー」一般について、解釈的な実在性や、ある種の「意味」があることは認めていると思います(前半部分)。彼女が文句があるのは、そのような解釈的に体験される実在としてのジェンダーを、「実体」とみなす態度、ひいてはそうした「実体」を事後的に「起源」に措定してしまう態度についてであって、そのように「実体」とみなされたジェンダーは、「根本的に不確かなもの」であると言っているわけです(後半部分)。(「実体」というのは、スタティックな、不変の自己同一性を持ったもの、というくらいの意味です。)

バトラーは、具体的に今あるジェンダー規範に対して、「攪乱」とか「転覆」といった行為を推奨するわけですが、それというのもこれらの行為は、「体験された規範(意味)」としてのジェンダー(なりなんなり)を復活させる(再活性化させる)ために必要な行為だからだと思います。

バトラーの目論見では、パフォーマンスによって既存のジェンダーの外面をずらすと、それまで「本質的」と思われていたジェンダー規範(「本質」に由来すると思われていたジェンダー規範)が、新しい「意味」を開示する(パフォーマティヴに、事後的に)。すると、それまでは単なる抑圧にすぎなかった「規範」が、体験に裏打ちされた「規範」としてよみがえる、というような仕組みになっているのだと思います。(はっきりそう言ってるわけではないのですけど。わたしにはそう思われました。)

ただし、そのように「生きた規範」として取り戻されたジェンダーも、それを「実体」とみなすやいなや、ふたたび単なる抑圧する構造になってしまいます。ですから、それを「生きたもの」にしておくためには、常に各人が、「攪乱」と「転覆」をし続けなければならないということなのでしょう。※3

図式的に示すとこんな感じです。(わたしの言葉によるバトラーの思考のダイナミズムについての推測です。)

  • 「あるもの(ジェンダーとか)」に、体験において「意味」を見出したとする。(見出された瞬間の「意味(meaning)」は意味(significance)あるものである。同時に、そうした「意味」を見出したものとして、「主体」が事後的に見出される(生まれる)。)
  • しかしながら、開示された「意味(meaning)」を「実体」とみなすと、「意味の体験(「意味」が「意味する」というダイナミックな体験」)はなくなってしまう。(世界が死んだものとなってしまう。抑圧する構造になってしまう。)
  • 再び「生きた意味」を取り戻すためには、「あるもの」を、措定された「実体」から切り離さなければならない。(攪乱と転覆。また、それによって、主体から実体としての主体性が切り離される。どうしてかというと、かつての主体が知らなかった「新しい意味」が生まれるから。要するに別の主体が新しく生まれているということ。)
  • 攪乱によって、それ以前に措定された「実体」とは違うものに変化したジェンダーは、再び「意味を生み出す」ものになりうる。ただし、そうした「攪乱」行為ですら、再び「実体」を措定する行為になってしまう。
  • それゆえ、また、新しくできたジェンダーをも「攪乱」しなくてはならない。(以下繰り返し。)

当たっているかどうかは分かりませんが、わたしのバトラー理解はだいたいこんな感じです。

「規範」なりなんなりが「意味」を持ちうるのは、実体としてずっと不変にということではなく、ある体験においてその行為を遂行した瞬間だけで、そうした体験と離れた「規範」はクソだという感じでしょうか。(そこまではわたしも同意します。ただし、そのクソはいつまでもクソのままなのか?という点は考えて見なければならないと思います。)

しかしながら、こういうふうに図式化して見ると、どうも歴史的というか、歴史弁証法的というか、近代ヒューマニズム的というか、キリスト教的というか、要するに、世界はだんだん良くなっていく(はず・べき)という考えが根底にあるような気がしますね。で、そういう前提はヌスバウムとも共有されている※4もので、わたしからするとかなり近代主義的な気がします。(つまり、ヌスバウムに批判されても仕方がない不徹底なところがあるということ。)

ヌスバウムによるバトラー批判について

さて、わたしはだいたい以上のようにバトラーを理解しているわけですが、そうした理解に立ってヌスバウムの批判を読んでみると、いろいろつっこみどころが多くて面白かったわけですが、いちいち指摘するのは面倒なので、何ヵ所か選んで少しつっこんでおきたいと思います。

引用(カッコ内はわたしによる要約)
(バトラーはジェンダー規範についてパロディ的転覆を推奨しているが、規範の転覆ということについて言うなら、)正義のパロディー的な転覆は、個人的な生活でもそうであるように、政治のいたるところにある。しかし重要な違いがそこにはある。一般的にわたしたちはこのような転覆的なパフォーマンスを嫌い、そしてわたしたちは、若い人びとがそのようなシニカルな見方で正義という規範を理解するようには推奨されるべきではないと考えている。バトラーは規範としての正義の転覆が社会的な悪である一方、なぜジェンダー規範の転覆が社会的な善であるのかということを、純粋に構造的もしくは手続きに則ったやり方で説明できない。

ヌスバウムが「重要な違い」という点が、「一般的にわたしたちは政治についての転覆的なパフォーマンスを嫌う」という点であるのはいろいろな意味で驚きです。

バトラーにとったら、「ジェンダー規範」の転覆と同様に、「政治規範」の転覆も推奨されるでしょうし、また、「政治規範の転覆を嫌う人」は、「ジェンダー規範の転覆」だって嫌うでしょう。
ヌスバウムは、バトラーが、「規範としての正義の転覆が社会的な悪である」ことを説明していないと批判しているわけですが、そう思っているのはヌスバウムであってバトラーではありませんから、なぜそれをバトラーが説明しなければならないのか、わたしにはちょっとわかりません。

この部分からわかることは、単に、ヌスバウムは、特に理由もなく、「規範を転覆しようとするのは悪いことだ」と思っているということだけだと思います。(あと、特に「正義」ということについて、なにやら絶対的な「信仰」を持っているらしいということです。)

ヌスバウムはまた、バトラーが、「ジェンダー規範の転覆が社会的善である」という理由を説明していないと批判していますが、そもそもバトラーの文脈では、「社会的善」という考えは出てこないと思います。(バトラーのことなので、いい加減に、あるいは反語的に、そのようなことを言ったりすることはあるかもしれませんが。)
なぜなら、すべてはパフォーマティヴに構成されたものであって、「善」にしろ「ジェンダー」にしろ、何らかの実体が人間に先立って本源的に存在しているという考えはバトラー的ではないからです。

ヌスバウムが、政治に対する転覆的なパフォーマンスを見て不愉快な気持ちになるのだとしたら、その際の転覆的パフォーマンスは「成功している」わけで、そのように感じる人がいるからこそ、転覆的パフォーマンスはやる価値があるのだということになってしまうでしょう。なぜなら、説明する必要も感じないほどに「本源的」と思われているものが、転覆的パフォーマンスによって問いに付されているからです。(それこそがバトラーの目指しているものじゃないですか。)

というわけで、この部分、議論としては、ヌスバウムは、わざわざバトラーの説の「正しさ」を証明するようなことを言ってしまっているわけで、そんなのは隠しておけばいいものを、わきが甘いというかなんというか、ヌスバウムが本源的な「善」とか「悪」(悪は本源的じゃないかな?善が不足してるだけかな?)とかが存在する世界に住んでいるというのは別にいいですけど、よりにもよって批判相手のバトラーもそれを共有していると思い込んでしまっているあたり、いやしくも「哲学者」を名乗る人が、ちょっとどうなのかしらと思います。

もう一ヵ所、引用。
バトラーが転覆を勧める時、正確にはいったい何を提示しているのだろうか?彼女は我々にパロディー的なパフォーマンスに携わるようにと告げるが、同時に彼女は抑圧的な構造から完全に逃げるという夢はやっぱり夢なのなのだとわたしたちに警告している。わたしたちが抵抗のためのほんのわずかの空き地を見つけなければいけないのは、抑圧的な構造の中にであり、またこの抵抗では全体的な状況の変革を望むことができないのだ。そしてここに危険な無抵抗主義がある。

この部分からは、ヌスバウムが、先に引用したバトラーの「ジェンダーは真実でもなければ、偽物でもない。また本物でもなければ、見せかけでもない。起源でもなければ、派生物でもない。」という説明を理解していないようだということがうかがえます。

ヌスバウムにとって、構造にしろ、理想にしろ、すべては実体としてあるもので、だからたとえば、バトラーがパロディによって、実体とされていたものが実は構成されたものだということを示し、それによって本源的とされていた意味を解体して、新しい解釈的意味を発見したとしても、ヌスバウムにはそうした「体験」は見えておらず、結局のところ「構造」はそのままあるじゃないかということになり、バトラーは実は何もしておらず、何かしたような気になっているだけということになるのでしょう。

バトラーの考えている「抜け出す」ということについて(抜け出すという言葉は使ってないですね。抵抗の方がいいでしょうかね。)、ヌスバウムは、具体的な抑圧的構造から、別の抑圧的でない構造へと移行することとして理解していますが、わたしの理解ではそうではありません。

それはそれで片寄った読み方だということは認めますが、わたしの理解では、バトラーが抜け出したいのは、これやあれといった具体的な抑圧的な構造からではなく、構造というものそのものから、というべきだと思います。(もちろん、実体論的にはそんなことは不可能です。しかしながら、体験においては可能だということなのだと思います。)

わたしなりにバトラーの主張を言い換えると、こうなります。
すべての構造は抑圧的である。しかしながら、構造というものは、それ自体として抑圧的なのではなく、わたしたちが自らの体験を実体視したときに、体験されていた「意味」が抑圧的なものに変わり、ひいては、そうした諸意味によって構成されている構造が、抑圧的な構造になるのである。つまり、抑圧的構造から逃げることが重要なのではなく、実体視するのをやめることで抑圧的構造を作り出さないことが重要なのだ。とはいえ、「実体視をしないこと」というのは、実際には不可能なのだけれど。(このあたり、バトラーが実際にどう考えているかは、よく読んでないのでいまいちわかりません。抑圧的構造を作り出さないことが重要なのではなく、作り出してすぐ廃棄することというようなのを目指しているのかなとは思います。たぶんバトラーの人間論では実体視してしまうことは必然でしょうから。あと、関係ない話ですが、わたし自身はこうしたバトラー的な構造理解にはあまり賛成ではありません。このへんもポスモダ臭がするところだと思います。)

もう一ヵ所、ヌスバウムの批判の引用。先ほどと似たような感じですが。
これは、奴隷に向かって、奴隷制は決してなくなることはないが、奴隷であるあなたは奴隷制をあざけったり転覆するやり方を得ることができ、それらの綿密に制限された抵抗の行為の中で個人の自由を得ることができるというのと、似ていることではないのか?しかしながら、奴隷制は変革することができ、実際に変革されたというのが事実である。それを行った人はバトラーのような可能性の見地に立つ人ではない。奴隷制を変えることができたのは、人びとがパロディー的なパフォーマンスに満足しなかったからである。彼らは社会的な大変動を要求し、そしてある程度それを得たのである。

これもさっきと似たような批判ですが、わたしはここを読んで、例えば、ガンディーがカースト制を支持したから悪いという批判や、カーゴカルトは結局のところ植民地支配の構造を肯定するものだから悪いという批判などを思い出しました。詳しくはいいませんが、そこで問題になっているのは、ある歴史的文脈にある人が、その人の手持ちの解釈枠組みを使いつつ、新しい「意味」を創造的に解釈した場合に、そうした解釈行為の創造性がわからない他者が、自分の文脈に当てはめることで、そうした解釈(創造的解釈)を不当に評価するという仕組みだと思います。

あとは、「体験」を問題にしようとする人のことを、それは「個人的な問題」にすぎないとして非難しているわけですが、そういう考えの根底には、世界の意味は多数決で決まる、というような偏見があると思います。

ヌスバウムは、バトラーについて、「自己陶酔のフェミニズム」と言っていますが、これはまあ、確かにそういうところはなきにしもあらずではありますけど、ヌスバウムにことさらにそう見えてしまう理由は、たぶん、「自己」というものの理解の齟齬が原因かなと思います。

「自己」自体がパフォーマティヴ・アクトによって「出来る」ものであるとき、そうした「自己」は実はいわゆる「自己(不変の実体としての自己)」を越えたものなのですが、ヌスバウムは完璧に実体論的(存在するのは実体だけだと思っている)な世界に生きていますから、バトラーがどういおうとそれを信じる気はなくて、結局のところバトラーは、最初から最後まで同じ「主体」であり、彼女がいくら「主体ではない」と言ったとしても、彼女がそう思っているだけで、本当のところは「主体」であり続けているに違いないと理解しているわけですね。まあ、たしかにそうなんだとしたら、「自己陶酔」でしょうね。この辺りは、それぞれの世界観にもとづいての話になるので、論証とか説得とかそういうレベルの話ではないですね。

まとめ

ヌスバウムの批判に対する感想はだいたい以上です。

パックスアメリカーナの中にいると、こんなにも単純というか、無自覚というか、無反省に生きていられるんだろうかと、ある意味感心したわけですが。まあ、あまり意地悪なことは言わないでおきましょう。ヌスバウムがこれを書いたのは1999年だそうですが、9.11を経験して、ヌスバウムは変わったんでしょうか、変わらなかったんでしょうか、もっとひどくなったんでしょうか。どうなんでしょうね。彼女の世界はだいぶ揺らいだだろうとは思いますけど。

バトラーに対する反応としては、ちょっとバトラーに攪乱されすぎというか、揺さぶられすぎで、本当に価値がないと思っているのなら冷笑しておけばよいだけなのに、生真面目に反応しすぎていると思います。結果、まんまとバトラーの狙い通りに反応してしまっているわけで、要するに、「わたしが客観的と思っている価値観を揺さぶらないで」ということなんでしょう。その点では、傲慢なことを言っていますけど、ほんとうはかなりナイーブな人なのかなとも思います。まあこれは余談。

わたしの評価としては、議論として考えた場合、ヌスバウムの負けかな、と思います。

ヌスバウムについては、いろいろ意地悪なことを書きましたが、彼女が例えばヒュームを読んで、「わたしはすぐにわたしの魂が復調してきたのを感じた。・・・・・・ヒューム、なんと素晴らしい、なんと丁重な魂だろう」と思ったりすることについて、別に文句があるわけではありません。わたしは宗教学者ですから、「信仰」をもった人が、その人にとっての「真実」をリアルに体験しているのを否定することはありません。しかしながら、彼女がそうした「体験」を実体視し、しかもそれを絶対的あるいは客観的善だとして、他の人の「体験」を断罪しようとするなら、それでもわたしはそうした彼女の考えを否定したりはしませんけど、少々文句をいうくらいはしておかなければならないなと思ったりもするわけです。(まあ、本職の学者じゃありませんから、文句を言うといっても、こうしてブログに書くくらいですけど。)

最後に、余談ですが、バトラーについて、体験としての新しさを問題にしているのだろうに、攪乱とか転覆とか、結局のところ「意味(内容)」の新しさにこだわっているのは、中途半端な感じがします。(体験的に更新されればいいだけだろうに、実体的な変化を求めてしまっているところに、彼女自身の「実体」に対しての「信仰」が潜んでいるような気がします。)

とはいいながら、バトラーについては最近ちょっと見直したことがありまして、ちょっと前に、やっぱりバトラーについて批判している記事を見かけたんですが、そこで引用されていたバトラーの言葉を読んだところ、それまで思っていたのとはちょっと印象が違って、もしかしてジュディス本人は、わりとわかってる人なんじゃないかなと思うことがあったので、その部分を引いておきます。(なかなかいい話でもあるので。)

記事の中で、バトラーはブルカについて、「それらは女性が慎ましいということや彼女の家族が結束していることを象徴しているが、また彼女が大衆文化によって搾取されていないことや、家族や共同体に誇りを持っていることも象徴している」、「したがってブルカを失うことは、親族関係のある種の喪失を被ることも意味し、支持すべきではない。ブルカの喪失はどうしても疎外と強制西洋化の経験になりうる」※5と言っていますが、そんなことを言うところを見ると、どうも彼女自身は「実体視」そのものを批判しているわけではなくて、「近代的な実体視」を批判しているだけのようでもあり、だとすると、わたしとそんなに違う立場でもないのかもしれないと思って、少し見直したという次第です。

出典はこちら→日本語ドイツ語

※1
たとえば、ヌスバウムは、「みんなにとっての絶対的な正義(理想)が実現すること」を素晴らしいことだと思っているようですが、そのような正義が実現した世界は、バトラーにとっては最悪の抑圧的世界でしかないでしょう。逆に、すべての「価値」が個々人の体験において常に刷新されているような世界は、バトラーにとっては良い世界でしょうけど、ヌスバウムにとっては、「道徳観念のない無政府主義の政治」としか思えないでしょう。ということです。わたし自身の評価としては、ヌスバウムの世界にはバトラーを許容する余地がないのに対して、バトラーの世界にはヌスバウムを許容する余地がある(否定的にではありますが)という点からいって、バトラーの方が思想として勝っているというか、「使える」思想になっているかなと思います。

※2
バトラーに対して不満なところを簡単に言うと、パフォーマティヴ・アクトによって生じる(体験される・創造される)「意味」について、彼女はたいていの場合、「構築されたものにすぎない」と否定的に言いすぎる点です。(そういいたくなる気持ちはわかります。特にアメリカでは。)

もちろん、「構築されたもの」であるのは事実ですが、彼女の文脈では、人間にとって、「構築されたもの」以外に何があるのかというと、たぶん何もないわけですから、「すぎない」と否定的にいうだけではどうしようもないじゃないかと思うわけですが、しかしながら、実際の彼女はかなり饒舌(人によっては無駄に饒舌と思うほどに)で、ということはつまり、「パフォーマティヴに構築されるにすぎない」意味を、彼女自身が多量に生産し続けているということです。ですから、「すぎない」とは言いつつ、彼女は彼女なりに、そのような「構築されたもの」に、ちゃんとそれなりの「意味」を認めているということなんでしょう。で、そうなのだとしたら、「過ぎない」と言いすぎるのはよくないんじゃないかと思います。

あと、彼女の「攪乱」ですが、どうも「攪乱」という概念は、脱構築的すぎてあまり好きになれません。まあ、彼女はポストモダンの人なので、ポストモダニストにむかってポストモダンすぎるというのは批判にもならないわけですけど。

わたしとしては、「攪乱」的な効果というのは、日常に対する非日常の体験があれば十分だと思っていますので、ことさら「脱構築」などしないでも、そのへんでやってるお祭り(ちゃんと神さまがいるお祭りじゃないとだめですが)などに参加すれば十分到達可能なことだと思っています。つまりわたしは、ポストモダニストじゃなくてプレモダニストだということですね。

※3
このあたりが、ポストモダン臭いなとわたしが思うところです。つまり、体験なら体験だけに注目すれば、外見上の(あるいは「意味」上の)「攪乱」も「転覆」も必要なくなるはずです。「実体化」することが悪いだけなのだから。実体でないものを「実体視」するのが悪いなら、実体視しないようにすればよいだけの話です。しかしながらバトラーでは、体験から実体が措定されること、さらには、そうして事後的に措定された実体が起源的な「本質」とみなされるようになること、という、バトラーからしたら憶見にすぎない構造が、条件付きではありますが、結局のところ受け入れられてしまっているように思われます。で、なんでそうなるのかというと、彼女の人間論がそういうことになっているからで、しかしながらわたしからすると、そういう人間論は近代的で非常に狭いものです。そうならない人だっているし、そうならない文化的伝統だってたくさんあります。ヌスバウムはバトラーに対して、「悲観的でエロティックな人間学」にもとづいていると批判していますが、そういう雰囲気は、ポストモダン一般になきにしもあらずだと思います。

※4
内容は違いますが。「実体」に対して、ヌスバウムは素朴に信じているだけですが、バトラーは神議論的に求めているといったような感じでしょうか。バトラーの方がだいぶひねくれていますが、その分「実体」を求める気持ちが実はより強いのかもしれないとも思います。

※5
Diese Verhältnisse werden von Butler im Namen einer “Andersheit der Anderen” gerechtfertigt. So erklärte die in Berkeley lebende und lehrende Butler 2003 in einem Interview zum Beispiel zur Burka: “Sie symbolisiert, dass eine Frau bescheiden ist und ihrer Familie verbunden; aber auch, dass sie nicht von der Massenkultur ausgebeutet wird und stolz auf ihre Familie und Gemeinschaft ist.” Und weiter im O-Ton: “Die Burka zu verlieren bedeutet mithin auch, einen gewissen Verlust dieser Verwandtschaftsbande zu erleiden, den man nicht unterstützen sollte. Der Verlust der Burka kann eine Erfahrung von Entfremdung und Zwangsverwestlichung mit sich bringen.”

そういえば、前にブルーハーツの歌についての解釈を書いたことがあるんですが、わたしがバトラーに感じている共感は、だいたいトレイン・トレインに対して感じる共感と同じような感じだと思います。

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