つい先日、新井素子の「・・・・・絶句」がきつかったって話をしましたが、もうはるか昔のことで、あんまりよく覚えてないので、どんなものだったかしらんと思って、古本屋で、「グリーン・レクイエム」を買ってきて読んでみました。昔読んだことあるんだけど、持ってなかったので。
で、読んでみて、あれ?こんなんだったっけ?って思いました。
なんていうか、ほとんど違和感ない。昔は、かなり抵抗あった気がするんだけど。
なつかしかった新井素子的なところ。
一人称が「あたし」。複数は「あたし達」。(「あたし」については、今でも、自分で書くには抵抗ある。人が書いてるのは、もはやなんとも思わない。)
二人称が「お宅」。複数は「お宅達」。(もちろん、「お宅」はなしだなw)
「はふ」
句読点が多い。
「夏休み。田舎へ遊びに行って、夜、妹と二人で、星を数えた。百八十位まで、数えた。」
「あたし、今、判った。あたしって、本当に莫迦だったんだ。そうよ、鬱々とした気分にひたって、目をつむっちゃう暇があるんなら。あたりを見まわしさえすれば、いくらでも、何かを見ることができるのに。何かを感じることができるのに。」
こんなの、今となってはふつうですね。(莫迦っていうのは新井素子的ですが。)
てゆうか、彼女たちが作った口語風の文体が、もはや市民権を獲得したってことなんでしょうね。
でもさすがに、
「似合わ、ない?」
てゆうのには、今でもちょっとびっくりした。
これはあれだね、中島みゆきの「うらみ、ます」とおんなじだね。
「似合え、ばいいなあ」とかもありってことでしょうか?
ま、このへんは、意味を伝えるための読点というより、読み方を指定するための読点ってことなんだろうから、「似合え、ば、いいなあ」とかなら、場合によってはありなんでしょうね。
さすがに、用言の活用語尾の前に読点をつけるとかはなしでしょうか?
「似合、う?」
これだとちょっと、字面がいまいちですね。ひらがなならいいかな?
「たべ、る?」
まあ、ありでもいいかもしれない。
でも、
「ある、く?」
とかだと、ちょっと意味わかんないかも。かといって、
「歩、く?」
だと、やっぱり字面が変かな。活用語尾の前は、なかなか難しいですね。
それはともかく、むかしは「きつい」と思ってた新井素子文は、もはやふつうに読めるのかもしれない。と思いました。
でも、「・・・・・絶句」は、特に新井素子的だったから、やっぱり「・・・・・絶句」も読んでみないとなと思って、今日アマゾンで注文しました。
昔は、吾妻ひでおの絵がきらいで、新井素子の本は吾妻ひでおが表紙を書いてることが多くて、それもなんだかわるいイメージだったんですが、新装版の「・・・・・絶句」は、吾妻ひでおじゃなくなってました。
あと、「グリーン・レクイエム」の内容ですが、これまた、思ってたより面白くて意外でした。
とはいえ、この面白いっていうのは、今のわたしから見て面白いっていう話で、中学生のわたしには、わかるわけない面白さなんですけどね。
新井素子は、必ず自分であとがきを書くんですが、「グリーン・レクイエム」のあとがき。
えっと、あと書きです。
これは、あたしの三冊目の本にあたりまして、十九歳の時に書いたお話です――という文章を、ずいぶん前に書きました。ずいぶん前――でも、考えてみれば、まだあれからたったの三年しかたってないんですよね。とはいうものの。あたし、もう、二十三になってしまいました。
・・・・・・。三十三じゃなくて、二十三ね。
そう。要するに、若いんですよ。とにかく、若いんです。
というわけで、今のわたしが、わりと面白いって思うところは、だいたい、若くてかわいいなっていうところで、それはもちろん、十五のわたしには、面白くもなんともなかった部分なわけですね。
さて、最後に。
「ササキバラ・ゴウのサイト」に、新井素子がデビューした「奇想天外」新人賞の選考座談会の記事が引用されてて、おもしろかった。委員は、星新一、小松左京、筒井康隆の御三家です。
小松 「あたしの中の……」これは16歳の少女でしたね。
星 これは、驚いたの一言につきたな、ぼくは。
小松 そうかねえ、ぼくはあんまり感心しなかったけど。
星 違った世代が、ついに出現したという感じを受けましたね。テンポというものがあるんだ。いままでの小説の中にない新しさというとテンポだろうと思うんだ。
(略)
小松 (略)たとえば、地の文の中に「……ちゃった」というようなことを書かれると、ぼくはもうやたらに抵抗がある。
星 いまのああいう世代の女の子は、こういう文章を書くということで、ぼくは納得しているんだけど。
筒井 ただ、そういった文章が出てくるのはいいことなのか、それとも悪いことなんですか。
星 もはやいい悪いじゃないと思うよ。世の中がこうなっちまったんだ。
小松 そうでもないよ。ちゃんとした文章もあるぜ。
筒井 そうなっても星さんは困らないんですか。つまり、SFがそういう作者の出やすいところでしょう。われわれが踏んばらなきゃいけないんじゃないかという気がするんだけど。地の文まで崩したのを許していいのかどうか。
(中略)
筒井 ほんとにこのままでいいと思いますか。これを入選させて、このままの調子であちこちからの作品依頼に応じさせてもいいと、ほんとに思う?
星 そりゃ、いいと思うな。SFと劇画で育った世代の象徴とみていいんじゃないかな。ぼくは、これによって人生観が変わった。生じっかの社会体験ならむしろない方がいいらしい。
(中略)
小松 いかに御都合主義を御都合主義にみせないかというところに腕のみせどころがあるんじゃないかと思うんだけど、この文体ではどうも。
筒井 ストーリイはたしかにいいけど、文章をもうちょっとどうにかしないと困りますよ。
星 いやァ、この文章がいいよ。……(笑)
筒井 文章が幼くてかわいらしいのを、星さんは、「文章がいい」と勘違いしているんでしょ(笑)とにかく星さんがあれだけ推しているんだから、残しておきましょう。
(略)
筒井 新しい文章は必ず出てくるけど、これではないよ。たとえばこの人が、四十、五十のオバハンになって、まだこんな文章を書いていたらどうする? 気味ワルイですよ。
小松 ジャレている文章なんだよ、つまり。
筒井 麻薬みたいなもんですな。
星 ぼくなんかには、とてもそういう表現は出来ない。
筒井 あたりまえですよ(笑)。星さんがこんなの書き始めたら、気が狂ったかと思われる(笑)
(「奇想天外」1978年2月号より引用)
星新一がべたぼれで、おもしろいですが、中学生の頃のわたしは、小松左京に近い意見でした。地の文に「・・・ちゃった」とかあると、やたら抵抗がある。みたいな。
筒井康隆が、「文章が幼くてかわいらしいのを、星さんは、「文章がいい」と勘違いしているんでしょ」っていうのは、一理あるようでもあります。
でもまあ、「オバハン」になってからの新井素子を読んでないので、なんともいえません。読めるようなら、そのうち読んでみようかな。一般には、説明がくどくなって、キレが悪くなったと言われているようですけど。
新井素子は、ラノベの先祖のような位置づけかと思いますが、今のラノベと比べると、だいぶまともな文のような気がします。今のラノベについては、詳しくないのでよくわからないのですが、勉強と思って5冊ほど読んでみましたけど、はっきりいってかなり辛かった。とはいえそれも、わたしが新井素子世代だってだけのことかもしれませんけどね。
通りすがりのものです
十代で新井素子にはまり
二十で読めなくなりました。
理由は文体がきつい。
のろのろと、えっと、あのう…と読まされ続けるのに耐えられなくなった。
今でもたまに評判になった新井素子作品を手にしますが、いい作品だと思っても、この文体がきびきびしていたらどれほどの傑作になっただろうとため息が出ます。
筒井康隆が指摘している「この文体で40、50でもの書いてたら、気持ち悪くないか?」私が感じている事を先に筒井康隆が読み切っていた事に感慨深いものを感じます。
新井素子は大変偉大な作家で今も高い評価を受けています。筒井康隆の意見が通ればいくつもの傑作はこの世に無かった。それを承知で…
もし、新井素子がこの時落選し、一般的な…いわゆる大人の文体も身につけていたら
彼女はどのような傑作を晩年に書けていたのか…?と
ありえたかもしれないもう一つの未来をつい夢想してしまいました。
それほどに二十代後半の新井素子は全てにおいて・惜しい作家だと私は残念に感じるから。
あの文体が足を引っ張り、羽ばたけなかった世界が幾つもあるように思えて止みません。
駄文書き捨て失礼しました
こんにちは。コメントありがとうございます。
最近さぼってたので、コメントを頂いてたのに気づきませんでした。
さて、10代ではまって、20になって読めなくなられたということですが、わかりますw
思うに、今のラノベなんかもそうでしょうが、若い作者が同世代の読者にむけて書いたものだから、成長に伴って卒業っていうか、むしろ積極的にいやになるってことはままあるかと思います。
新井さんについては、わたしは、若いころはさして面白いとも思わなかったんですが、今(40代)になると、けっこう面白いと思うようになったみたい。とはいえ、このエントリーを書いてから、比較的新しいのを数冊買ってみたんだけど、実はまだ読んでません。というわけで、すごく面白いと思ったわけではないようですけど。
ひとつだけ。文章一般がそうではあるわけですけど、小説の場合は特に、文章と内容は切り離せないと思います。(もちろん、ビジネス文書とかそういう実用的な文は別です。)
新井さんについて、ご指摘のように、あの文体のせいで「羽ばたけなかった世界」はいくつもあるでしょうが、重要なことは、あの文体だからこそ描ける世界を描いているかどうかという点だと思います。
わたしの場合、小説を読むということは、なによりもまず文を読むことなので、ストーリーとか考え(テーマとかなんとか)とかはあまり重要ではありません。そういうものは、文を書くために必要ではあるのでしょうが、小説においては、あくまで手段であって目的ではないと思います。つまり、ストーリーを知るためとか、なにかテーマ的なものについての作者の考えであるとかを知るために小説を読むわけではなくて、文それ自体が目的なのだけれど、文をドライブさせるためにはストーリーであるとかテーマであるとかが必要だということなんだと思います。
たとえば、写生文というのがあります。文で風景を描写するわけですけど、「風景」を伝えることが目的というよりは、「風景についての文」を書いたり読んだりするのが目的なんだろうと思うわけですね。写生文は「風景」の代替物ではありません。描かれている風景は、写生文が書かれるためには必要なものだったけれど、写生文の目的ではなく、写生文の目的は、あくまで写生文それ自体であるというわけですね。
ちょっとめんどうな話ですけど。そういうわけで、新井さんの文体がもっと大人な文体だったらというような仮定は、わたしの場合はあまり意味がないかな。新井素子的文章でなければ、新井素子的世界は表現できないのだろうから、別の文体になったら別の世界になるだろうと思うわけですね。
最近読みました、最近書かれた本。
相変わらずなにやっても新井素子、キムタク的なw
正直、ちょっとイラっとした(笑)
そして昔読んだときもイラっとしたことを思い出したwww「
まさしく「オバハンになっても……」でしたよ^^;
文体だけでなく内容も、うわー、これはある意味確立されてるすごさなのか、
それとも単に成長がないのか、人間的に成熟してないのか、と、ミョーに感心しちゃいましたよ。
もう、ゲーノージンならキムタク、ショーセツ家なら新井素子。
縫さんが読むとまた感じ方は違うかもなんで、
ぜひ読んでみてくださいw
竹さん素子読むんか。最近のを読むとは、なかなかマニアですね。
昔の素子は、要するに「うる星やつら」みたいなものだと思います。
まじめにSFとしては読めないですが、マンガみたいなものと思えばまあいいかなって。
あ、つまりはラノベってことだね。
例えば、「グリーンレクイエム」も「宇宙魚顛末記」も、なにやら地球規模の危機がせまっているのに、大学の先生とその学生だけで対処しようとしたり、大学生が3人で地球を救っちゃったりして、ちょっとまじめな話とは言えないわけです。(小松左京なら、とりあえず緊急閣議を開いて、つくばに対策本部を作って、NASAにも協力してもらって、さあどうしよう?ってなるわけで、それくらいやってくれないと、読むほうも不安でしょうがないわけですよね。)
で、若い子がそういう話を書くのは、若さの表現だし、勢いがあるならいいかと思うんですけど(最近だと進撃の巨人とかもそうだよね)、一般にはいい年をした大人がそういう話を書いてると、ちょっとどうなの?ってことが多いですが、勢いがあるならそれはそれでいいです。例えば、こないだ山田正紀の「神狩り2」を読んだんだけど、話としてはいろいろどうなの?ってところが多かったですが、勢いがあって面白かったです。
さて、新井素子の文体ですが、ぜんぜん「最近」ってわけじゃないけど、「おしまいの日」(1991)があったのでちょっと読んでみたんですが、地の文で格助詞がないのがなんだかイラッとしました。
一人称(あたし)の文体だと、格助詞がなくてもいいんですが、三人称でそれをやるとなんか変ですね。
「大仰に褒められたので、三津子、ほんのりと赤くなり、」
「三津子の心は、瞬時にしてこおりついた。と、間俊幸、今度は今の呟きと対照的に、」
というようなやつ。わたし自身、格助詞をかなり省略する方言で育っているので、一般の人よりそれについて違和感はない方だと思うんですけど、それでもやっぱりかなり変だと思います。
やっぱ一般的に、三人称で書くときは、ある程度「客観的に」書いてるわけだから、格助詞の省略を地の文でやると、口語的になりすぎて変に感じるんだと思います。つまり、格助詞の省略は、三人称で語ってる素子(作者)の語り口だから、一般の三人称文体よりも、作者が前に出すぎてるんですね。
だから、江戸川乱歩とかそれくらいの感じで、「私(作者)が聞いた話では」、みたいな感じでやるべき文体なんじゃないかなと思います。
落語とか講談とかの地の文の語りもそんな感じですよね。
「そのとき近藤勇、ちつともあはてず、階段ざつと駆け上り、」
みたいな。
あ、てゆうか、一般に古文は格助詞をあまり使わないか。昔、男ありけり。とか。蛍たかく飛びあがる。男、見ふせりて、とか。わたしとしては、格助詞なしのリズムは好きですけど、やっぱり全体とのバランスですよね。引用の部分でいうと、
「大仰に褒められ、三津子、ほんのり赤くなり、」
「三津子の心、瞬時にこおりつく。と、間俊幸、今度は」
とかだったら、いいんですけどってことかな?そうかもしんない。
というわけで、素子につきましては、1991年の時点で、もはやけっこうきつくなってきてるので、最近のものまでは、ちょっとたどりつけないかもしれません。
あ、そういえば、注文してた「・・・・・絶句」の上なんですけど、ゴメン、在庫切れでやっぱなかったわ。っていうメールが来てました。なんだよもう。
毎回長いw読むのチョー大変 しかも合戦の記事は短いwww
でも欠かさず目を通しているk督をほめてほめて~
まじ?監督全部読んでんの?そりゃすごいわ。
愛されてるのかもしれない・・・・・・。
ixaは、暑いのであんまりやってません。パソコンって熱が出て熱いし。
昨日もらった平手さんがよかったので、ちょっといいスキル付けてあげたい。
もふもふの佐竹義宣がいるから、弓妖陣つけたいかな。
キャンペーンになったらやるべ。
でも、最近攻撃されないので、高コスト加勢部隊を鍛えた方がいいかなあとも思います。
最近の防P、ほとんど加勢部隊で稼いでっからの。