前回(おおかみこどもを見た③)の最後で、雪山の場面を見たわけですが、あのシーンは、花と雪と雨が、はじめて一体になったっていうか、おおかみおとこの呪縛から脱して、ようやく3人でのコミュニケーション(ポジティブフィードバック)がおこなわれた場面だったと思うんですよ。
雪の中を一緒に走り回ることで、花はようやく、「おおかみおとこ」を介してではなく、「おおかみこども」としての雪と雨に、直接関わったんだと思います。
つまり、おおかみおとこによるおおかみ性の規定、「かくさなきゃいけないこと」・「スティグマ」という理解を捨てて、「走ること」・「吠えること」としてのおおかみ性を、直接的に理解したんじゃないかと思います。ですから、この三人は、そこから自分たちだけで(おおかみおとこ抜きで)始めることができるはずだったんじゃないかと思うんです。
で、そうやって花ちゃんが、おおかみおとこの考えとか、本とかじゃなく、おおかみ性を直接理解することができたのなら、そこから先は、たとえば、それは本当に隠さなきゃいけないことなの?って問うことだって可能になってたかもしれないんじゃないでしょうか。
どういうことかというと、花ちゃんはいままで、犬になって走り回る雪を眺めてはいましたけど、一緒になって走るってことをしてなかったんですね。だから、おおかみになって走るっていうことがどういうことだか、実体験としては、ぜんぜん知らなかったというわけです。で、雪がそれについて話そうとしても、他の動物にえらそうにするなとか、そういうネガティブフィードバックに持ち込んでしまって、ぜんぜんおおかみこどもとしての雪に歩み寄ろうとしてなかったんですよね。
それが、この雪の日になって、なぜか突然花ちゃんは、おおかみに歩み寄ることができたというわけです。
これはたぶん、3人で見る初めての雪だったからなのかもしれません。もちろん、子どもの名前の雪と掛けてるわけですね。
というわけで、この笑顔です。花ちゃんも、こういう風に笑うことができる人だったんですね。
ちなみに、こちらがおおかみおとこに対する花ちゃんの笑顔です。
怖いですね。
で、ここからようやく、おおかみか人間かの二者択一とかじゃなく、「おおかみこども」として、どうやって生きていこうか?という話になるかなと期待したんですけど、わたしの期待はあっけなく打ち砕かれてしまいました。もお勘弁してよって思います。
雪山からの帰り道、雨は川でヤマセミを見つけ、襲いかかって見事つかまえるんですが、襟巻きを踏んでしまって川に落ちます。で、雨は、流されて、溺れて、死にそうになるんですが、なんとか雪が川に飛び込んで助けました。
ヤマセミを捕まえようとして溺れるというのは、もちろん、雉を捕らえようとして川で死んだ「おおかみおとこ」の死の場面と重なります。
というわけで、花ちゃんは、ものすごい取り乱すわけですが、雨はなんとか息を吹き返しました。
で、ナレーションが入って、「あんなに怖い思いをしたことはないと、後で母はいいました。それ以来、雨は、まるで別人のように変わっていったのでした。」となって雪山の話はおしまいになります。
さて、そもそもなんで、雪山からの帰り道に雨が川に落ちなければならなかったのかというと、彼がヤマセミを捕まえようとしたからですね。で、彼がどうしてヤマセミを捕まえようとしたのかというと、今までとぜんぜん違って、それができるんじゃないかって自然に思えたからっていうわけですね。
今までは「こわいこわい」ってばかり言ってた雨が、どうしてそのときは怖くなかったかというと、これはあきらかに、花ちゃんと雪と三人で走り回ることによって、自然と「おおかみであること」を解放できたからに決まってるじゃないですか。つまり、おおかみおとこの教えである「おおかみだってばれたらいけない」っていう呪いから自由になって、「おおかみ」であることを自分で肯定できたから(楽しいってこと)ですね。しかも、そうした肯定が可能だったのは、雪はともかく、花が一緒になっておおかみになってくれたからこそだと思います。なんといっても雨は、花とくっついていないと不安で不安でしょうがない子なので、花が一緒におおかみになってくれるんだったら、自分がおおかみであることだって肯定できるってもんじゃないですか。
これは、おおかみおとこ的な、「おおかみであれば花に愛してもらえる」っていうテーゼとはぜんぜん違います。
「ママだけはおおかみの味方」って、言葉で言うだけだと、ママは人間で、おおかみとは違うけど、おおかみの味方だっていう意味にしかなりませんが、自分が一緒におおかみになってくれるんだったら、そんな言葉による承認なんかじゃなくて、本当に、リアルに、おおかみであることを肯定してくれてるんだってわかるじゃないですか。で、そういう本当の肯定じゃなかったら、子どもにとって、本当に生きる支えになんか、なるわけないじゃないですか。(ここ、わたしの泣きポイントです。)
だから、雪山からの帰り道に、雨がおおかみらしく、ヤマセミに襲いかかったり出来るようになったっていうのは、すごいよくわかる話だとおもいます。
問題なのは、雨がそうやっておおかみとして振舞ったとたん、「おおかみだとわかったら殺される」っていう、おおかみおとこがもってた強迫観念を思い出させるためかのように、雨が川に落ちたということです。
これはどうやら、花を狙って発せられた、おおかみおとこからの呪いのメッセージであるように思われます。(もう、涙がとまりませんよ。)
「あんなに怖い思いをしたことはないと、後で母はいいました。」と言ってるように、おおかみ性の解放は、花にとって、川で死ぬというイメージと、改めて深く結び付けられてしまいました。
というわけで、花はこれ以後、二度と再び、自分が子どもたちと一緒におおかみになるといったことが、できなくなってしまうのですね。で、この呪いは雨には効いてないようで、雨は普通にこれ以後おおかみになる道に進んでいくわけですが、花はそんな雨に対して、親として「一緒におおかみになる」というやり方ではなく、「おおかみおとこ」に対してとっていたような態度(おおかみを愛する人間)でしか関われなくなってしまいます。ということで、たぶんおおかみおとこの望みどおり、雨はこれ以後、「おおかみおとこ二世」になって、人間としての花から愛されることになるわけですね。(泣)
さて、このおおかみおとこの呪いのメッセージですが、当然ながらわたしは、ここにとてつもない悪意を感じます。いったいおおかみおとこは、なんだっていうんでしょうね?雪も雨も自分の子なんですよ?それなのにどうして、花と雪と雨の三人が一体になるという体験をして、そこから新しくはじめようというときに、即座に邪魔しようとして出てきたりするんですかね?
もう、何がなんだかぜんぜんわかりません。男の嫉妬ほど醜いものはありませんね。
せっかくおおかみおとこの呪いをわすれて、新しくはじめることが出来そうだったのに。と思うと、わたしはもう、悲しくてしょうがありませんでした。